拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
以前からやで紹介されていて、一度通して読んでみたかったのだが、なかなか入手する機会が無くて、年末も押し迫った今になってやっと読むことが出来た。
ちなみに既に絶版、再版の予定も今のところ無し!欲けりゃ古本屋に福沢諭吉を何枚か持っていかないと無理!…という稀覯本である。私は非地元の図書館から取り寄せました…_| ̄|○
中身は口語訳が一切無く、読みがなが一部ふってある以外はほぼ原文!…ですが、高校生以上なら何となく読めると思います(たぶん。)※ゆとり教育以降の義務教育しか受けられなかった人はこの限りにあらず
読んでみると、確かにこれは出自不明のぁゃιぃ本ではあるが、おもしろい。昔も今も、有名人のうわさ話は好きだったのね、みんなヾ(^^;)
これの口語訳だけで、このブログ1年間持たせられそうな内容なのだが、残念なことに年内に返却しないといけない_| ̄|○2週間で約250人分の殿様の噂話(しかも漢文)をUPするのはとうてい無理なので、拙別館にも関係のある2人の殿様をネタにしてみる。
(以降、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
まずは鹿児島藩(薩摩藩)の元禄3年当時の殿様・第3代藩主+島津宗家20代当主の島津綱貴さんから。
ちなみに登場する順番は巻の六、最初から数えて(巻1に出てくる家康以前の徳川家当主は除く)11番目です。ちなみに巻の二〜巻の四までは御三家+親藩大名なので、実質的には
前田家→伊達家→島津家 と3番目。表高では伊達家より上(勿論水増しバレバレ)なのだが、実力は伊達より下というように見られてたということか。ちなみに島津家の次は細川家→黒田家→浅野家→毛利家→鍋島家…と外様国持大名が続き、鍋島の次、巻の七のトップバッターとして譜代筆頭の井伊家が登場します。
話がずれた。では本文。まずは最初の名前官位紹介から。
押しつけあたえられている。
官位の「従四位下」は国持大名の初任官としてこんなところ。少将は…適当なのか、よくわからん_(。_゜)/。
紋の「十文字」は今も鹿児島県で著作権も何も無視して※家紋自体には基本的に著作権が発生しません 参照こちら薩摩揚げ屋から饅頭屋までこき使われているヾ(^^;)あの紋章。
桐は貸し衣装屋でオールマイティ紋として使われている「五三の桐」です。『島津家列朝制度』(『鹿児島県史料』「薩摩藩法令史料集」、『藩法集』(創文社)所収)でも、島津家の家紋として紹介されています。豊臣秀吉から拝領した物だったか。ただし、島津家では筆頭の家紋が丸十、次は近衛牡丹(近衛家から拝領)で、桐は余り重要な紋ではなかったようです。
庚午(=元禄3年)の後には数え年が入るはずだったのですが、書き忘れた物か空欄になっています。ちなみにこの年の綱貴の数え年は41歳です。
正室の父・「松平信平」はなかなか曰く付きの人物で、徳川家光に邪険にされた正室「中の丸殿」鷹司孝子の弟(だからもともと公家)が、何故か大名として取り立てられたという経歴です。こういうところから正室を迎えていたと言うことから見ても、この当時の島津家がなかなか見栄張りヾ(^^;)だったことがうかがえます。が、元禄3年時点ではこの正室は実は死んでいまして(○。○)、その後に迎えた上杉綱憲の娘(というのが真っ赤な偽りで、実は綱憲の妹、つまりあの吉良上野介の娘)とも延宝8年には離婚済み。…『土芥寇讎記』の調査って、結構いい加減か?ヾ(^^;)
嫡子の「忠竹」は後の島津吉貴です。改名前の名前で登場しています。
…長くなったので以下次回に続く_(。_゜)/
ちなみに既に絶版、再版の予定も今のところ無し!欲けりゃ古本屋に福沢諭吉を何枚か持っていかないと無理!…という稀覯本である。私は非地元の図書館から取り寄せました…_| ̄|○
中身は口語訳が一切無く、読みがなが一部ふってある以外はほぼ原文!…ですが、高校生以上なら何となく読めると思います(たぶん。)※ゆとり教育以降の義務教育しか受けられなかった人はこの限りにあらず
読んでみると、確かにこれは出自不明のぁゃιぃ本ではあるが、おもしろい。昔も今も、有名人のうわさ話は好きだったのね、みんなヾ(^^;)
これの口語訳だけで、このブログ1年間持たせられそうな内容なのだが、残念なことに年内に返却しないといけない_| ̄|○2週間で約250人分の殿様の噂話(しかも漢文)をUPするのはとうてい無理なので、拙別館にも関係のある2人の殿様をネタにしてみる。
(以降、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
まずは鹿児島藩(薩摩藩)の元禄3年当時の殿様・第3代藩主+島津宗家20代当主の島津綱貴さんから。
ちなみに登場する順番は巻の六、最初から数えて(巻1に出てくる家康以前の徳川家当主は除く)11番目です。ちなみに巻の二〜巻の四までは御三家+親藩大名なので、実質的には
前田家→伊達家→島津家 と3番目。表高では伊達家より上(勿論水増しバレバレ)なのだが、実力は伊達より下というように見られてたということか。ちなみに島津家の次は細川家→黒田家→浅野家→毛利家→鍋島家…と外様国持大名が続き、鍋島の次、巻の七のトップバッターとして譜代筆頭の井伊家が登場します。
話がずれた。では本文。まずは最初の名前官位紹介から。
最初からいきなりつっこみ所で「松平」となっているが、実はこれで正しかったりする。ちなみに前田も伊達も黒田も、細川を除く外様国持大名のほとんどが「松平」姓を松平薩摩守源綱貴 従四位下少将
紋 十文字桐 庚午(空欄)
正室は、松平左兵衛督信平娘。
嫡子 島津又三郎忠竹
官位の「従四位下」は国持大名の初任官としてこんなところ。少将は…適当なのか、よくわからん_(。_゜)/。
紋の「十文字」は今も鹿児島県で著作権も何も無視して※家紋自体には基本的に著作権が発生しません 参照こちら薩摩揚げ屋から饅頭屋までこき使われているヾ(^^;)あの紋章。
桐は貸し衣装屋でオールマイティ紋として使われている「五三の桐」です。『島津家列朝制度』(『鹿児島県史料』「薩摩藩法令史料集」、『藩法集』(創文社)所収)でも、島津家の家紋として紹介されています。豊臣秀吉から拝領した物だったか。ただし、島津家では筆頭の家紋が丸十、次は近衛牡丹(近衛家から拝領)で、桐は余り重要な紋ではなかったようです。
庚午(=元禄3年)の後には数え年が入るはずだったのですが、書き忘れた物か空欄になっています。ちなみにこの年の綱貴の数え年は41歳です。
正室の父・「松平信平」はなかなか曰く付きの人物で、徳川家光に邪険にされた正室「中の丸殿」鷹司孝子の弟(だからもともと公家)が、何故か大名として取り立てられたという経歴です。こういうところから正室を迎えていたと言うことから見ても、この当時の島津家がなかなか見栄張りヾ(^^;)だったことがうかがえます。が、元禄3年時点ではこの正室は実は死んでいまして(○。○)、その後に迎えた上杉綱憲の娘(というのが真っ赤な偽りで、実は綱憲の妹、つまりあの吉良上野介の娘)とも延宝8年には離婚済み。…『土芥寇讎記』の調査って、結構いい加減か?ヾ(^^;)
嫡子の「忠竹」は後の島津吉貴です。改名前の名前で登場しています。
…長くなったので以下次回に続く_(。_゜)/
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