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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
4回(予定)に渡って、満州国の成立に深く関わった山口重次の本を紹介させて頂きます。
1回、2回は満州国の成立までを書いた『満州建国-満州事変正史-』(昭和50年3月25日 行政通信社)
3回、4回がその後(協和会の成立からその挫折まで)を書いた『満州建国の歴史-満州国協和会史-』(昭和48年12月10日 栄光出版社)
です。
後書きを見ると1回2回紹介分の『満州建国-満州事変正史-』の編集には岡田益吉(このエントリ参照)が深く関わっているようです。

昔の本なので当然細かい活字で2段組み、読むのに根気がいったというのも勿論ですが、なによりかにより主張が独特なのでかなり引っかかる物が残りました。特に山口所属する満州青年同盟→満州国協和会を絶対正義とする立場で書かれているため、
・満州事変を成功させたのは軍事計画じゃなくて、我が満州青年同盟の思想戦(※山口氏の用語で、実際は慰撫活動というのが相応しいかと)が素晴らしかったから
・協和会の主張する五族協和(後に民族協和と変わる)こそ、近代国家に相応しい主張。欧米の「民主主義」は植民地に代表される資本主義、ソ連の共産主義なんかもっと最悪
・外交官の腰抜け!
・満州事変の後にやってきた関東軍幹部が最大のガン これさえこなけりゃ満州国はあんな事にならなかった
・大雄峰会も変な仏教に凝り固まって、ありゃ閉鎖主義で駄目だね
…と言う主張が強く出ており、現在学会の定説である
「日本帝国主義の植民地国家=満州国」
全くの大ボラとして完全否定するスタンスに貫かれています。
他にもいろいろ指摘する点がありますが(後述)…
…乱暴に切り捨てると、言いたいことは理解できるけれど、要は独善的なんだわな。

