拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら
前回で「陽和院殿の実名がわからーん」…というところで話は中座したのだが。
その後、この時代の公家女性の実名にはある”名付けのルール”があることを思い出した。
それは「父親の実名を一字拝領する」という物。
例としてあげると、
・後陽成天皇生母(誠仁親王妃)・勧修寺晴子の父の名前は勧修寺晴右
・後陽成天皇女御・近衛前子の父の名前は近衛前久
というのも、実名というのは官位をもらうときの記録のためだけに必要な物なので、わざわざ最初からつける必要が無くなっていたからなのですな。
皇族レベルでも、女性の実名というのがかなりいい加減な物だったことがのヒロイン・品宮常子内親王の名付けの段取りを見ていても伺えます。実生活では「品宮」「北政所」※常子内親王は近衞基凞の正室だったと言われることが多くて、「常子」はほとんど使わなかったようですね。
…
前置きが長くなった。
つまり、この頃の公家の慣例に基づくと、陽和院殿の実名というのは簡単に分かる…という事に今頃気が付いたのであった(^^;)
陽和院殿は平松時庸の養女だったという事からすると「平松時子」かと。
ただし勧修寺晴子、近衛前子の2例は皇族妃・天皇生母、また実子でもあることから父の上1字の拝領となったとも考えられます。養女であった陽和院殿は遠慮して下1字の拝領「平松庸子」だった可能性もあるかな。
或いは、宮仕えを始めた頃は、まだ平松時庸の養女ではなく交野時貞の娘だったとすると「交野時子」「交野貞子」のどちらかだったか。
※なお、平松家・交野家は平氏末裔ですので、実際の位記では「平時子」とか「平庸子」とか書かれていたと思われます。
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