拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「亜細亜青年連盟」が結成された直後に集まった金曜会の会合は、勢い亜細亜政策に話の華が咲いて、田中少佐が、<あてにならない補足>
「山口さん、1200人の日本の大学生に亜細亜連盟の思想を吹き込んだのは、宣伝としては大成功ですが、思想の戦いは、単に宣伝ばかりでは浸透しない。必ず組織が伴わなければならないが、その点、今後、日本に対して、何か計画か方針か、お考えはどうですか」
田中少佐は、長くモスコーの駐在武官を努めた、ソ連の研究家である。満州事変直前にモスコーからの帰途、関東軍に立ち寄って、石原中佐から、軍事学では、「戦争史大観」を、日本の世界政策としては、「満州問題の解決」「東亜大同の結成」「日米決戦準備」等を聞かされて、すっかり傾倒して、スターリンの極東赤化政策に対抗するには、それ以外にない、どうしても、満州事変、満州建国は、日支親善にまで持って行かねばならぬ、自分もこれに一身を捧げよう、と決意し、東京へ帰朝後、関東軍参謀を志望し、その願いが叶って、関東軍参謀に任ぜられ、建国に参加し、しかも、関東軍幹部交代の際も、残された、石原派のただ一人の参謀であった。
この金曜会も、田中少佐が中心である。しかも、彼は、現関東軍の小磯参謀長の対支政策が非常に消極的であるのを飽きたらず思い、何んとか、支那本土に対して、思想戦の手を延ばそうと願っているのであった。
田中少佐は、共産党の思想戦戦術を研究しているだけに、宣伝とか組織とか、急所を突いた質問を山口に向けたのであった。山口は、
「田中さん、今の協和会では、日本工作は、こんな機会に宣伝をやる位いが関の山で、本格的に組織まで考える働きかけは出来ません。日本どころではない、手近の山海関から長城線を越えたいが、それも出来ないですよ」
「そうですなあ、日本よりも、支那本土の方が放っておけませんなあ。だが今の関東軍の空気では、協和会が積極的に国境外に乗り出すことはできないだろう」
その日は、珍らしく、靖安遊撃隊司令官を藤井少将に譲って、今は閑職にある、和田勁(満州国中将)も出席していた。和田が大きな目玉をぎょりと光らして、腮髯の中の口を開いた。
「田中さん、察哈爾でも、綏遠でも、蒙古の諸王は、首を長くして日本の進出を待っている。放っておくという手はない。小磯なんかあてにせずに、我々だけでやろうじゃないですか」
と、先づ、内蒙古進出を提議した。それには全員大乗り気で、話は忽ち具体案の相談となった。1,資金は差し当り100万円(時価10億)、を満州国と満鉄から出させること。2,名前は社団法人東亜産業協会と名付けて、3,産業資源の調査と貿易振興助成を看板に掲げてカムフラージュする。4,武力関係は、靖安軍で、思想政略関係は、協和会で担当することに創立方針を決めて、資金調達は満鉄岩畔、政府皆川、創立事務一切は、山口、蒙古連絡は和田、と担任をも決めて、創立に取りかかった。東亜連盟実践運動の第一歩であった。
(中略)
或日の金曜会の会合の席上で、沼田少佐が、山口に向って「山口さん、定款通りの産業協会になりましたが、真の目的を忘れたのではないでしょうなあ」と質問したが、お心配はご無用、内蒙古諸王指導計画は、田中、岩畔両参謀と和田勁との間で進められて、もう実施するばかりになっていた。蒙古政策の第一目標は、察哈爾省を、蒙古諸王によって、独立させようというのである。
(中略)
東亜産業協会の看板を上げて、密かに行っていた、東亜連盟運動も、遂に破綻の日が来た。会長の宇佐見勝夫老人が、真蒼な顔をして、小磯参謀長を訪れて、一通の手紙を示して、「東亜産業協会の会長を辞めさせて呉れ」と、訴えた。その手紙は、東京の警視総監から宇佐見に宛てた、私信であった。内容には
