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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回の続きになります。 満州建国が進む中、駒井に反発する勢力が出て来ます…核心ネタですねヾ(--;) ではまいる。

ところで、この頃にいたって甚だ面白からぬ話が伝ってきた。それは私たちと関係のない軍の一部の人々が、折角ここまで苦心してきた私たちに、一言の相談もなく、近々できる満州国政府の日系官吏の人選について、策動していると言うことである。(中略)引き続いていろいろと不愉快な話が聞こえてくる。私も進退を考慮せずにはいられない気持ちになってきた。建国式を目前に控え、いつまでも現地に恋々として、痛くもない腹を探られたり、物欲しげな奴だと笑われたりしたくない。そこで私も引き上げる決心をして、秘書に切符を買わせ、荷物もすっかり纏めさせて、本庄軍司令官の所に挨拶に行った。
p.241~242
駒井はここでは明言してませんが、「私たちと関係のない軍の一部の人々」が「関東軍参謀達(板垣征四郎、石原莞爾除く)」特に今田を指している(今田は関東軍所属ではないですが)ことは明らかです。また、駒井は「軍の一部の人々」と言っていますが、実際は軍参謀のみならず、満州建国に初期から関わった満州青年同盟や大雄峰会からも反発を食らっていたのは山口重次の『満州建国』や片倉衷の証言(『戦陣随録』)等でも伺えます。 不愉快になった駒井が早々に満州国を引き上げようとした話は山口重次の前掲書にも出てくるので事実間違いないでしょう。
税は、間接税と関税収入とに主き(おもき)をおき農家に対する複雑な課税は止めると言うことにした。ところが税関はその自分まだ中国税関であった。これを接収しなければならぬが、しかし、それは難事業だった。併し関係者一同の大努力によって大連税関に満州国の旗を掲げることが出来た。
p.245
この一件は山口重次の前掲書では満州青年同盟の事績としてあげています。駒井の文章に「関係者一同の大努力」と書いてあるところを見て、実際は満州青年同盟の功績だったかと。
それは、執政と夫人の部屋は一緒ではなく、全然離れていて、執政の側近には女性かと見られるほどの美少年が3,4人いる。これは男色だ。こういう事はいけない。
p.248
執政とは当時の溥儀のこと(本庄繁などの反対により、皇帝になれなかった この本では溥儀が遠慮したからともいっているが…)。しかし『ラストエンペラー』等でも書かれているが、やっぱりアレだったのか溥儀。で、駒井はこの後この美少年軍団を追放し、夫人(えん容)に喜ばれたらしいですが…。
私の辞任後まもなく皇帝になられ、日本の皇室を訪問して、非常な歓待を受けられたことに対しては、全く感激していられた。(中略)貞明皇后の殊遇に対しては、特に感銘が深かったようである。
p.249~250
このことについては、何か他の本でも見たような…思い出せない…
結局、青年教育機関としては大同学院だけでは不十分だ。(中略)殊に五族協和を標榜しているのだから、(中略)円満にやってゆけるという構想で建設したのが、建国大学である。 p.255
実際に建国大学の構想を練ったのは石原莞爾らしい(『建国大学の研究』『挫折の昭和史』)
ところが、やはり関東軍は、その連絡と称して、ここに置いてある参謀は私と同じ宿舎にいて、いろいろな人間を使って種々策動する。(中略) 
私には一つの決心があった。そのうちに本庄軍司令官が視察に見えた。(中略)
「今日満州国の役所を見て回ったが、一体あれは何だ。日本の役所の出張所のようで、役人は日本人ばかりではないか」
(中略)
「私は司令官と同じ考えでやっているのです。ところが、私が持っている人事や開会の権限を無視して、ドンドン東京で任命された人が渡満してくるので実は奇怪に思っているのです…」
「そんな事は誰がやるのか」
「あなたの側にいるその幕僚です」
と、私は策動家を指した。すると本庄司令官は 「貴様外に出ろ」 と叱りつけて、その男を外に出してしまって、私に対し 「いや、これは何とも申し訳ない。この処置は必ず軍がつけるから許してもらいたい」 と言って、傍にいた板垣参謀にその善処方を厳命された。
p.255~257
この策動家こそ今田!…じゃなくて_(。_゜)/年月は明記されてないのですが、文の時系列から見て和知鷹二を指していると考えて間違いないと思います。駒井は和知が「関東軍の策動をしている」と書いていますが、事実は大雄峰会の後ろ盾となって笠木良明の要望する人材を日本からスカウトしてくるのに絡んでいたのでした(山口重次前掲書、『笠木良明遺芳録』)。ところが駒井が本庄繁司令官に訴えたことにより、和知は左遷、大雄峰会も満州から追放されてしまいます。-これにより漁夫の利を得たのが満州青年同盟であることは山口重次の前掲書にも書いてあるとおり。 ちなみに山口重次の本では、駒井が和知を訴えたのはこんなかっこいいシチュエーションではなく、こそこそ本庄司令官にちくりに行ったらしい。