でも書いてる内容は当事者のことなので、参考にはなるかと。
それでは。

北大営の場合、『リットン報告』には、「日本軍が、支那兵の遺棄していった大砲2発で兵舎を破壊した」と書いてあるが、当夜、24センチ榴段砲の射撃を指揮した後藤予備中尉(一年志願)は、「6発撃ったら、敵が逃げ出したから止めてくれ、と言う電報が来たから、方向を場外に向けたが、射撃中、砲弾が炸裂する闇空の中へ、兵舎が見事に飛び上がるのを見た」と話していた。
(中略)
そのうちに、24センチの巨砲が炸裂しはじめたから、城内と同様、1万の兵が浮き足立って逃げ出したのである。その巨砲にまつわる話だが、後日談に、昭和11年、私が奉天市公署に勤務していたとき、石原大佐が今田新太郎少佐を連れて、参謀本部から出張で来られた。石原大佐の希望で、鉄道総局になっていた元歩兵29連隊の営庭跡にご案内した。何のために来られたかと思ったら
「あの重砲の跡をつぶしてしまいましたなあ。満州事変勝利の功労重砲でした」
(以下略)
p.82
実はこの出張の時、石原莞爾は武藤章等に「あなたのやったことをそのままやってるだけ」とつるし上げられるという有名な"事件"に遭う(『今村均回顧録』)
関東軍総務課の『満州事変機密政略日誌』(片倉日誌)には、「今田大尉(新太郎)、和田勁(予備中尉)の当夜の活動は、特筆大書すべき物がある」と書いてあるから、「あなた方がやったのだろう」ときいたが、「全然知らぬ」と否定する。「でも片倉日誌にはそう書いてある」というと、「いや、片倉も花谷(奉天特務機関の建設者)も、誰も知りはしない。知っているのは、親父ら2人(板垣、石原)だけだ」といっていた。
(中略)
石原中佐の計画書には「謀略による動機の作製」とはっきり書いてある。それゆえ、線路爆破が謀略だと疑われているのであるが、大局から見れば、それが原因でも責任でもないのである。
p.83~84
<いい加減な補足>
・「今田大尉~」…と否定する:実際は二人とも関わっていた。
・「いや、片倉も~」:片倉は知らない。花谷はばっちり陰謀に関わってる。
・石原中佐の計画書には~:山口ら満州青年同盟の連中には「柳条湖事件が日本の謀略だったとしてもいいじゃない」…と言う見解があったことが伺われて興味深い。
9月22日夜、板垣大佐は、商埠地にある張景恵公館を訊ねて密談数刻、張景恵(ハルピン特別区行政長官)は承諾して、明23日、私設秘書新井宗治と夫人を連れてハルピンへ帰任していった。
同時に、その日、今田大尉を吉林に派遣して、大迫中佐に新方針を伝え、凞洽工作にあたらしめた。
p.102
<あてにしないで欲しい解説>
・新井宗治:このサイトによると、本業は貸家業らしい。
・大迫中佐:大迫尚道大将の長男・勝か?
9月25日、今田大尉は、張海鵬と連絡のためにチョウ南へ赴いた。
(中略)
これは、羅振玉の勧誘にのって清朝復辟に努力することに腹を決め、河野に話した。河野から軍に連絡して、今田大尉のチョウ南訪問となったのである。今田大尉との会談はすらすらまとまって、張海鵬の決起、大興戦争に発展となるのである。
p.103
<あてにならない解説>
・チョウ南:チョウはさんずいに「兆」
・河野:ざっと本を見たが、よく分からない。満州青年同盟のメンバー?
・今田大尉との会談はすらすらまとまって:今田はどうも中国語はぺらぺらだったようだ。恐らくドイツ語も。
張海鵬は、日本に帰順を表明して武装解除した。ところが、興安屯墾隊が馬賊化して白城子を椋奪し、チョウ南が危険に陥った。そこで、鄭家屯の羽山支隊の救援によって馬賊を駆逐した。
今田新太郎、大矢進計が指導して張海鵬軍を強化することとなり、小銃5000、被服一万着をおくって軍再編成に着手した。そして、10月1日、独立を宣言してチョウ遼地方の治安維持に任じた。
p.107
<あてにならない解説>
・興安:こういう所
・白城子:こういう所
・鄭家屯:こういう所
・大矢進計:詳細不明。誰か御教示お待ちしてます。
森島領事の書いた物には、「青年連盟や雄峰会は、満鉄社員の中でも成績のよくない大言壮語組の集まり」であったかのように描かれている。また、「四平街の弁当売りや安東の風呂番をやっていたような男が、県の指導員になった」とも書いてある。私は、後年それを読んで、孫子は「敵も知らず、己を知らざる者は、百戦危うし」と教えているが、当時の外交官は、支那人相手に実に幼稚なことばかり、このくらいのことが分からないのか、と歯がゆく思ったが、敵情どころではない、当時の日本側の実情がまるっきり分かっていなかったのである。青楼遊びやダンスパーティーをする暇はあっても、邦人の団体について内情調査をやるまじめさもなかったのである。
p.120~121
<あてにしないで欲しい解説>
・森島領事:森島守人奉天領事(当時)、後にこの時の思い出を元に『陰謀・暗殺・軍刀―一外交官の回想 』を書く。山口が「森島領事の書いた物」と言っているのは恐らくこの本かと。