「『東亜産業協会』は、軍参謀と満州浪人で組織した革新団体であって、日本の右翼や青年将校に革新運動の資金や武器を送っていることが明白になった。貴官は、会長になっておられるが、速やかに手を引かれたい」と忠告してあった。
(中略)
「とうとうばれたか、ばれたらしょうがない。馘首になるより、こっちでおんでよう」
と、そこはあっさりしたものである。ところが、妙な時に妙な事が起った。
満州事変の初めに、満鉄の理事として関東軍援助に乗り出した十河信二が、腸チフスにかかって戦線脱落していたが、漸く癒えて再出馬してきて、今度は、北支問題を解決する興中公司の設立を企てて、その準備資金に我々の東亜産業協会を狙ってきた。
それを探知した山口は、田中中佐、岩畔少佐等と秘談して
「黙って、山口が常任理事を辞職して、後に十河信二を理事長に迎えて全権を引き渡し、同時に、宇佐見会長にも引いて貰うことにしたらどうでしょう」
「それは、名案だ。早速やろう。小磯参謀長に献策の形を取った方が良いなあ、田中さんにお願いします」 と言う事に相談が決まって、小磯の弾圧に先手を打って、世間体は、山口と宇佐見の辞職と言うことで済んだ。 p.287-293
・亜細亜青年連盟:昭和8年8月に日本から研修旅行に来た大学教授や学生相手に、協和会主催で開かれた日満青年大会のなかで結成が宣言された物(p.286)…らしいのだが、この後ちゃんと稼働したかどうかが判らない…_(。_゜)/山口曰く「民族協和の革新運動が満州国外の人々に働きかけたのは、これが初めてであって、実に東亜連盟運動実践の第一歩であった」(p.287)そうな。
・田中中佐:田中新一。この文では石原莞爾の弟子的な扱いがされているが、後のこと知ってる私のような者が見ると「嘘だろ~」としか思えないのだが(^^;)なお、この時のことを山口は恩義に感じていたのかどうか、石原莞爾の参謀本部第一本部長更迭時の話でも、田中に原因があることには全く触れていない(p.382)。
・藤井少将:藤井重郎
・和田勁:こういう人 戦後、逃亡中の辻政信をかくまった万死に値する人ヾ(--;)
・皆川:皆川豊治 当時満州国総務庁人事処長
・宇佐見勝夫:こういう人
なお、上記の引用文では割愛したが、この「東亜産業協会」プロジェクト(?)の正体については、板垣征四郎、河本大作、石原莞爾、阪谷希一(満州国総務庁次長、中江丑吉関連で登場する阪谷芳直の父)、横山勇(当時関東軍第一課長)も話は聞いて知っていたらしい。
昭和9年(康徳元年 1934年)12月、関東軍参謀副長に赴任してきた板垣征四郎少将が、「実行板垣」の本領を発揮して、黙々として権益主義者に食い荒らされた満州国を、再び民族協和の独立国に立て直そうとして日系官吏の入れ替え、協和会幹部の満州国政府の改組をされたことは既に述べた。山口曰く「名コンビ」私たちのような後のことを知ってる者から言わせると「恐怖のコンビ」誕生の瞬間ですな。
(中略)
関東軍参謀として、花谷正中佐と、辻政信大尉が赴任してきた。この二人が、板垣参謀長の意図を受けて、真正協和会の建設に乗り出した。花谷正は、満州事変の火蓋を切った、関東軍一の荒武者であって、将校のビンタを張るほど激しい人だった。辻政信の知謀については、余りにも有名であるが、非常な勉強家であった。関東軍参謀に赴任してくるとすぐ、書類庫に潜り込んで、20日間、事変当時の記録を読破して、当時の戦略、計略をすっかり調査した。そして、花谷中佐に向かって、あべこべに満州事変の意義の重大性を説明して、「先輩が残した陸軍のこの大事業の完成に捧げる事が出来たら、一生、大尉でも結構です」と独逸留学を辞退して、花谷中佐をすっかり感心させてしまった、と言う熱情の参謀であった。
