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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回ご紹介する本は、満州青年同盟の山口重次ばかりかその対立勢力だった大雄峰会の笠木良明にすら罵倒されていた駒井徳三の回想録です。気になる箇所が多かったので、紹介は2回にわたっておこないます。

先に山口の回想録とか笠木の周辺の人の回想を読んでいたので、余り良い印象持ってなかったんですが…かなり頭の良い方とお見受けしました。ただ、頭の良いのが清廉潔白につながるとは限らないわけで(ヲイ)その辺が満州青年同盟とか大雄峰会とか先に満州で活躍していた民間勢力には気にくわなかったんだろうなと思います。
なお、本の装丁はあの川端龍子だったりします…昭和27年の初刊本なんで装丁し直されたようで、カバーとか一切無くなってたけどな(´;ω;`)。

先ず概略を箇条書きにて
なお、この本は昭和27年に書かれたと言う事を念頭に置いて読んで下さると、駒井の頭の良さが分かってもらえるかと思います。
・駒井家は滋賀県の草津(正確に言えば穴村)の出身 なんだ滋賀作だったのか(ヲーイヾ(--;))
・街道筋にあったため大変栄えた豪族だったが、織田信長と対立して壊滅、一族は四散したらしい…六角氏配下だったのかも でも一族の一部は今も草津に在住のようです
杉浦重剛の塾生となり、並行して京都府立第2中学校に入学する。杉浦塾では古風な国学風の教育、中学では欧米風の教育を受けて両方の良いところを取って…とはならずに、杉浦塾では「欧米かぶれ」中学では「古い」と言われて居場所が無くなり、「早く上京したいなー」と思うようになる
・中学4年の時、旅行先の和歌山で南方熊楠に遭い、「生物学好きなの?じゃ外国に留学だね。え、家庭の事情で駄目?それなら札幌農学校行きなさい」と言われる
・やっとのことで東京に行き英語と中国語の専門学校に通い始めたら、中国の留学生が両方共占拠していて中国革命のアジトのようになっていたでござる(^^;)
・下宿の隣人の友達に幸徳秋水(ちなみに今田の父の友人・中江兆民の弟子である)がいて知り合いになったのだが、「社会主義どうだい?え、自分には合わない?それじゃ高等学校→大学進んでみっちり官僚になる教育を受けた方がいいよー若いからまだ遅くはないよー」…いまさらそれも嫌だと思ったときに"札幌農学校"の5文字を思い出す
・希望叶って札幌農学校に入学…が、医者になれという親と衝突、学費が出ないためアルバイト生活に このアルバイトがこの後の駒井を決定づけるとは誰が予想したであろうか
・クラーク博士の「青年よ野望を大志を抱け」という訓辞のままの人生をその後歩むことに 将来の香具師としての下地はこの時に作らr いやなんでもありません(棒読み)
・アルバイトは札幌の新聞社だったのだが、樺太などに決死の渡航をさせられる この後の駒井の仕事は危険な地への渡航がメインにヾ(^^;)こうして香具師としての力を磨いていくのであった(違) 後の満州国でも民間勢力に嫌われたのはこのとうていまともとはいえないヾ(--;)前歴が原因であることは間違いなかろう…
・札幌農学校での卒論は「満州大豆論」これが認められて満鉄に就職。でもやってることは探検であることには大差ない(をい)
・この時に知りあったいろんな中国人の助言で土地転がしヾ(^^;)をしてそこそこ金持ちになる
・郭松齢事件に関わったことで満鉄からも去り、一時熱海で浪人生活に
・この後(駒井曰く)軍の招請により満州国に赴任 以後の満州国時代の出来事は後述
・戦後、前歴を不審に思われ、GHQ、CICとたらい回しに会うが、満州時代に鍛えた流暢な中国語と、そこそこの英語のお陰で切り抜け、証人喚問だけで助かる。
・GHQが日本の黒幕を黒竜会(内田良平主催)と玄洋社(頭山満主催)と見ていることを知り「一体いつの知識やねん」とあきれ果てる
