拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ネット上で石原莞爾の家庭関係について書いているところはほとんどない…と思う。
莞爾の関係者の子孫である人が公開している系図ぐらいしかない。
その裏にある事情も、今まで調べた感じで何となく伺える。恐らく石原莞爾というのが余りにも特殊な人物なので、余り表に出てきたくないんだろうな…
例えば、松沢哲成と言う人が書いた「石原莞爾と世界最終戦論」(『社会科学研究』第22巻3号 1971年1月)について、莞爾の弟・六郎が「松沢の議論の多くはばかげたこと」だと言っていたそうです(『『日米対決』と石原莞爾』第1章註)。というのも、松沢の論は「石原は数多くの病気をしており、それが変人とも言われる性格の原因になった」としているからです。遺族にしたらたまった物ではないでしょう。
更にこんな話も。
しかし、『石原莞爾―生涯とその時代』には莞爾の縁者が複数登場します。
今回はあえて、その膨大な記述から、莞爾の縁者を発掘し、家系関係を明らかにしてみます。
…実は既に死んだ人が多いので問題も少なそうと言うのが発掘しようと思った一番の理由です。
莞爾の関係者の子孫である人が公開している系図ぐらいしかない。
その裏にある事情も、今まで調べた感じで何となく伺える。恐らく石原莞爾というのが余りにも特殊な人物なので、余り表に出てきたくないんだろうな…
例えば、松沢哲成と言う人が書いた「石原莞爾と世界最終戦論」(『社会科学研究』第22巻3号 1971年1月)について、莞爾の弟・六郎が「松沢の議論の多くはばかげたこと」だと言っていたそうです(『『日米対決』と石原莞爾』第1章註)。というのも、松沢の論は「石原は数多くの病気をしており、それが変人とも言われる性格の原因になった」としているからです。遺族にしたらたまった物ではないでしょう。
更にこんな話も。
実のところ昭和27年に鶴岡市生まれで高校まで鶴岡で育ったのにもかかわらずつい最近まで石原莞爾のことは何も知りませんでした。地元の人間でも石原莞爾のことを知らず、その親族もそれを明らかにせずヒッソリと生きていたのではないか、と言う様子がうかがえます。
(中略)
「いしはら」という発音に疑問を持ったのはなぜか突然高校時代の記憶(同級生のなかに石原君がいて初めて会ったとき 「僕は『いしはら』ではなく『いしわら』です。」と自己紹介をしたこと)がよみがえったかたらです。
調べてみると彼は石原莞爾の親族でしたし遺産の相続権もありました。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yatsu8hd/forum/16.html
しかし、『石原莞爾―生涯とその時代』には莞爾の縁者が複数登場します。
今回はあえて、その膨大な記述から、莞爾の縁者を発掘し、家系関係を明らかにしてみます。
…実は既に死んだ人が多いので問題も少なそうと言うのが発掘しようと思った一番の理由です。
莞爾の父方祖父 重道
実は中根重将の弟、婿養子となる。新徴組の世話役となっていた。戊辰戦争後、庄内藩は磐城平への転封が予定されていたことから早々と家屋敷を売り払うが、その後転封計画は中止となったため、家屋敷を失った石原家は路頭に迷ったという。明治3年(1870年)42歳で死去(なので、莞爾は祖父のことを知らない)
莞爾の父方祖母 乙男
莞爾の父:啓介
警察官として奉職、主に山形県を中心として、後には埼玉県などにも転勤する。この転勤生活が莞爾の精神基盤に影響を与えたという意見がある(『石原莞爾 愛と最終戦争』)
莞爾の母:鈺井(カネイ)
実家の白井家は三河以来の直参旗本から幕命により酒井家付きになったという家柄。祖先に庄内藩藩校・致道館の設立に尽力しながら代替わりに伴って一族郎党解職の憂き目にあったという白井矢大夫がいる。伯父・重士によると莞爾はこの矢大夫に性格が似ていたらしい。
なお、莞爾は30代になって妻・テイ子の取りなしによって和解するまで、この両親との仲はかなり悪かったらしい。
莞爾の大伯父 中根重将
弟・石原重道が早世したため、残された乙男、啓介らを引き取り面倒をみた。
