拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
諸君!唐突だが私はギレン・ザビである!
今年の大河ドラマのナレーターを我が部下のシャア・アズナブル(の中の人)がやっているのに便乗して敢えて言おう!
どうして山口弁じゃないのだ?!ヾ(--;)
いやだって
幕末の大河は西郷隆盛は必ずなまってるし(※何故か隆盛だけ大久保さぁは共通語のこと多し)
一昨年の大河『八重の桜』では綾瀬はるか演ずる新島(山本)八重は地元民が理解できないほど(※事実である)なまっていたぞ!
なのに何で長州は特別扱い…
…あ、ギレンのつもりが素に戻ってた(^^;)
ということで、前回からだいぶ間が空いてしまいましたが
ついでに大河ドラマ『軍師官兵衛』終わってしまいましたが_| ̄|○
こちらは予定通りやります
<注記>
・紹介は文書番号順になります 時系列があってないことがあります
・読み下し文は『黒田家文書』(福岡市立博物館)によります
・意訳はばんないに文責があります
では
※続きは「つづきはこちら」をポチッとな
今年の大河ドラマのナレーターを我が部下のシャア・アズナブル(の中の人)がやっているのに便乗して敢えて言おう!
どうして山口弁じゃないのだ?!ヾ(--;)
いやだって
幕末の大河は西郷隆盛は必ずなまってるし(※何故か隆盛だけ大久保さぁは共通語のこと多し)
一昨年の大河『八重の桜』では綾瀬はるか演ずる新島(山本)八重は地元民が理解できないほど(※事実である)なまっていたぞ!
なのに何で長州は特別扱い…
…あ、ギレンのつもりが素に戻ってた(^^;)
ということで、前回からだいぶ間が空いてしまいましたが
ついでに大河ドラマ『軍師官兵衛』終わってしまいましたが_| ̄|○
こちらは予定通りやります
<注記>
・紹介は文書番号順になります 時系列があってないことがあります
・読み下し文は『黒田家文書』(福岡市立博物館)によります
・意訳はばんないに文責があります
では
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以上(注1)此の表の儀:上方方面のこと
一書申し達し候。此の表の儀(注1)、甲斐守殿(注2)より仰せ越され候間、申すに及ばず候。
(本文省略)
九月二十八日(注3) 井伊兵部少輔
直政(黒印)
少しく相煩い申し候間、判形致さず候。
黒如水(注4)様 御宿所
<31 井伊直政書状(3巻6号)>
(注2)甲斐守殿:黒田長政
(注3)九月二十八日:慶長5年9月28日
(注4)黒如水:ご存じ黒田如水
本文は一気に省略してしまったのですが(済みません)
(1)黒田長政が関ヶ原の合戦で格別の働きをしたことに対し徳川家康が絶賛していること
(2)黒田如水が大友吉統を撃破・捕縛したことについて家康が激賞し直接礼状を出したこと
(3)毛利吉成(関ヶ原の合戦で西軍側)攻撃は吉成領が黒田領と同国(豊前国)でもあることから重要なポイントであること
と、大意はこの3項目になっています。
…実はこの文書を取り上げたのは本文ではなく、末尾の付け足しが島津ヲタ的にポイントだったから(^^;)
井伊直政はこの文書の最後にサイン(花押)ではなく黒インクのはんこ(黒印)を押していますが、それを「少し病気になったのでサインできません」(意訳)と添え書きしています。実はこの「少し病気」になった原因とは、関ヶ原の合戦時「島津の退き口」で銃撃されたことでした。この後このケガは回復せず、2年後に直政は死んでしまいます…。
猶以て申し候。薩摩への状、御届け頼み入り候。以上。(注1)柳川の儀:後の文を読めば分かるが立花宗茂(当時「尚政」)の処分のこと。宗茂は関ヶ原の合戦では西軍に付き大津城を攻撃したため、戦後改易の憂き目にあった。
十月廿五日の御状、具に内府へ申し聞かせ候。即ち直書を以て申され候。其の表方々御行勝利を得られ、感悦に存ぜられ候。
一、柳川の儀(注1)、質物受け取られ、立花召し連れられ、加主計頭殿(注2)、鍋島加賀守殿(注3)と仰せ談ぜられ、薩摩表に至り、御発向の由申し聞かせ候。年内は寒天に及び候之間、先ず其許御ありつき候様、御尤もに候間、御行の儀御延引あるべく候か。