そうこうしているときに、又今度は大学での新卒業生何百人かが一緒にやってきた。(中略)これもその真相は、陸軍が満州国を我が物顔に、勝手に募集して寄越したのである。考えてみると、若い学生が気負って態〃満州国に就職を目指してきたものを、たたき返すという事はできない。私はこれらの青年を今一度試験をし直して、本当に訓練してみようと、その際教育機関の必要を痛感したので、南嶺の兵舎を改造して大同学院を設け、私がその院長を兼任してそれらの学生を収容した。これが大同学院である。
p.257
この大学新卒者ご一行様は、笠木が日本でスカウトしてきた「資政院」(旧自治指導部)の新規メンバーだったことは『笠木良明遺芳録』で明らかです。 『笠木良明遺芳録』等での証言では、大同学院はかろうじて満州国に残った大雄峰会のメンバーが中心になって運営し、その教育方針にも笠木イズムがかなり反映されていたという。
本庄司令官は突然、
「板垣は君と懇意だが、あれは自発的に陸軍を辞めた方が本人のためにいいと思う。そして一つ執政の顧問に君から推薦してくれぬかね」
「僕の力で出来ることならば何でもやりましょうが、本人は承知していますか」
「無論、本人と相談の上の話だ」
そこで私は板垣と会談することになった。本庄司令官がこうした話を持ち出された心境を忖度してみると、板垣大佐は陸軍大学の成績が良くなかったので、これから昇進してもせいぜい少将止まり位の所と、相場を踏まれたからであろう。これは、本庄司令官の「人間の運命」に対する一つの見解からうまれたものであろうが、それにしても、板垣君のためにこうした心配をされることは、私は少なからず気持ちを良くした。
「僕は陸軍の寿命はもう短いから、一つ君頼むよ」
「それでは、報酬もなるべく多く出すようにするからしばらく待ちたまえ、満州国の承認が済んでからでないと、折角君が執政府に入っても肩身が狭いだろう」
と、待ってもらった。
p.263~264
何と板垣は早期退職希望だったとは。初耳。
この時退職しておけば、東京裁判の被告席に座ることもなく…あ、でも再就職先が満州国だったら下手したらシベリア送りか。
先ず第一番に小磯次官が私の宿所の帝国ホテルにやってきた。
「君の進退問題をどうする」
「それより承認が先だ」
両人の会話はこんな所に終始した。
私は陸軍大臣の官邸に荒木(貞夫)大将を訪ねた。(中略)
「実は満州での人事問題に絡み、小磯君から私に辞職することを勧告してくれたのですが」
「とんでもない。君には益々やって貰わなければならぬ。それより実は僕は小磯君には困っている。あの男は謀略が好きで、色々やるので、随分手こずっている。ああいう男だから頭から怒鳴りつけても駄目だし…君いっそ満州にアレを連れて行って一つ監督してくれないか」
と言う話。そこで私は陸軍次官官舎に小磯を訪ねて、
「おい、辞めるのは、俺のことどころじゃない、君のことだぞ」
(中略)
その翌日、小磯は関東軍参謀長に左遷されてしまった。
p.264~265
ぶはは、あら~き~にすら「困っている」と言われてしまった小磯(爆) ただ、小磯の後任は荒木と同じ皇道派の重鎮・柳川平助なので、小磯の性格が追い出しの口実にされた可能性も大。
西園寺さんの秘書の原田熊雄君が来て、「元老が是非あなたの話を聴きたい」と希望していられるとのことを私に伝えた。 丁度御殿場の山荘に待っていられると聴いて、私はその清風荘に西園寺さんをお訪ねした。
簡素な山荘の日本間でお話ししたが、二時間に亘る私の話を、黙って聞いておられた。丁度石の地蔵さんにでも話しかけるようで、甚だ手応えがなかったが、私の話を全部聴き終わると
「いや、大変な御苦労でした。あなた方の御苦心に対しては厚く御礼を申します。しかしこのことは満州だけの問題ですよ。若し満州から一歩出ると、日本の国礎を危うくします」
と一本釘を刺された。更に注意として
「米英の東亜に対するやり方には、あなた方は不満の点が多いと思うが、アングロサクソンとは、あなた方の孫子の代でも争ってはいけません。これこそ日本を非常な危険にさらすことになりますから」
と念を押された。
p.268~269
この後、西園寺は駒井に対して
・今後の満州国の運営は、当初のメンバーが対応するのが当然だと考えていること
を補足し、自ら門まで見送ったとのこと。なお、西園寺が門まで客を見送ることは滅多にないことだったという。
私は少し遅れて、東京を出発することとしたが、(中略)こういう無垢純情の青年を煽てて、私怨を晴らそうとする軍人こそ憎むべき存在であった。
p.270
山口重次の本にも出てくるが、駒井が暗殺されかけたというのも事実のようだ。駒井説ではその犯人は「(駒井に反発する)軍人に煽られた右翼の青年達」、山口説では「関東軍参謀と関係の深い右翼活動家」とのこと、まあほぼ一致してます。これも年月が明記されていないのだが、時系列で見たら昭和7年7~8月辺りだろうか?
