拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら。
今田新太郎が、神兵隊事件のときに「神兵隊某幹部に恩賜の拳銃を贈った」と言う噂があり、しかもその直後に新疆出張を命じられて日本を出ていたのが聴取逃れと見られていたことは前回も書いた。
ところがこの「噂」は単なるデマではなかったようだ。
大森曹源という人物がいる。禅宗の坊様である。
…ただし得度されたのは戦後の話で、戦前は「大森一声」という名で皇道塾、錦旗会などの右翼団体を主催していた運動家だったらしい。詳しくはwikipedia参照。
この人が昭和46年(1971年)頃、インタビューに回答し、それは「大森曹源(一声)氏談話速記録」としてまとめられている。ここで、大森は一つ興味深いエピソードを語っている。
つまり「今田新太郎が恩賜の拳銃を誰ぞに贈った」というのは全く根も葉もない話ではなく、それなりに裏付けがあると言う事。
私はこのようなルートを考える。
(1)柳条湖事件における片岡or奥戸の”功績”に対して今田が恩賜の拳銃をプレゼントしたが、後々片岡or奥戸がそれを周囲に見せびらかして自慢するようになり、それが噂となった。今田自体は神兵隊事件にはノータッチ
(2)柳条湖事件がきっかけとなって今田と片岡or奥戸の間に交流関係が出来、神兵隊事件においてもその後ろ盾になっていることを示すために今田が恩賜の拳銃をプレゼントしたが、こんなかたちでばれた
のどちらかかな?と。
この時代の今田の思想スタンスが「中国ラブ」以外は未だによくわかんないので、神兵隊事件に関わっていたかどうか判断付かないです…。
おまけ
どうしても「恩賜の拳銃」が気になるので、『陸軍大学校』『陸軍大学校〈続〉』と言う、かなり古い本を図書館で借りてみたのだが
…
そんなの書いてなかったよヽ(`Д´)ノ
今田そんな結構な物をいつもらったんだ???
omake
今田新太郎が、神兵隊事件のときに「神兵隊某幹部に恩賜の拳銃を贈った」と言う噂があり、しかもその直後に新疆出張を命じられて日本を出ていたのが聴取逃れと見られていたことは前回も書いた。
ところがこの「噂」は単なるデマではなかったようだ。
大森曹源という人物がいる。禅宗の坊様である。
…ただし得度されたのは戦後の話で、戦前は「大森一声」という名で皇道塾、錦旗会などの右翼団体を主催していた運動家だったらしい。詳しくはwikipedia参照。
この人が昭和46年(1971年)頃、インタビューに回答し、それは「大森曹源(一声)氏談話速記録」としてまとめられている。ここで、大森は一つ興味深いエピソードを語っている。
鈴木善一氏が私に会いたいと言ってきたのです。それで会ったのです。そしたら、神兵隊という名前はまだなかったのですが、いよいよ決起するというのです。(中略)それで私は考えたのです。飛行機が出撃し、宮様内閣が出来るというのに、手榴弾や機関銃や大砲ぐらいあってもいいのにどうして武器がないのか、おかしいじゃないかと、そんなちゃちな、上の方ばかり大きくて、実行部隊が粗雑な、そんな計画じゃ駄目だ、やめなさいといったのです。これは彼の名誉に関することですから言いたくないのですが、自分はあまり進まないのだが、やめられないのだと、そこで前田虎雄さんにあってくれと言うので、明治神宮の前の何とかという旅館に私を連れて行ったのです。そこには前田の外に奥戸足百と片岡駿がいました。これは満州から来ていたのです。二人の内のどっちかが、今田新太郎が陸大卒業の時頂いた恩賜の拳銃を持っていました。(以下略)この2人の名前に見覚えはないだろうか?-そう、柳条湖事件で今田と一緒に行動していたという雄峰会のメンバーである。
p.16(106集 第1回速記録)
つまり「今田新太郎が恩賜の拳銃を誰ぞに贈った」というのは全く根も葉もない話ではなく、それなりに裏付けがあると言う事。
私はこのようなルートを考える。
(1)柳条湖事件における片岡or奥戸の”功績”に対して今田が恩賜の拳銃をプレゼントしたが、後々片岡or奥戸がそれを周囲に見せびらかして自慢するようになり、それが噂となった。今田自体は神兵隊事件にはノータッチ
(2)柳条湖事件がきっかけとなって今田と片岡or奥戸の間に交流関係が出来、神兵隊事件においてもその後ろ盾になっていることを示すために今田が恩賜の拳銃をプレゼントしたが、こんなかたちでばれた
のどちらかかな?と。
この時代の今田の思想スタンスが「中国ラブ」以外は未だによくわかんないので、神兵隊事件に関わっていたかどうか判断付かないです…。
おまけ
どうしても「恩賜の拳銃」が気になるので、『陸軍大学校』『陸軍大学校〈続〉』と言う、かなり古い本を図書館で借りてみたのだが
…
そんなの書いてなかったよヽ(`Д´)ノ
今田そんな結構な物をいつもらったんだ???
omake
大森曹源氏、こんな事も話してられました
伊藤(※ばんない注 この対談のインタビュアー) 満州事変の時は、向こうにいらっしゃるわけですか。さすが花谷、予想を裏切らない(爆)
大森 私は新聞記者としての名義をもらっていきました。満州へ行きたかったものですから。
(中略)
そのときは青年時代です。第一線へ行きたくて装甲列車にのり込んでいきました。まあ、おもしろ半分に飛び歩きましたですね。しかし当時の満州というのは、その頃はまだ統制派、皇道派というようなはっきりした物はありませんでしたが、石原莞爾とか花谷正とかそういう人がいましたね。驚いたのは秦さん(※ばんない注 秦真次、陸軍中将、退役後神官)の紹介状をもって、花谷正にあったのです。花谷正は大尉から少佐になったばかりです。それが秦さんの紹介状を見まして、このこんにゃくおやじは東京で何をしているかというのです。少佐がですよ。秦さんはその前は満州の憲兵司令官でしょう。その少将をつかまえて、あのこんにゃくおやじは何をしているかというのです。それで私が満州にいる間に石原莞爾さんの幕僚ファショ的な考え方と、笠木良明さん(※ばんない注 雄峰会リーダー)の自治主義とが激突したわけです。そして笠木さん一党は、満州建国の仕事から脱退してしまうのですがその下地をそのときに感じました。官僚主義と自治主義との対立が暗黙の間にあったのです。このこんにゃくおやじと自分の上官をののしるくらいの勢いで、上官の命令を聞かないのですからね。あの調子ではやりますよ。
上掲書 p.12
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