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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回ご紹介する本は『実録満鉄調査部』、
回想 満鉄調査部』の著者が
「タイトルに"満鉄調査部"と書いてる割には全然調査部のネタがねーよヽ(`Д´)ノ」(意訳)
と罵倒していた本です。

確かに、満鉄調査部の話はあまりない(爆)
ざっと見た限り、内容は、満州という場所に日本がどう関わり、そして満州国が出来る話で3/4ぐらい、残りが満鉄調査部の話でしょうか。
ただ、参考文献は挙げてられませんが、著者の草柳大蔵は満鉄調査部の生き残りなどの関係者100人を超える人物にインタビューをし、またアメリカまで行って関係史料を読み込んでこの本を書いた…と後書きに書いております。
立場としては中庸な印象。…と言うか、これと並行して当事者である山口重次の回想を読んだのだが、その内容がかなりモニョモニョする物だったので、本当に草柳の文章はまともに見えました、はい。

なお、約300ページの本が2冊(上下巻)という大作です。今田の話は下巻にのみちょっと登場。
ではまいる。

石原が中将になってから、出身地である山形県鶴岡市で公演した記録がある。記録者は、当時(昭和17年)満州建国大学教授であった森克己である。
石原の語ったところによると、満州事変における「真の同志」は、関東軍司令部の中では板垣、石原、竹下の3人、それに奉天特務機関の花谷と今田の2人、この5人に過ぎなかったという。
「ところが事変発生と共に、この同志的研究が一変して職務的乃至事務的研究に建直ったために、ひじょうな障害を来した次第である。すなわち片倉氏(衷、当時大尉)は事変勃発後に、政務方面を一人で切り回し、ものすごい能力を発揮したが、自我心強く、かつ同志的連絡を事務的処理に一切をたたき込んだために大変障害になった。当時、総務課長板垣氏の元に片倉氏が居て、満州関係の政務方面を担当していたが、匪賊行為までも総務課において掌握することとなり、ここに於いて作戦との齟齬を生じたわけである。故に事変発生後は、政務方面は総務課で一切を処理したので、自分は厳密な意味では手を触れなかった。」
この発言によると、石原莞爾は事変後の「政略」から疎外されていたことになる。関東軍の占領行政の表れである「自治指導部」は、石原の考えでは啓蒙活動を主とする「党部的存在」であるべきだというにあったが、「自治指導部」の担当は今田大尉が当たっていて、石原によると「県の行政を直接執行するように脱線してしまった」としている。
これは、かなり重要な発言である。「自治指導部」は関東軍の要請があって発足したものなのだが、軍の内部ではこの政治運動に全面的に対応していなかったことになる。
関東軍は「自治指導部」の創設について、大雄峰会と満州青年連盟に呼びかけている。
事変勃発直後、関東軍の要請により大雄峰会の会員が奉天の妙心寺に集まった。その席上、石原莞爾(板垣大佐も同席)は「満蒙問題の解決はもはや言論や外交では不可能であるから、満鉄沿線を対象として理想境域を建設することによって実績で証明するより他にとるべき方法はない」と言う意味の説明をし、大雄峰会に協力を求めてきたので、「一同勇躍して参加を約束したのである」と中堅幹部の井上実は書いている。となると、石原の「自治指導部は啓蒙活動の範囲」という「打ち明け話」はどうなるのか?
p.193~194
満州国発足初期の頃に大変貢献をしたと言われる部署「自治指導部」の設立に深く関わったのが今田であることは、山口重次(小沢開作等と満州青年同盟を運営し、後協和会幹部)の証言にもあるので事実と断定してよいかと。
それにしても、「自我心強く」とまで言われてしまうとは、片倉衷…(苦笑)
※この以前に関東軍参謀副長だった石原莞爾と関東軍第4課長だった片倉衷は大げんかして仲違いしたのでその影響を加味することが必要かも。