・東京裁判を傍聴させられるが、南京事件には「( ゚д゚) ポカーン」満州事変の時にはそういうことがなかったので俄に信じられなかったらしい。なお駒井曰く「満州の時にこのようなことがおこらなかったのは本庄司令官と石原参謀が立派な人だった」からとのこと
・それにしても東京裁判は中立の第3国にやらせるか、日本人自らにやらせるかと思ったのに、これじゃ連合国の報復だよね と言う駒井の感想。
・駒井曰く"アメリカは「リメンバーパールハーバー」って言ってるようだが、日本も今後は「広島」「長崎」を永久に忘れないと思うんだが”
・日本軍どころじゃないソ連の捕虜虐待の残酷さは到底許すことが出来ない、それなのにそれについては話題にすらさせない東京裁判って…怒りの駒井。
・多分いずれは再軍備しなくちゃいけないと思うんだな(みんな、特にご婦人とか青年は反対しているようだが…)。でも派兵は要請されても徹底的に断った方がいいと思う 特に朝鮮半島とか派兵されようもんなら、味方のはずの韓国軍に殺されかねん
・溥儀については同情的 ただ「東京裁判の証言はソ連の脅しによるもの」と書いているが、それはどうかな
・本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾については好意を持って書いているのだが、若手軍人については名前も出さずに罵倒の一辺倒…よほど満州事変時の扱いに耐えかねたと見える(苦笑)

今田にはほとんど関係ない部分も興味深いところはピックアップ。
ではまいる。

軍の参謀、石原中佐が、「満州国に政党を拵えよ」と、勧めに来たことがある。これは「協和党」と言う、所謂一国一党-ドイツで言えばナチス、中国で言えば国民党-そういう物を目標とした物であった。石原は軍司令官のサインを貰っている
「これを満州国の閣議で通して呉れ」
(中略)
閣議は難なく通ったが、国務総理が元首に持って行くと、「満州国にもまた国民党を作るのか、私は反対だ」とのことで、国務総理は空しく帰って来たが、これは私の思ったとおりであった。
すると、又、「軍としてはそういうことでは困るから…」と言うので、板垣大佐が私の室にやってきた。
「直接、元首にお目にかかってお願いする」
(中略)
私の直言を押し切って出かけたが、間もなく帰って来て、「駄目だ、どうしても承認されない」と頭を掻く。次にやってきたのは、片倉少佐という元気の良い参謀である「それでは私が行ってくる」と威勢よく行ったが、これも駄目であった。
すると、石原中佐が再び私の所へ来て、政党工作に関する案は、実は彼のアイデアであることを打ち明けた(後略)
p.17~18
この後石原は駒井との協議で「ともかく人民を政治啓蒙する団体は必要」と主張したため、駒井も「名称を協和会とするなら」と折れ、これで溥儀も裁可をおろしたらしい。
石原が協和党(協和会)を支持していたというのは山口重次『満州建国』等にも出ているが、むしろ発起人であったと書いているのは興味深い。
そこに以前から懇意であった小磯少佐(後の内閣総理大臣)が偶然来合わせていて私を見て、「何しに来たのか」と声をかけた。
「実はこういう目的で来た。先ず参謀長に紹介を頼む」
「それは面白い、俺も一緒に参謀長の所に行こう」
p.125
・そこに:大正初年度、駒井は先述の「土地転がし」の資金調達のために旅順にいた
・参謀長:西川虎次郎関東軍参謀長
この本での小磯国昭の初出記事はこれのようだ。この以前に駒井は既に小磯と知り合いだったようなのだが、その辺の経緯が分からない…
張作霖とそのような交渉をしている頃、小磯は少佐に昇格して参謀本部員となっていた。
(中略)小磯とは彼が大尉参謀の時代から極めて懇意で、いわゆる爾汝の間柄であったから、満州、蒙古の各地をよく一緒に旅行したものだ。当時青春の血に燃えていた二人は、互いによく語りよく遊んだ。
p.150
駒井が小磯と仲良かったのはかなり有名だったらしく、山口重次の本にも「駒井が満州国総務長官になったのは小磯のコネ」という話が出てくるが詳細は不明。
それにしてもこの2つのエピソード、早くから駒井と小磯が仲良かったのは判るが、何がきっかけだったんかいな?(゜_。)?(。_゜)?
