拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
桐野作人さんのブログのこの記事を読んで、初めて「本藩人物誌」の”町田久則”という人物の項目を読んでみる。というかこの人物が立項されていることすら全く知らなかったよ(^^;)
原文はちょっと長いので、概要を箇条書きにて
町田伊賀守久則入道石心(源六久慶、勘解由次官)
・町田久政の息子 ちなみに久政は島津本宗家の家老・町田久倍の従弟、朝鮮出兵で慶長三年戦死。
・父が死んだので新恩地100石をもらって鹿児島に移住 父・久政は久倍の代わりに大口(現鹿児島県伊佐市)の地頭役の代行を務めていたので、大口に住んでいたと思われる
・庄内の乱の時は山田城攻めで黒木越前を討ち取るという功績をたてる
・関ヶ原の合戦の時は途中で島津義弘とはぐれてしまい、他10人の侍と共に近衛家に助けてもらう
・この時に薩摩国帰国のたしにした銀1貫目を三輪山大先達前官から借りたのが久則 この三輪山借金事件ヾ(^^;)の舞台がもしかしてこの寺?
・寛永13年4月20日(…慶長5年からえらく飛ぶな)に市来備前の後釜として島津忠朗の家来となり5月2日に加治木に移住、300石をもらう
・寛永15年11月に又鹿児島に移る
・慶安2年に島津光久の家老になる
・寛文2年に家老を致仕
・延宝4年11月10日死去
えっと、
琉球在番奉行だったときに島津家久(忠恒)の命令で平田増宗の息子をぶっ殺したことは一切書いてませんヾ(^^;)
通りでこの記事見落としていたはずだ。
ところで
この人の奥さんのことは、実はかなり前に調べていて拙HPにUP済みだった。
…その時に「本藩人物誌」で町田久則のことを全く調べなかったようだf(^_^;)
最初の奥さん 米良権之助女
次の奥さん 伊集院久光女
この人の次の奥さんというのが、前から思っていたのだが、アヤシイのである。
原文はちょっと長いので、概要を箇条書きにて
町田伊賀守久則入道石心(源六久慶、勘解由次官)
・町田久政の息子 ちなみに久政は島津本宗家の家老・町田久倍の従弟、朝鮮出兵で慶長三年戦死。
・父が死んだので新恩地100石をもらって鹿児島に移住 父・久政は久倍の代わりに大口(現鹿児島県伊佐市)の地頭役の代行を務めていたので、大口に住んでいたと思われる
・庄内の乱の時は山田城攻めで黒木越前を討ち取るという功績をたてる
・関ヶ原の合戦の時は途中で島津義弘とはぐれてしまい、他10人の侍と共に近衛家に助けてもらう
・この時に薩摩国帰国のたしにした銀1貫目を三輪山大先達前官から借りたのが久則 この三輪山借金事件ヾ(^^;)の舞台がもしかしてこの寺?
・寛永13年4月20日(…慶長5年からえらく飛ぶな)に市来備前の後釜として島津忠朗の家来となり5月2日に加治木に移住、300石をもらう
・寛永15年11月に又鹿児島に移る
・慶安2年に島津光久の家老になる
・寛文2年に家老を致仕
・延宝4年11月10日死去
えっと、
琉球在番奉行だったときに島津家久(忠恒)の命令で平田増宗の息子をぶっ殺したことは一切書いてませんヾ(^^;)
通りでこの記事見落としていたはずだ。
ところで
この人の奥さんのことは、実はかなり前に調べていて拙HPにUP済みだった。
…その時に「本藩人物誌」で町田久則のことを全く調べなかったようだf(^_^;)
最初の奥さん 米良権之助女
次の奥さん 伊集院久光女
この人の次の奥さんというのが、前から思っていたのだが、アヤシイのである。
詳しくは拙HPの当該記事(名前をクリックすると飛びます)を見てもらうと分かるが、
島津義久の奥女中となる
→その後、義久の娘の亀寿の女中となる
→亀寿の国分城への退去に従い、鹿児島城から国分城に移る
→町田久則と結婚(この時点で亀寿の女中は壽退職したと思われるor亀寿の死後(寛永7年以降)の再婚か?)
また時期ははっきりしないが、奥仕えの功績-つまり亀寿に使えた功績により60斛の領地をもらっている。
が、この領地をくれたという人物が問題で、「諸氏系譜」町田氏(忠饒)によると、その亀寿の不倶戴天の敵・島津家久(忠恒)こそがこの領地を与えた人物なのだという。
夫・町田久則の平田増宗子息暗殺事件への関わり等も考えると、伊集院久光女は実は
亀寿側の情報を探るための島津忠恒のスパイとして働き
その功績で領地をもらった
とも考えられるのでは無かろうか。
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