満州国の全権大使武藤元帥、参謀長小磯中将は、日比谷公会堂の盛大な送別会のあった翌日赴任の旅についたが、私はこの一行に数日遅れて、飛行機で満州に向かった。 (中略)
私は陸路、奉天に帰着した。私としては前の軍司令官たる本庄中将には、一応報告する義務がある。本庄中将は既に司令部を引き上げて宿所たる瀋陽館に移っていられたので、私はその宿に出かけた。本庄中将は苦り切った口調で、心中を明された。
「駒井君、君はご苦労であったが、もう皆辞めて東京に帰ろう。板垣の執政顧問の話も取りやめにして、一緒に帰ろうではないか」
(中略)
やっと本庄中将を承諾させて、軍司令部に行ってみると、板垣は既に地位を失ってしまって、小さな室に移り、その側には軍曹一人附いているのみだ。
「駒井君、もう駄目だ」
「僕が小磯参謀長に談判するから少し待ってくれ」
と私は小磯参謀長の部屋に行った。
「君、板垣君をどうするのか」
「そんな者はおらないでも一向差支えない」
「君はそういうが、板垣を知っているのか」
「知らない」
「知らない人間に対して何を言うか」
私は、小磯、板垣と三人で菊文という茶屋で飯を食って話し合った。すると小磯は、板垣に傾倒して
「あの人物はこの次か、少なくともその次の参謀長だ。よい人間を紹介してくれた」
「君らは単純で、篤と話し合わずに良いとか悪いとか人物を評価する。それが軍人の喧嘩の因だ」
「いや、前言取り消しだ。是非残ってもらおう」
「しかし、地位がないじゃないか」
そこで、仕方なしに、板垣にはもう必要もない奉天特務機関長として、そこに暫く待機してもらうこととなった。
p.270~273
昭和7年8月、陸軍中枢を皇道派が握った煽りを食って、関東軍のメンバーの総入れ替えが行われたのは有名です。関東軍メンバーの格上げが行われたことはよく指摘されますが(『石原莞爾 生涯とその時代』など)、元メンバーがほぼ全員左遷されたことは余り知られていないかも。板垣はこの後、やはり久留米の師団参謀に左遷された片倉衷に自分の不遇ぶりを愚痴る手紙を送っています。
ちなみに、今田はこれに先立つ昭和7年3月に日本に戻されていたので、この左遷劇には会いませんでした。
が、そこへ又重大な問題が起って来た。それは関東軍司令部が、奉天から新京へ移転して間もない頃であった。突然参謀本部交通部長の後宮(淳)少将が新京にやってきて、私の官舎を訪れた。何か厚ぼったい書類を鞄から取り出し
「今度、満州国の全鉄道を満鉄に移管することとし、既にこの通りすべての計画ができあがった。この書類はこのまま枢密院に提出する物であるから、一字一句訂正されても困る。このまま満州国で飲んでもらいたい」
と高飛車に出て来た。(中略)私共の考えとしては、関東州及び満鉄をひっくるめて、日本が満州に持っている権益は全部満州国に委譲し、日本は満州国に対し、権益などと言うケチな考えを捨ててかかるべきだと言うことに重点を置いていた。私はこの点で、石原(莞爾)と全く意見を一つにしていたものである。しかし、後宮少将はいつまでも国防鉄道論を振りかざして、我々の言うことには一顧も与えない。そこで私としては、
