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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回は九州御動座(九州征伐)前後の文書を紹介します。非常に膨大な文書量で、黒田孝高(官兵衛)がこの戦いで重要な役割を果たしていたことはここからもわかります。そしてこの文書群では、豊臣秀吉の意外な?本性も見え隠れしています…。

ではまいる。
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(以下10項省略)
一、唐国まで成るとも仰せ付けらるべしと思し召され、ご存分通りに候条、嶋津御意に背き候処、幸いの儀に候間、堅く仰せつけらるべき儀浅からず候、各其の分別専要候事。
 八月五日                 (朱印)
              安国寺(注1)
              黒田勘解由(注2)とのへ
              宮木右兵衛入道(注3)とのへ

<59 豊臣秀吉覚書(5巻1号)>
(注1)安国寺:安国寺恵瓊 他2人に対し呼び捨てなのが興味深い
(注2)黒田勘解由:黒田官兵衛孝高
(注3)宮木右兵衛入道:宮木堅甫(法名「宗賦」) 元六角氏家臣。黒田、安国寺に比べこの後は活躍した形跡がないようだ 『寛政重修諸家譜』の「宮木竪甫」項によると「某年太閤の命により土佐国に赴き彼の地で死す」とあるという(『黒田家文書』p.140解説)

天正15年8月15日に書かれた九州御動座直前の物で、特に今回抜粋した項目でかなり有名な文書の一つかと思います。「(秀吉は)明までの攻撃を仰せつけるべきと考えられており、思い通りとなっている。島津が秀吉の命に背いたのはもっけの幸いである。」(ばんない意訳)という内容から、九州攻めはあくまで明攻略の前座であり、島津氏が秀吉の惣無事令を突っぱねたのはかえって秀吉の思うツボにはまったこと、秀吉が早くから大陸への軍事攻略を考えていたことが伺えます。
ちなみに一気に省略した12項目ですが、この九州攻めについて毛利一門(吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊)に対する命令を書いた物です。簡単に説明すると(と言っても12項目もあるめんどくさいヾ(--;))
(1)秀吉は筑紫国の情勢はまるっとご承知だよ
(2)豊後と門司の要害、または門司の要害と下関の間を断絶しないことが大事
(3)人数が揃わなかったら味方が迷惑するので急いで門司の要害に人員を入れるように
(4)言うまでもないことだけど、落ち度がないように準備をすることが大事。鉄砲の火薬や兵糧がないところには秀吉から送るから
(5)豊後と下関の間が連絡できるようになったら絵図を作って確実に使者から報告するように
(6)人員が集まり次第先鋒として派遣するように
(7)輝元・元春・隆景の軍勢で兵糧や鉄砲火薬が不足している場合は心置きなく報告するように、追加送るから
(8)忠節を尽くしたものには輝元・元春・隆景の報告次第に領地を使わすように
(9)筑紫のことはいろいろ意見もあるだろうが下々まで毛利家の面目を失わないよう心がけが大事であるぞ
(10)人員、兵糧、鉄砲火薬etcについては輝元・元春・隆景の報告通りに補充するが、よい機会だから筑紫国のことは毛利家で一手に引き受けるように願い出るよう秀吉は考えている
…一気に意訳したが、それでも内容細かくて疲れた_| ̄|○ ここまで細かくくどくど命令するか!と思いますが、この後もくどくど命令する文書がいっぱいあります⊂(。Д。⊂⌒`つ これは、秀吉はこの九州攻めをひじょーに重視していたと言うことの裏返しではないかと考えられます。まあ明侵攻の“前座”ですからね…
当月九日の書状、同十四日到来、披見を加え候。然れば十日に先勢相立ち、十六日右馬頭を出さざるの由、然るべく候事。
一、立花よりの書状披見候。兵糧・玉薬これ無き由申し越し候間、隆景に申し急がせ、追々入れらるべき儀、専要候事。
一、人数遅れ候えば、立花迷惑すべく候之間、少しも相急ぎ立花へ先勢早々相移るべき儀、尤もに候事。
一、筑前表の儀、聞し召され、在洛候と雖も、今日大坂へ還御候。然れば右馬頭・小早川・吉川相立ち、立花表より嶋津引き取らざる様に合戦無くかけとめ候て注進あるべく候。それ次第に一きがけになされ、即時に打ち果たさるべく候。八幡大菩薩少しも虚言に非ず候条、聊かも油断あるべからず候事。
一、四国の人数儀、之又尤もに候間、長宗我部を初め相立ち、追々仙石権兵衛尉申し付け候事
一、兵糧儀、小西弥九郎へ申し付け、関戸まで使わすべく候間、兵糧を所々に置く事。
一、筑紫の儀存じ候者に相尋ね、確かなる儀申し越すべく候。諸事油断あるべからざる儀、専一に候事。
一、重ねての注進に依り、先ず馬廻り二三万にて備前岡山にいたり、相越すべく候。彼の表の様子追々申し上ぐべき事、肝要候也。
 八月十四日                       (花押)
        安国寺
        黒田勘解由とのへ
        宮木兵衛入道とのへ

<61豊臣秀吉書状(5巻3号)>
最初の書状から2ヶ月後の物です。立花宗茂がこの時期は一手に島津氏の攻撃を防いでいる状態だったのが伺えます。2項目の「それ次第に一気がけになされ、即時に打ちはたさるべく候」と言う所に秀吉の対島津氏強硬姿勢が伺えます。しかもこれは後述しますがドンドン酷くなっていきます…。
島津ネタ以外では3項目の「長宗我部を初め相立ち、追々仙石権兵衛尉申し付け候事」と言うのに目が止まりました。ああ、これさえなければ後の信親の悲劇は(つд`)仙石以外に人材はいなかったのか秀吉…