満鉄は沿線地における自治指導部の活動に対して拱手傍観の態度をとり続けていた。ただ、満鉄社員で自治指導部員となり会社を離れて活動している者には毎月の給料をきちっと払ってはいた。「五族協和運動」(後に「五族」を「民族」にかえる)に対するせめてもの志なのか、会社そのものが鷹揚なのか、そのへんは分からない。しかし、そのような静観的態度の中で理事の十河信二だけは反対だった。十河は「笠木良明遺芳録」の中で、つぎのような追悼文を載せている。
「私は満州事変の後設立された自治指導部の設立案には反対であった。だから満鉄から社員を自治指導部に派遣することについても反対したので、中西敏憲や笠木良明君なども困っていたようだ」
十河理事は、なぜ、反対したか。
「満州でも中国でも完全な独立国でなければならぬと言うことが、私の終始一貫した念願であった。自治指導と言うことに反対したのも、中国社会ほど自治の発達した国はないのに、今さら日本人が中国人に対して自治指導をすると言うのはおこがましいという風に考えたわけだ」
この十河の感慨は正鵠を得ていたといえるであろう。中村寧と安斎金次の二人が自治指導部員として撫順県に入っていったとき、県知事の夏宜は歓迎の辞の中で「水入らずの家庭の中へお嫁さんが来ると言うだけでも何となく心が落ち着かないものです。しかも、この度のことは天下の事、在来とは理想の深さが違う。指導員の苦労も並大抵ではないと思うが、ま、しっかりおやりなさい」と述べている。中村・安斎の両名に付き添っていった笠木良明は、この夏宜の言葉に「実情を察してナルホドと思った」という。
奉天省長の袁金凱が優柔不断のゆえをもって咸式毅にかわると、中国人の自治意識と自治指導部はあからさまに対立した。咸は省長になると従来の地方維持委員会を解散して奉天省政府の樹立を宣言、自ら政府主席となって、各県に県長を派遣した。これには自治指導部員が困惑し、かつ、怒った。県には既に自治執行機関が出来ている。それなのに新しい県長がやってくる。そのうえ奉天省政府最高顧問の金井章次博士から「新県長の命に従わない者は自治指導部員といえどもクビを切る」との布告が届いたのだ。金井にしてみれば「満州の自治はあくまで中国人の手で」と言う思想がある。自治指導部員とて異存はないのだが、現実問題として「そのようなことは夙にやっている」という気持ちがある。石原が出自の鶴岡市の公演であかしたところによれば、咸は「自治指導部があるので行政がやりにくい」と、しばしば板垣参謀に訴えていたので、自治指導部担当の今田大尉が転出させられたのもそのためであろうという。
もっとも、咸主席の斬新な措置の背景には関東軍の立場の変化があった。昭和6年12月15日に、関東軍は「統治部」をつくり、建国への下工作に取りかかっていた。この「統治部」は、いわば最高政略機関であって、交通・電力・金融・自治の指導監督の権限を付けている。これに従い、従来「行政・経済」を担当していた参謀第三課は廃止された。自治指導部に即して言えば、関東軍の内部で「新政権構想」を練っていた駒井徳三(統治部長)や松木侠は、その法政の専門家としての立場から政府機構内には内務部による地方行政があるのだから、自治指導部を認めると二元的になるとして反対の立場を取った。こうした意向があきらかになるにつれて、自治指導員の間に動揺が起こった。いったんは満州野ヶ原に骨を埋めようと考えていた者も、「上からの統治」に憤慨し、危惧の念を抱くようになる。
p.205~207
<あてにならない補注>
・中西敏憲:満鉄理事、後衆議院議員。
・笠木良明:満州国創始時に満州青年同盟と共に活躍した組織「大雄峰会」のボス。今田の元にいた"書生"片岡駿と奥戸足百はこの大雄峰会の所属。
・中村寧:未詳。たぶん大雄峰会の会員。
・安斎金次:未詳。たぶんこの人も大雄峰会会員。
・咸式毅:こういう人
・金井章次:こういう人 お医者さんだったとはしらなんだ不覚(汗)
・駒井徳三:何回かご出演済みの満州国統治部長…なのだが、関東軍参謀との仲は最悪だったようだ 拙ブログ関連エントリ  
・松木侠:「侠」は「たもつ」という。戦後は石原莞爾が住んでいた山形県鶴岡市の市長となり、なにげに関わりもあったらしい(『東亜聯盟期の石原莞爾資料』)

上記の出来事を批判的に検証している論文はこちら(古屋哲夫「満州国の創出」)

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