莞爾の叔父 白井重士
陸軍中佐。家の貧困のために中学卒業で陸軍入隊し、兵卒から中佐まで進級した。莞爾が陸軍に入ったのはこの叔父の影響という。
莞爾の叔母 服部鉚
莞爾の父・啓介の姉。
莞爾の叔父 服部正悌
小学校校長。莞爾はこの叔父のコネで飛び級したのではと同級生にいじめられた。莞爾の最初の結婚の仲介者でもあった。
なお、莞爾の親しい後輩にあの服部卓四郎が居るが、この服部家とは関係ないらしい。
莞爾の最初の妻:泰子
清水家の出身。山形県に移住してきて財を成した素封家だったという。この縁談は莞爾の両親が勝手に勧めてあっという間に結婚させられたようで、結婚式後莞爾は妻を東京に連れて行かず、結局2ヶ月で破たんした。
莞爾の2番目の妻:テイ子(”テイ”は「金弟」と書く)
国府家の出身。国府家は士族で代々東京(江戸)在住だったという。莞爾より7歳年下だったが、残存する手紙から「ていちゃん」とかなり甘えていた(依存していた?)事が伺える(『石原莞爾 -愛と最終戦争 (再発見 日本の哲学)』に詳しい)。
莞爾の兄弟
長男 泉
生後2ヶ月で夭折
次男 孫二
生後二週間で夭折
長女 元
石原家に嫁ぐ。婚家の名字は偶然一緒だが、縁戚関係ではないとのこと。婚家の石原家は代々医者の家系であったという。
次女 志ん
中村家に嫁ぐ。夫・勝衛は陸軍軍人で、彼女が19歳の時に日露戦争で戦死。その3ヶ月後に後述の鋭敏が産まれる。子供はこの鋭敏しか無かったようだ。
三男(莞爾本人)
三女 豊
生後10日で夭折
四女 貞
24歳で早世。
四男 二郎
海軍将校。最後の階級は中佐。昭和14年、北海道で飛行機での移動中に事故死。
五男 三郎
生後1年で夭折
六男:六郎(六「土良」)
莞爾の末弟で、第二高等学校を中退(中退理由は不詳)。以後は不在がちの莞爾に変わって石原莞爾家の内々のことを任され、莞爾死後は兄の残した膨大な資料の整理に忙殺される。ある意味兄に振り回された一生だったかも知れない。昭和51年(1976年)死去。おそらく独身であったと推測。
莞爾の甥・姪
莞爾の長姉の息子 石原尚
医者。昭和14年時点で大学生。第二次世界大戦中は軍医として召集。満州、中国、フィリピンと転属、小笠原で終戦を迎える。復員後は重病となっていた叔父・莞爾に付き添っていた。1961年に莞爾の思い出を『協和新聞』に書いている。今ご存命だったら90歳ぐらい?
莞爾の次姉の息子 中村鋭敏
陸軍軍人。父の戦死3ヶ月後に誕生。莞爾は片親になった鋭敏の父親代わりだったという。東京では莞爾の家の向かいに住むなど終生近い関係を保っていた。昭和20年病没。
その妻 中村鶴
夫の死後は姑(莞爾の次姉)と共に山形県鶴岡市の石原家を頼る。莞爾の末弟・六郎死後は彼女が莞爾研究の窓口となっていた。平成16年、89歳で死去。
莞爾の甥 石原惟高
昭和14年、同じく甥の石原尚が惟高の進路について莞爾に相談している。本には明記されていないが、恐らく尚の兄弟か?
莞爾の甥 石原知津
主婦の友社社員。莞爾の談話を『主婦の友』に掲載しようとしたがGHQから懸念を示されて断念したという。莞爾の姉の子か、弟の子かは本の記載でははっきりしない。
莞爾の姪 水野美枝
これは『石原莞爾』から得たデータではなくてこちらによる。この人も長姉の子か弟の子かはっきりしない。
莞爾の従兄弟 中根清澄
その他の親族
石原重高
満鉄社員、後チョウ(さんずいに「兆」)昴鉄道顧問。
白井勇
昭和21年に農林省米穀検査課長。上司の松村謙三大臣の命で莞爾が特許を持っていた酵素肥料の自由使用許可をもらった。
実は中根重将の弟、婿養子となる。新徴組の世話役となっていた。戊辰戦争後、庄内藩は磐城平への転封が予定されていたことから早々と家屋敷を売り払うが、その後転封計画は中止となったため、家屋敷を失った石原家は路頭に迷ったという。明治3年(1870年)42歳で死去(なので、莞爾は祖父のことを知らない)
莞爾の父方祖母 乙男
莞爾の父:啓介
警察官として奉職、主に山形県を中心として、後には埼玉県などにも転勤する。この転勤生活が莞爾の精神基盤に影響を与えたという意見がある(『石原莞爾 愛と最終戦争』)
莞爾の母:鈺井(カネイ)