当時満鉄理事であった松岡洋右が、私に、「二人きりで特別に話したい」と言ってきた。(中略)あれほど私に豪語した松岡君は、この問題から全然手を引いて知らぬ顔をしている。随分卑怯なやり方で、当時の彼の心情は今以て私には分からない。
p.206~207
かなり長文なので中略してしまったのですが(汗)、この数日前に満鉄の社長(当時)・早川千吉郎が脳溢血で倒れてしまい、極秘プロジェクト(日中合同運営の炭坑開発)の今後の相談が出来なくなったときに、上記の通り松岡洋右が駒井を手招きして「例のプロジェクトは君の思い通り進めてくれていいから。お金なら北京公所(満鉄交渉機関)に話してあるからドンドンつかえ」と言ったのだが、実際北京に行ってみると全く話が通っておらず、松岡に連絡を取ろうとしたら逃げていたらしい。
日本の対満州外交は全く行き詰まって、何とかここで手を打たなければ、日本は満州から空しく引き上げるより方法がないという所まで来ていた。この時起こったのが昭和6年9月18日の、柳条溝に於ける鉄道爆破である。今まで切歯扼腕していた関東軍の青年将士は、この鉄道爆破を契機として決起し、満州事変に於ける最初の軍事行動に移ったのである。この時、関東軍司令官は本庄繁中将であった。本庄軍司令官は元、張作霖の軍事顧問であった。(中略)誠に温厚で、且つ常識に富んだその人柄からも、張に大に信頼されていた。そうした関係から、張学良も熟知の仲であった。だから本庄軍司令官には、学良を憎んでどうするといったようなことは絶対にないのだが、現在の役目の手前からしても、又勢の赴くところからも、已むを得ず、その始末に立ったのである。(中略)
日本軍は破竹の勢いで進んでいく。満州側では、誰かこの危局をうまく収拾してくれなければ困るというので、かの于冲漢(満州の親日派として、一番妥当な意見を持っている)が、彼我の間を調停するため、予て相識の間にある私の出廬を日本側に懇請したのであった。于さんが「これは駒井さんに出てもらうのが一番良い」と言ったそうだが、それが巡り巡って、南(次郎)陸軍大臣の招きとなった。(中略)
私はそれから、外務省に友人を訪ねてその話をしてみた。(中略)大臣の幣原(喜重郎)さんには一面識もなかったので、中々話し合いがつかない。一体、外務省の上層部の人は、満州の実情を知らなさすぎる。幣原さんも、永井さんも、谷アジア局長すらも同様で、今に於いて、日華両国で委員会を作って満州問題の処理をやろう、その時には、私に委員の一人になってもらおうと言った程度の、頗る呑気な話だ。要するに、事なかれ主義で何とか収まる物とでも思っていたらしい。しかし、内田総裁(前外相)は、既に現地の情勢を見ているだけに、事変の解決は、そんな生温いことでは収まらぬと、固い決意をしていた。(中略)陸軍省では「事は急を要するのだから、そんな外務省などにこだわらずに、すぐ行ってくれ」という。私も遂に決心して、陸軍省から行くことにした。(後略)
p.217~218
<補足>
・この時起こったのが昭和6年9月18日の~:この本が書かれたのは昭和27年なので、柳条湖(柳条溝)事件が関東軍の自作自演とはばれてません
・永井さん:永井松三外務次官
・内田総裁:内田康哉
問題の、駒井が満州国統治部長になったきっかけの下りです。山口重次の著書などでは「小磯国昭のコネ」とされているのですが、駒井談ではそうではなさそうです。私も駒井の統治部長就任時期や小磯の関東軍参謀長赴任などの時系列から見て、駒井の統治部長就任は小磯とは無関係なのではと思います。
偶々列車を同じゅうしたのは、関東軍の慰問に出かける白川(義則)大将と、軍の中央部の意向を伝えるため特派される今村(均)大佐であった。私を、関東軍の中心である板垣(征四郎)大佐や、石原(莞爾)中佐に初めて紹介してくれたのがこの今村大佐だ。これは小磯の私に対する好意に基づく依頼によってこの役を引き受けたのであった。