「満州国政府に交通部大臣がいて、鉄道を管理している。僕は自分の持っている理想から、今さらそういうことを交通部大臣に取り次ぐわけにはいかない」
と断った。後宮少将は、すぐ小磯参謀長のところへその話を持って行った。小磯参謀長は、
「よし、俺が解決する」
と、簡単に引き受けて、丁(鑑修)交通部大臣を招き、そのことを話した。丁交通部大臣は顔色を変え、
「それは私を殺した上でおやり下さい」
と頑として承知しない。小磯参謀長は困り抜き、私の官舎にやってきて
「君、なんとか丁鑑修君を説いてくれないか」
(中略)
そこで、奉天から板垣少将を呼んで小磯がたのんだ。板垣少将は
「これはちょっと難しいが、ご命令とならば何とかやってみましょう」
と引き受けて、どう説きつけたものか、一週間もたたない内に、この問題を片付けた。私は小磯に
「どうだ、板垣の腕がわかったろう」
「いや、まったく板垣には敬服した。彼にはなんとか酬いなければならぬ」
というから
「板垣の従来の労に酬ゆるために、欧米視察をさせたらどうだ」
「しかし陸軍にそんな金がない」
「満州国政府から出させればよい」
そこで、板垣は語学の良くできる将校を連れて、欧米視察に出かけた。唯その際板垣がドイツに行って、すっかりこの国に心酔して帰った。その結果、後年、日、独、伊三国同盟の主張者となったことは是非もない次第であった。
p.278~280
実は話し合いでは強い板垣。その功績のお陰でヨーロッパツアーに行けて良かったね!…え、でもそのせいでドイツびいきになったんかいな(○。○)
私が関西で康徳学院の経営に没頭していると、満州事変関係者への恩賞の噂が、ぽつぽつ聞こえてきた。これはいけないと、さっそく上京して陸軍次官の橋本虎之助中将に会い、
「満州事変の関係者に恩賞をやってはいけない。そのようなことをやると、事変に無関係な軍人を刺激し、それ等の人々は必ず余計なことをやり出す。(略)」
彼は非常な常識人であったが、やはり軍人のことだからこの問題を取り上げない。そこで私は本庄侍従武官長を訪ねてその話をした。
「満州事変の恩賞と言えば、あなたが一番筆頭だが、拝辞するとなれば、あなたから進んでおやりになったらよいでしょう。(略)」
と説くと、本庄大将は私に同意しておられたが、断り切れなかったと見えて、荒木大将と共に男爵を授けられ、又板垣、石原の両君は高い勲章をもらった。石原君は彼の平生の言行から見て、こういう事に反対するだろうと期待していたが、やはり喜んでもらったところを見ると、彼も又、名誉を愛する軍人であった。
p.289
<補足>
・康徳学院:駒井が満州国を去り日本に帰国した後、中国エキスパートを養成するために設立した学校。兵庫県宝塚市にあったが、戦時中に建て物が軍に接収されたために廃校と成った。
これも、他の人もよく指摘するエピソード。このことで他の将校達が「軍の統制に服さなくとも結果が良ければいいのだ」とその後の混乱の原因になったのは明らかであった、とか。 ところで、今田はこの時勲章もらえたんだろうか?