九月二十一日の書状、今日(三日)京都に於いて披見候。
(2項目省略)
一、門司要害へ近き城を手寄せに任せ取り巻かれ、然るべく候や。嶋津事させる儀ある間敷と思し召し候。其の子細は、今度嶋津相働き候いて、やせ城二三カ所調略を以て召し置き、星野を入れ置き、其の動きを嶋津存分のように相心得、退き候処を、立花よりも罷り出で、星野持ち候城乗り崩し、星野を初め、残らず頸をはね候わば、嶋津筑紫九カ国を治めたるよりも、立花左近将監動きには面目の至りに候か。又嶋津そくいすけなる動きを致し、星野が頸をはねさせ候事は、嶋津弓矢の面目を失い候儀、又は心中の程合い見え候之間、させる儀武扁かたこれある間敷く候事。
(3項目省略)
一、右馬頭其の表に長陣ありて越年これあらば、嶋津も薩摩へ引き入り儀これなく、中途に釣り止められ、越年致すべき儀は案の内に候事。
一、敵味方春に成り候わば、くたびれ候いて大あくびこれありて、迷惑せしむべく候処は、段々に御人数を使わされ御馬を出され候わば、彼の悪逆人はひとりころびを致すべく候条、手間入らざるに一人も相残さず首を刎ぬべく候儀、手に取らせらるる様に思し召され候条、片時もはやく年の暮れにも成り春を待ちかね候間、其の意を得られ然るべきの由、申し渡すべく候事。
(3項目省略)
右条数、何れも心得しめ申し付くべき事、専要候。諸事越度無き分別尤もに候なり。
 拾月三日                      (花押)
      安国寺
      黒田勘解由とのへ
      宮木右兵衛入道とのへ

<64豊臣秀吉書状(5巻6号)>
長尺の文書なのでかなりはしょりましたが、前2通同様、九州攻めに関する秀吉の指示が細々と書いてあります。その内から島津氏に関わる部分のみ抜粋しました。
特徴としては島津氏を侮蔑するような文言が頻出することで、「やせ城(中略)召し置き(島津氏が貧弱な城を置いて)」「嶋津そくいすけなる動きを致し(島津が一時しのぎの動きをして)」「彼の悪逆人は一人転びを致す(例の悪い反逆者(=当然島津氏を指す)は自滅する)」などがそれにあたるかと。
また「右馬頭其の表に長陣ありて越年これあらば(中略)越年致すべき儀は案の内に候事(毛利輝元の九州攻撃が長引いているのは島津氏を中途半端な立場に置くためで、越年は作戦の内である)」と強気なことも書いていますが、本当に秀吉が九州攻めを最初から越年する気だったのかどうかは気になるところです。
「手間入らざるに一人も相残さず首を刎ぬべく候儀、手に取らせらるる様に思し召され候条、片時もはやく年の暮れにも成り春を待ちかね候((秀吉は)手間をかけずに一人も残さず頸をはねるぞと、まるで手に取るように思われており、少しでも早く年末になり春になって九州に行こうと待ちかねられている)」と言う所にはちょっと秀吉の本性が垣間見えているような。

この頃、この文書にあるように島津氏は味方した筑前の国人・星野鎮胤+鎮明兄弟に高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町)の防衛を命じますが、8月に島津氏は立花山城攻撃を中止して撤退、結果的に星野兄弟は見捨てられるかたちとなって戦死してしまいます。



長くなったのでここでいったん切ります
九州攻めはなかなか終わらないのでありました

続く

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無題
やはり、門司を意識してるみたいですね。
ここを押さえておかないと、兵站から何から全部に影響する。

>越年する気だったのか

どうなんだろう^^;
でも年内に降伏してる高橋元種は粘ってた割に許されて縣で領地拝領してますね。
この段階で秋月も恭順していたら、古処山城だけでも失わずにすんだような気がしないでもない。
鍋島は上手く(?)残ってるし。

ただ、よっぽど上手くやらないと~~
武将たちへ配分する闕所地が必要だし、豊臣自身の直轄地も増やしたいだろうし。

何となく年内恭順(降伏)と秀吉本軍が動いてから恭順は線引きされてる印象はあります。
本軍が動いてからだと、国衆らの「遅参で改易」ってのが出てくる。
もしくは付け焼刃の朱印状で、後からひっくり返されたり。

このあたりは各家にバラバラに残ってる文書を調べないとならないので、自分のレベルじゃ手に負えない^^;
時乃栞 URL 2015/01/22(Thu)00:48:51 編集
復活した人生き残った人OUTだった人
時乃栞様コメントありがとうございます。
返事が遅くなり済みません

粘っていた割に生き残った高橋元種とか、うまく立ち回って生き残った龍造寺(でも中のパイロットは鍋島ゲホゲホ)とか、まるで無視された城井(豊前宇都宮氏)とか、何かあのへんの基準ってよく分かりませんね。明確な線引きなんて無くて、案外豊臣秀吉のその時の気分だったような気が(ヲイ)

これから紹介する予定の『黒田家文書』でもその辺に関わる話がちらちら出て来ます。
ばんない 2015/02/02(Mon)12:14:16 編集
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