白川大将とは初対面であったが、小磯の恩師であった関係から、私は旧知のような心やすさで、満州に対する豊富や事変処理に対する意見などをこの車中に交換することが出来た(後略)
p.220~221
<補足>
・白川義則:この後の第一次上海事変の事後処理で爆弾テロに遭ってしまい亡くなってしまう悲劇の人。
・今村均:不敗の聖将、人徳の固まり…なんだが、この後石原莞爾にボコボコにされてしまいます…
日本人側で満州の独立を主張したのは石原莞爾と私の二人であった。
(中略)
日支親善を永久の国策とするためには、満州に持っている権益を思い切って、中国に返還した方が賢明である。
ただ、中国側に受け入れ体制がなく、(中略)そこで、満州を独立国として健全に育て上げ、これに日本の有する権益を暫時返還して、ついには満州人の満州国とする、と言うのが私たちの意見であった。
併し、日本政府や参謀本部の意見は、やはり満州に中国の主権を認めるという空気が強かった。石原中佐はこれに反対して、
「そんな事をしてはまたすぐ崩れてしまう。やはり満州は独立させなければ駄目だ」
と強く主張したので、参謀本部や陸軍省と大喧嘩となった。陸軍側は、
「しかし、そんな事が実現できるか」
と言えば、石原中佐は、
「駒井さんがここに来ているじゃないか。この人に頼めば一週間で出来る」
と豪語して一歩も引かない。石原の強引に押し切られて、遂に満州国は独立すると言うことに帰結した。
p.223~224
駒井談では、あくまで駒井の長官就任は石原莞爾が押していたと言うことのようです。押していたかどうかはともかくとして、莞爾は今田ら若手参謀と違って駒井支持だったのは事実。
溥儀氏を天津から南満に連れてきたのは、土肥原(賢二)大佐の工作である。(中略)本庄司令官は復辟に反対で、平常から、
「今さら復辟というような時代ではない。そういう古い観念で中国を見てはいけない」
といっていられたが、溥儀氏の問題は東京の命令で決まった。
p.228
他のいろいろな本を見ると
・本庄繁、石原莞爾、満州青年連盟(後の協和会)、満州族(現地在住):溥儀皇帝復帰不支持
・日本の本国政府(と言うか軍中枢)、板垣征四郎、土肥原賢二、大雄峰会、満州族(溥儀側近)、いわゆる大陸浪人の皆様(川島浪速とか):溥儀皇帝復帰支持
だったようです。
昭和7年の初め、奉天の張景恵さんの邸で、主人の他に熙洽、馬占山、蔵式毅、それに日本の法学博士を持っている趙欣伯、日本通の于冲漢、早稲田を出た交通関係の丁鑑修という顔ぶれで、第一次建国会議が開催された。この結果溥儀氏を迎えに行ったのである。(中略)板垣大佐が溥儀さんの所に行ったが、(溥儀さんは、国際軍事裁判の法廷で、この事実を板垣の脅迫によってなされたように証言しているが、私は嘘だと思う。板垣君は決して他人を脅迫するような人物ではない。同時に溥儀さん自身も自ら進んで皇帝になろうなどとは毛頭考えていないことは、私はよく分かる。ただ周囲の人にしてみれば、自分たちが育てた幼帝を、満州の元首につけたいと希望するのは人情である。(中略))中々承知しなかった。漸く、建国会議の結果をもたらして、再三懇請に来た中国側の要人に対し、一年間試みにその席に着いてみようと、遂に承諾するに至った。
p.240~241
さきほど溥儀の復帰に関する賛成派vs反対派の内訳は解説した。で、当の溥儀はどうだったかというと、これが駒井の予測に反して実は復辟をメラメラ狙っていたらしい。
同じ話はp.254にも登場する。


この辺でいったん切ります。

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