一、万一嶋津差し支え候仕合わせにおいては、来春即ち成敗申し付けらるべく候事。
一、嶋津懇望の筋目も候間、其許御聞き合わせ成さるべき事。
一、中納言殿(注4)へ御見廻として、岡田三四郎(注5)方越させられ候。大久保相模守(注6)申し談じ申し聞かせ候。
一、筑前の内安国寺分(注7)の儀承り候。彼の御国の儀、甲斐守殿御拝領ご存じなきため、仰せ越され候哉と、内府笑い申され候。
一、肥前の内毛利壱岐守(注8)、鍋加衆に仰せつけられ納め置かるるの由、御尤もに候事。
一、太田飛騨(注9)城受け取らんがため、拙者の者を使わし申し候間、其許しかるべく候様、頼み入り候。いずれも重ねて申し達すべく候。恐惶謹言。
十一月十二日 井伊兵部少輔
直政(黒印)
黒田如水公 御報
<34 井伊直政書状(3巻9号)>
(注2)加主計頭殿:加藤清正
(注3)鍋島加賀守殿:鍋島直茂 関ヶ原の合戦で息子の勝茂がうっかり西軍に付いたために改易の危機に瀕するが、在国中のとーちゃん・直茂がうまく立ち回ったので全く無傷だったのは『軍師官兵衛』でも描かれた(但し台詞のみ_(。_゜)/)
(注4)中納言:徳川秀忠
(注5)岡田三四郎:黒田如水の家臣
(注6)大久保相模守:大久保忠隣
(注7)安国寺分:筑前国(当時小早川秀秋領)の内に安国寺分として分けられていた3000石のこと。なお、『黒田家文書』解説(p.96)によると、これは安国寺恵瓊個人の領地ではなく、安芸国安国寺に与えられたものらしい。
(注8)毛利壱岐守:毛利吉成。吉成は先述のように豊前国に領地があったが、肥前国内にあった豊臣秀吉の蔵入地の代官も務めていたとのこと(『黒田家文書』解説(p.96))
(注9)太田飛騨:太田一吉
関ヶ原の合戦直後の戦後処分がいろいろと書かれています。特に前半の3項を割いて島津氏についてどう対応するかが書かれていますが
(1)加藤清正や鍋島直茂と打ち合わせて島津攻撃するぜ でも年内は寒いから止めとく
(2)万一島津との交渉がうまくいかなかったら来年の春には攻撃するぜ
(3)島津から何かお願い事もあるだろうからその辺はそっちでも聞いといてよ
…と、どうも徳川サイドの本音は「余り島津攻撃したくないなあ」ではないか、という印象を受けます。ついでに如水は井伊直政から島津家への伝言までお願いされてしまいます(「薩摩への状、御届け頼み入り候」)。
以上(注1)加主計:加藤清正
内々これより申し入るべき折節、貴札に預かり、忝く存じ候事。
(2項省略)
一、薩摩表、加主計(注1)・鍋嶋(注2)・貴殿仰せ合わされ、御働きなさるべき之旨、尤もに存じ候。去り乍ら先々ご無用の由申され候。委細井兵少(注3)申し入れらるべく候事。
(4項省略)
霜月十四日 忠勝(花押)
(元端裏書)
(墨引) 本多中務
黒田如水様 人々貴報 忠勝
36 本多忠勝書状(3巻11号)
(注2)鍋嶋:鍋島直茂
(注3)井兵少:井伊直政
こちらは同じ「徳川四天王」の内本多忠勝から黒田如水宛の書状。内容は先程の井伊直政と同じで「島津を加藤清正と鍋島直茂と黒田で攻撃しようという話はもっとだと思うけど、それは無用だからと言う話があったから」(意訳)というものです。どうも島津攻撃するのがめんどくさい?>徳川
関ヶ原の合戦直後の文書で島津関連はこの辺で終わりのようなので、いったんここで切ります。
次回は風雲の?九州御動座(九州征伐)辺りの文書を紹介する予定です。
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黒如水
つい「黒い(暗黒面)如水」と思ってしまった(爆
>「少し病気になったのでサインできません」
やっぱ判子は病気とか急いでるとか数が多いとか、事情あるときのものなんですね。
晩年近い時に龍造寺隆信も「ワシも年だかん、判子にさせて(´・д・`)」って手紙に書いてたそうです。
(某論文で読んだ)
次も楽しみにしてます^^
>「少し病気になったのでサインできません」
やっぱ判子は病気とか急いでるとか数が多いとか、事情あるときのものなんですね。
晩年近い時に龍造寺隆信も「ワシも年だかん、判子にさせて(´・д・`)」って手紙に書いてたそうです。
(某論文で読んだ)
次も楽しみにしてます^^
はんこ
時乃栞様コメントありがとうございます。