今田のネタはないけど、先述の「外交官の腰抜け」に関するネタとして取り上げてみました。それにしても現地在住日本人と外交官の間の解離は、他の本を読んでも感じたのですが、もう越えられない深い谷が存在してます。別の生物と言ってもいいくらいかも。現在の学会では激賞されているみたいな幣原外交ですが、現地の住民の理解を得てなかったのはやはり痛い様な気がする(※幣原喜重郎は現地の住民は引き上げさせればいいと安易に考えていたみたいです。『再考・満州事変』のなんかの論文に書いてたような)
ところで今回調べて初めて知ったのだが、森島守人って、戦後は日本社会党(左派)選出の国会議員だったんですな。共産嫌いの山口がボロクソにけなすのも道理かと。
雄峰会は、名のごとく(京の東山三十六峰)京都帝大を中心に私大組が、東京帝大での緑会、新緑会に対抗してできた、一種の反学閥グループであったが、青年連盟には学閥関係は少しもなかった。
(中略)
だがこの連中がとまどいポカンとしている内に、青年連盟は戦後処理と建国だけはやってのけた。
p.121
今度は満州青年連盟と対立していたもうひとつの在野団体・大雄峰会に対する話です。山口の「大雄峰会もありゃ閉鎖主義で駄目だね」と言う感情がよく表れているかと。
なお、大雄峰会のリーダーが笠木良明、ここのメンバーだった片岡駿と奥戸足百が張学良顧問時代の今田新太郎の所に下宿していて柳条湖事件に関わったのは先述
それから数日後である。小山貞知が、私を連れて奉天特務機関に行った。その時は、瀋海鉄路が復興して、すっかり落着いたので、瀋海の顧問事務室は、特務機関の2階から瀋海本社に移っていた。応接間が会場で、今田新太郎大尉が司会者であった。中野琥逸、笠木良明がいた。
今田大尉が、
「省政府の他に自治指導部を設けて、各県の県政を国民の自治に改革し、省の統轄下におきたい。ついては、これは、青年連盟と雄峰会の協力でやっていただきたい。今日は、その第1回の創立委員会である。今日の4名の方は創立委員になっていただく。」
と、いうのである。
笠木、中野から、「役員は、双方、同数ずつ出す」とか、「待遇手当は、満鉄社員の3倍にする」とか、話があった。私が、「その自治指導部の創立計画要綱があるか」とたずねたら、「それは、今から諸君につくっていただく」という、今田大尉の話であったから、「その要綱ができたうえで、相談しましょう」といっておいた。特務機関の話は、それで別れた。
p.165
<あてにならない解説>
・小山貞知:1888-1968 のち満州国協和会幹部 この辺辺り参考になるかも。
・中野琥逸:前職は弁護士。この後、自治指導部員を養成する学校(後の大同学院)を設立、のち満州国で要職(民生部総務司長)を務める。この文章でも分かるが、猶存社に笠木良明と共に加盟していたことから見て、大雄峰会のメンバーだったと思われる。父に関する興味深い新聞記事はこちら
この辺りに関する『実録満鉄調査部』の話はこちらのエントリで。
10月のはじめだった。石原中佐が、東北交通委員会の報告に行った私にむかって、
「満鉄の営業上、チョウ昂鉄道はどのぐらいのウェートですか」
と、きいてきた。私は、
「四チョウ、兆昂両鉄道は、北満大豆を満鉄線に吸収する唯一の培養線です。満鉄の喉首です。これをしめられたら満鉄は没落です。昨年は、これを打通線に流されたので、あの大赤字になったのです」
「それなら、この線が不通になったら、満鉄は大騒ぎですなあ」
「もう10月です。大豆輸出は12月から始まります。輸送期に故障が起こったらたいへんです。満鉄ばかりでなく、総領事館も総立ちになるでしょう。たいせつな既得権益の擁護ですから」
「なるほど、既得権益の擁護ですか」
そのうち、軍の張海鵬援助が積極的になってきた。今田新太郎大尉、大矢進計等が活動を始めた。そして、チョウ策線の敷設工事に働いていた2000の山東苦力を採用して武装させた。また、一度背反した興安屯墾軍を買収、帰順せしめて、大いに張海鵬軍の軍備拡張をいそいだ。そうして、張海鵬に対して、斉々哈爾に入城して、黒竜江省の省長となることをすすめた。
p.180
p.107の話の再出。この後、関東軍が援助した張海鵬軍は大敗するのだが、これによって関東軍は「満鉄が危機ですよ~どーするんですか~」と総領事館や満鉄を煽って最終的には中央から加勢させることに成功する。つまり、これは実は関東軍に協力しない総領事館と満鉄をひっくり返すために行った石原莞爾の作戦だったのであった。なお、この辺のことについて山口が「現地では総領事が妨碍し、満鉄は協力しない」(同ページ)と書いているが、山口の外交官+満鉄幹部に対する悪感情が伺え興味深い。

ここでいったん切ります。


<追記>
図書館で偶然見つけた『歴史読本』2013年9月号が何と満州国の特集だったので借りてみた。
山口重次がボロクソに書いていた森島守人なのだが、『陰謀・暗殺・軍刀』では関東軍の横暴に怒っている正義の外交官のイメージだったのだが、本庄繁関東軍司令官(当時)の報告によると、「関東軍の要望に忠実な外交官の一人」だったらしい。かなりショック。森島という人に対するイメージをかなり変えなければいけないようです…。

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