その年の終わり近くなって、関東軍憲兵司令官の岩佐録郎中将が、東京憲兵司令官に栄転し、その後釜に東條英機少将が行くことになって、大阪の旅館で事務の引継をやった。私は兼ねて懇意にしていた岩佐君に逢うため、その旅館を尋ねた。丁度引継は終わり、新聞記者が押しかけ、この二人を並べて写真をとりたいというところであった。しかし東条はこれに応じない。記者連中は、私に東条を引っ張り出してくれと頼む。その時の東条は意気も揚らず、顔色も冴えない。ひそかに私を自分の部屋にひっぱり、
「駒井君、実は自分は首の危ないところを後宮人事局長と板垣さんの取りなしで、やっとその首が繋がって、新京に行くところだ。今自分の名前や写真が新聞に出て、『あの野郎生意気だ』とやられては大変だ。どうかうまく断ってくれたまえ」
こう嘆願するので、私は新聞記者連中をうまく取りなして帰ってもらった。東条は三月事件に多少の関係があり、そのため、中央から小倉師団司令部付に左遷されて、馘首の一歩手前にいた。それを、彼と同期の後宮淳少将が、陸軍省の人事局長として、東条の同郷の先輩である、板垣関東軍参謀長に依頼し、二人で彼を助けたのである。 かくして彼は満州に行って憲兵司令官となったが、これが彼をして憲兵警察に興味を持たせ、後年国を誤る遠因を作らせてしまった。若しこの時、東条が予備役となっていたら、今日のような日本歴史の汚辱は、決しておこらなかったであろう。私は彼が大佐の頃初めて知ったのであるが、彼は真面目な事務官風の一徹な男で、政治的な手腕や識見があるようには見受けられなかった。
p.291~292
ほー、東条は首になりかけてたのか、これも初耳。と言うかこの時首になっておけば、この後満州国で石原莞爾とバトルすることもなく、また更に後に「近衛(文麿)が辞めてしまったけど、後てきとーな人物がいないから東条でも総理にしとくか」と言う事もなく…確かに駒井の言うとおり「日本歴史の汚辱は決しておこらなかったであろう」。 最後の駒井による東条評も興味深い。と言うかみんな同じ事言ってますな「東条は事務屋さん」って。
丁度私が満州に行ったときに、関東軍は蒙古地帯の、謂わゆる綏遠事件に手を付けようとしていた。これは詰まらないことだと思って、私は板垣参謀長に、
「そんな事をやると、結局事を大きくして、失敗する。絶対に手を付けてはいけない」
と忠告したのだが、軍は私の言うところに耳を籍さず、日本の予備軍人を使って、その綏遠事件をやったところが、傅作義軍のためにまんまと負けてしまった。これではいけないと、東条が参謀長になって自ら関東軍を率いて出て行き、遂に蒙古の徳王をたてて蒙彊自治政府を作り上げた。
この計画者は、後に「東京裁判」で米国検事に手なづけられ、日本陸軍の内情暴露をやった、田中隆吉中佐であった。その資金は、殷如耕を冀東政府の長官に奉り上げ、冀東でやらせていた密輸貿易の利益を取り上げて、それに充てた。これで綏遠事件を始めたのである。田中の末路も変な物であったが、これに担ぎ上げられた殷如耕は国民政府の戦犯に問われ、遂に銃殺刑に処せられた。
p.293
やっぱりヾ(^^;)田中隆吉だったのか。これについて田中は『敗戦をつく』で「綏遠事件では有罪になると思っていたんだ」と言っていますが、実際は自分に罪が及ばないよう巧みに証言していたことが尋問調書によって明らかになっています。
サイパンの陥落と共に、さしもの東条も遂に内閣を投げ出さざるを得なくなった。そういう情勢の下に、小磯に組閣の待命が下った。
(中略)
しかし、小磯は予備軍人だ。このような際に予備軍人が総理大臣になっても、軍の統制や戦争の遂行に何の権能もなく、全く無意味だ。(中略)私は彼が朝鮮から帰って参内する前には必ず服装を改めるために一端帰宅するだろうと予想し、その時によく話してやろうと待構えていた。ところが彼は、うれしさの余りか朝鮮から帰ると、いきなり飛行場から参内したので、その機会を失ってしまった(これがやはり小磯内閣の崩壊の原因となった)。
これには少し理由があった。朝鮮で、彼の側近に二人の予備中将がおった。彼らは小磯を利用して、この際有力な地位にありつく考えで、小磯自身に考慮の暇を与えたり、また真に彼を思う友人に会わせたりすることを嫌って、遮二無二参内を急がせたのだ。
(中略)
小磯が夜になって、やっと組閣本部に入ると、例の予備中将が、恰も組閣参謀長のような格好で、小磯の側にくっついていてすぐには会わせない。秘書官達はやきもきしている。そこで、私は予備中将を叱りつけたため、やっと彼らも私を小磯に会わせたが、小磯に聞くと、組閣は小磯の単独ではなく、米内との協力内閣だというのである。それでは小磯の力を十分発揮することは出来ないから、これは益々駄目だという風に観察した。
そこで、私は小磯に