実家の白井家は三河以来の直参旗本から幕命により酒井家付きになったという家柄。祖先に庄内藩藩校・致道館の設立に尽力しながら代替わりに伴って一族郎党解職の憂き目にあったという白井矢大夫がいる。伯父・重士によると莞爾はこの矢大夫に性格が似ていたらしい。
なお、莞爾は30代になって妻・テイ子の取りなしによって和解するまで、この両親との仲はかなり悪かったらしい。
莞爾の大伯父 中根重将
弟・石原重道が早世したため、残された乙男、啓介らを引き取り面倒をみた。
莞爾の叔父 白井重士
陸軍中佐。家の貧困のために中学卒業で陸軍入隊し、兵卒から中佐まで進級した。莞爾が陸軍に入ったのはこの叔父の影響という。
莞爾の叔母 服部鉚
莞爾の父・啓介の姉。
莞爾の叔父 服部正悌
小学校校長。莞爾はこの叔父のコネで飛び級したのではと同級生にいじめられた。莞爾の最初の結婚の仲介者でもあった。
なお、莞爾の親しい後輩にあの服部卓四郎が居るが、この服部家とは関係ないらしい。
莞爾の最初の妻:泰子
清水家の出身。山形県に移住してきて財を成した素封家だったという。この縁談は莞爾の両親が勝手に勧めてあっという間に結婚させられたようで、結婚式後莞爾は妻を東京に連れて行かず、結局2ヶ月で破たんした。
莞爾の2番目の妻:テイ子(”テイ”は「金弟」と書く)
国府家の出身。国府家は士族で代々東京(江戸)在住だったという。莞爾より7歳年下だったが、残存する手紙から「ていちゃん」とかなり甘えていた(依存していた?)事が伺える(『石原莞爾 -愛と最終戦争 (再発見 日本の哲学)』に詳しい)。
莞爾の兄弟
長男 泉
生後2ヶ月で夭折
次男 孫二
生後二週間で夭折
長女 元
石原家に嫁ぐ。婚家の名字は偶然一緒だが、縁戚関係ではないとのこと。婚家の石原家は代々医者の家系であったという。
次女 志ん
中村家に嫁ぐ。夫・勝衛は陸軍軍人で、彼女が19歳の時に日露戦争で戦死。その3ヶ月後に後述の鋭敏が産まれる。子供はこの鋭敏しか無かったようだ。
三男(莞爾本人)
三女 豊
生後10日で夭折
四女 貞
24歳で早世。
四男 二郎
海軍将校。最後の階級は中佐。昭和14年、北海道で飛行機での移動中に事故死。
五男 三郎
生後1年で夭折
六男:六郎(六「土良」)
莞爾の末弟で、第二高等学校を中退(中退理由は不詳)。以後は不在がちの莞爾に変わって石原莞爾家の内々のことを任され、莞爾死後は兄の残した膨大な資料の整理に忙殺される。ある意味兄に振り回された一生だったかも知れない。昭和51年(1976年)死去。おそらく独身であったと推測。
莞爾の甥・姪
莞爾の長姉の息子 石原尚
医者。昭和14年時点で大学生。第二次世界大戦中は軍医として召集。満州、中国、フィリピンと転属、小笠原で終戦を迎える。復員後は重病となっていた叔父・莞爾に付き添っていた。1961年に莞爾の思い出を『協和新聞』に書いている。今ご存命だったら90歳ぐらい?
莞爾の次姉の息子 中村鋭敏
陸軍軍人。父の戦死3ヶ月後に誕生。莞爾は片親になった鋭敏の父親代わりだったという。東京では莞爾の家の向かいに住むなど終生近い関係を保っていた。昭和20年病没。
その妻 中村鶴
夫の死後は姑(莞爾の次姉)と共に山形県鶴岡市の石原家を頼る。莞爾の末弟・六郎死後は彼女が莞爾研究の窓口となっていた。平成16年、89歳で死去。
莞爾の甥 石原惟高
昭和14年、同じく甥の石原尚が惟高の進路について莞爾に相談している。本には明記されていないが、恐らく尚の兄弟か?
莞爾の甥 石原知津
主婦の友社社員。莞爾の談話を『主婦の友』に掲載しようとしたがGHQから懸念を示されて断念したという。莞爾の姉の子か、弟の子かは本の記載でははっきりしない。
莞爾の姪 水野美枝
これは『石原莞爾』から得たデータではなくてこちらによる。この人も長姉の子か弟の子かはっきりしない。
莞爾の従兄弟 中根清澄
その他の親族
石原重高
満鉄社員、後チョウ(さんずいに「兆」)昴鉄道顧問。
白井勇
昭和21年に農林省米穀検査課長。上司の松村謙三大臣の命で莞爾が特許を持っていた酵素肥料の自由使用許可をもらった。
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