この荒武者と才子の二人の名コンビで、協和会の再建を始めたのである。辻大尉は、宣言、規約、組織など専ら文筆を担当し、花谷中佐が協和会の普及と運動の指導を担当した。(後略)p.365
実際、この後花谷は協和会の言うことをきかない者には上位の役人から下の者まで暴力で言うことをきかせたことが書かれていますし、辻は東京にいた石原莞爾(この時参謀本部作戦課長)にレクチャーを受けて、協和会に関する板垣訓話などを起草します。後にインパールでありとあらゆる人間に暴力をふるって自殺者を多数出した花谷と、やたらめたらビラまき(怪文書まき?)が好きな辻の下地は、実は協和会が作ったと言っても過言ではないのかも。
実はこの花谷・辻の行動について石原莞爾は非常に立腹していたことが伝えられています(『挫折の昭和史』)
それにしても、この本が書かれた昭和48年当時は花谷、辻の悪人ぶりは世間に知れ渡っていた筈なんですが、それを無視してのこの山口の賞賛ぶりは流石に引いてしまいます。ノモンハン事件でも、大敗の原因は辻の無茶な作戦にあるのは定説なんですが、それを山口は「石原将軍が関東軍を去った」事が原因としています(p.422)。協和会にとって得な人は悪魔でも良い人と言うことなんでしょうか、かえって割り切った態度で判りやすくていいのかも。
次の引用も、そのような山口の性格を偲ばせます。
軍司令官山田乙吉中将と参謀長鈴木貞一少将に、山口が次長新任の挨拶と特別工作の計画を報告した。鈴木参謀長と話していると、どうも言葉に千葉県なまりがある。山口が思いきって、鈴木はアレだろ(^^;)
「鈴木閣下は、千葉県ではありませんか」
「俺は山武だが、君はどこだ」「私は君津です」ということから、
急に親しみを感じた。
(中略)山口は、
「参謀長閣下、今日は、私のご挨拶ということにして、幕僚のみなさんもご一緒に願えませんか」
それも快く承諾されて、三台の自動車を列ねて料亭「富士屋」に行った。副官と参謀、合わせて12,3人であった。名将の下に何とかのことわざの通り、立派な将校の揃いであった。(後略)
p.404-405
次もそれを感じさせるようなお話し
石原将軍の新満州産業方針の(2)の「日本の新鋭企業家を起用して重要産業を委せる」と言う方針をキャッチして起用したのは、日産の鮎川義介である。彼は、先づ、「溶鉱炉の火は落ちた」で有名な浅原健三をして、石原将軍に近づけた。浅原は、左翼運動から一転して東亜連盟の礼賛者となり、東京に出て来て、東亜連盟の事務長を引きうけた。「原稿料収入で足ります」といって、東亜連盟事務長の経費を賄っていた。石原将軍の無二の片腕と世間が信ずる間柄になった。彼は、日産重役の浅原源三の親戚だと自称していた。p.428「坊主にくけりゃ袈裟まで憎い」と言う感情がすごい表れてます。確かに日産の鮎川義介は「三キ三スケ」といわれる東条英機を中心とする満州権益集団になるわけですけど、そもそも鮎川を満州に招請したのは石原莞爾なんだよね…。浅原に関しては拙ブログの1,2,3辺り参照。確かに鮎川とは遠縁らしいのだが、石原に近づいたのは鮎川とは無関係。
主な引用は以上です。
これらの本に関わった大湊義博氏が言うように、彼の記述は満州国を知る貴重な資料だとは思います
が、確かに持っていた目標は崇高だったのかも知れないけど、性格に随分問題があった人のような気がします。
まあ、戦後はいろいろ責められもしたでしょうし、更に折角書いた著作『消えた帝国 満州』(毎日新聞社)が当初の原稿の跡形もなく編集削除されて別物にされてしまった(『満州国協和会史』あとがき)ともあれば、性格が曲がるのも判るような
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