「実は海軍の塩沢から聞くと、連合艦隊の力は殆どなくなったという。これではもう駄目だ。降伏以外に手はない。今降伏すれば日本の大都市は焼かれなくとも済む。(中略)君が総理大臣として陛下に上奏し、確たる決意を持って出かけるなら、僕はついていく。直接蒋介石にあって、降伏を申し入れようじゃないか。その代わり帰って来たら、二人は日本人に殺されるだろう。しかし、二人の命を捨てても、日本が焼かれず、幾百万の人命が助かれば、本懐じゃないか。」
と説いたが、彼は総理大臣になったうれしさと、長く朝鮮にいて戦局の実情に遠ざかっていた物だから、
「何を言うか、これからが本当の戦争だ。海軍の状況は米内によく聞いた。米内は決して悲観していない。責任者以外の人の話を聞いて、それを取り上げることは出来ない。見ていろ、これから米軍をたたきつけるのだ」
と言って、私の意見などはとりあげない。米内という人は私は知らないが、人は皆平和主義者だという。しかし、あの情勢がわかっておりながら、尚且「なんとかなる」と思っていたのなら、実につまらぬ男だったと思う。
p.312~315
米内光政に関するエピソード。
実は私も調べている限りにおいてですが、どうも米内という人が世間で評価されているほど高潔には見えない…米内光政の反戦主義というのは、あくまで海軍>陸軍という立場が堅持された上での物だったような気がする。
なお、このあと駒井は「こういう非常事態の時は変人・石原莞爾を軍需大臣に起用したらどうか」(※何故軍需大臣かというと、陸軍と海軍の物資調達に無駄が多いことを指摘していたのが莞爾だったので)とも諫言しますが、小磯は「でも石原は陸軍の中に敵が多いからな~」と断ってしまいます。
そうこうしているうちに、小磯内閣が崩壊した。早速小磯から内閣投げ出しの経緯を説明するために、一人の使をよこした。小磯も失意に陥って、初めて私を思出したのであろう。それによると、小磯は、どうしても陸軍の現役に復帰し、陸軍大臣を兼ねなければ駄目だ、と言う事が最後に判って、遅まきながら上奏すると、陛下は、
「そういうことは、陸軍の議を纏めた上での話である」
と仰有った。そこで陸軍の三長官に相談したが、誰一人として小磯の現役復帰に賛成する者が無く、とうとう行き詰まって投げ出したとのことであった。
しかしその直後、石原莞爾に会うと、「小磯は重慶工作で非常な失敗をやった」と、その内容を詳しく話してくれた。
それは、小磯が重慶との和平をやろうとして、閣僚にも相談せず、密かに南京政府の立法院副院長の繆斌を、国賓待遇で南京から招き、彼を通じて重慶と直接交渉をやろうとした。ところが、このことを聞いた杉山陸相や重光外相は極力反対した。抑々日本が汪兆銘を引き出して、南京政府を作らせたときから、「重慶工作はやらぬ、若しやる場合には南京政府を通じてやる」と約束したことは、天下公知の話であった。それを南京政府の異分子である、繆斌を勝手に使ってやると言うことは筋が通らない.この話は木戸内大臣から奏上したため、小磯は陛下から呼ばれて叱責されたとのことである。これがために小磯が全く面目を失墜してしまったことは言うまでもない。これが内閣崩壊の真の原因だとのことであった。
p.316~317
で、やっぱりこんなにわか総理は直ぐに退陣させられてしまったわけですがヾ(--;)、『石原莞爾 生涯とその時代』等を読んだ限りでは小磯退陣の真相は、後半の石原莞爾が駒井に話した内緒話が正解みたいです。
しかしこんな節操のない日中和平工作やってても相手に不信抱かれるだけで、失敗するのも明白なんではないかと。但し、繆斌を担ぎ出したのは石原莞爾の主催していた東亜連盟の有力メンバー・田村真作が言いだした話らしいんだが…


以下、この本を読んでの感想など
最初に書いたとおり、駒井徳三という人は非常に頭のいい人だと思うのです が どうも人の手柄を自分のことのようにしてしまうと言うか横取りしてしまう傾向があるように感じました。
満州国の例で言うと
・大同学院の設立
・建国大学の設立
・旅順税関の接収
などなど
こりゃ、他の人から嫌われますよねえ(^^;) 特に満州国について言うと、満州青年同盟とか大雄峰会が色々やってるところに後からやってきて上役になるのですから、そりゃ嫌がられるのが当たり前かと。

後、気になるのは郭松齢事件に巻き込まれた後、日本に逼塞しているときについて全く触れていないことです。河本大作は「駒井は俺が養ってたんだよね」とも証言しています(『満州事変の裏面史』)などを併せ見ると、この時代のことはかなり隠したい過去で触れなかったと見るのが普通のように思われますが…

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