本のタイトルを失念してしまったのですが、武士社会の常識は
花押>はんこ(朱印)>はんこ(黒印)
だそうです。ただ、朱印は所謂「天下人」というか使える人が非常に限られるとか
細川忠利(あの忠興の息子)がやはり病気になり「病気で花押が書けずはんこでごめんなさい」(意訳)というようなことを書いている書状が残っているようです(『江戸城の宮廷政治』)。
本のタイトルを失念してしまったのですが、武士社会の常識は
花押>はんこ(朱印)>はんこ(黒印)
だそうです。ただ、朱印は所謂「天下人」というか使える人が非常に限られるとか
細川忠利(あの忠興の息子)がやはり病気になり「病気で花押が書けずはんこでごめんなさい」(意訳)というようなことを書いている書状が残っているようです(『江戸城の宮廷政治』)。
宛所の敬称
遅まきながら今年も宜しくお願いします。
さて、宛所で名前の後に「様」や「公」があったのが気になってしまいました。東国の書状では「殿」しか見かけないのですが、西の方だとバリエーションがあるのでしょうか(それとも写しだから?)。ちょっと教えていただけますと嬉しく思います。
手を怪我した、眼病を患ったといって花押を略したのは武田晴信が有名です。鴨川氏によると晴信の花押は輪郭を精緻に構成して丁寧に塗りつぶすという手間のかかる代物だったらしく、それが面倒だったのと早めに印判に切り替えたかったのとで、ちょくちょく省略していたようです。
さて、宛所で名前の後に「様」や「公」があったのが気になってしまいました。東国の書状では「殿」しか見かけないのですが、西の方だとバリエーションがあるのでしょうか(それとも写しだから?)。ちょっと教えていただけますと嬉しく思います。
手を怪我した、眼病を患ったといって花押を略したのは武田晴信が有名です。鴨川氏によると晴信の花押は輪郭を精緻に構成して丁寧に塗りつぶすという手間のかかる代物だったらしく、それが面倒だったのと早めに印判に切り替えたかったのとで、ちょくちょく省略していたようです。
「様」「公」
高村様コメントありがとうございます。
この辺について『黒田家文書』では解説や補注などはありませんでした。以下は私説になりますが…
現代では「様」>「殿」で軽重があるのは常識かと思われますが
江戸時代ではこれが更に細かく、同じ「様」でも楷書体、行書体、草書体で軽重が分かれており、相手によっては大問題となるため、文書で「○○宛の書状では○○「様」と書く」で周知するほどだったようです。「島津家列朝制度」(『鹿児島県史料』等に所収)にそういう周知文書が所収されています。
今回の場合、徳川家康というこの時点ではまだ一大名の家臣である井伊直政・本多忠勝から、豊臣秀吉直轄の大名である黒田家の、しかも先代である黒田如水に宛てた書状です。つまり立場としては目下から目上に差し上げるという形式になりますので「様」や「公」という敬称が使われたのではないかと考えます。
…まあ、参考程度と言う事で(滝汗)
>武田晴信
何か手間のかかった花押ですね、もはやサインとは言えないかも(苦笑)
もし晴信が現代に生きていたら、クレジットカードとか使うの嫌いになるかも知れませんね(爆)
この辺について『黒田家文書』では解説や補注などはありませんでした。以下は私説になりますが…
現代では「様」>「殿」で軽重があるのは常識かと思われますが
江戸時代ではこれが更に細かく、同じ「様」でも楷書体、行書体、草書体で軽重が分かれており、相手によっては大問題となるため、文書で「○○宛の書状では○○「様」と書く」で周知するほどだったようです。「島津家列朝制度」(『鹿児島県史料』等に所収)にそういう周知文書が所収されています。
今回の場合、徳川家康というこの時点ではまだ一大名の家臣である井伊直政・本多忠勝から、豊臣秀吉直轄の大名である黒田家の、しかも先代である黒田如水に宛てた書状です。つまり立場としては目下から目上に差し上げるという形式になりますので「様」や「公」という敬称が使われたのではないかと考えます。
…まあ、参考程度と言う事で(滝汗)
>武田晴信
何か手間のかかった花押ですね、もはやサインとは言えないかも(苦笑)
もし晴信が現代に生きていたら、クレジットカードとか使うの嫌いになるかも知れませんね(爆)