拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら
前の話で、最後に
なんと、本当に他の家からも発掘ヾ(^^;)されました、「一の台」が。
前の話で、最後に
と書いていたのですがもしかしたら、私が知らないだけで他の戦国武将の家にも「一の台」がいるのかもしれない。
なんと、本当に他の家からも発掘ヾ(^^;)されました、「一の台」が。
この間から読んでいる『江の生涯』(中公新書)からの抜粋ですが
徳川家康の所にもいたよ「一の台」。
まさか島津義久の所にいた一の台が義久が死んだ(慶長16年1月死去)のでトラバーユ(古)したということは時間的なことなどから考えても不可能だろう、たぶん(^^;)。
ちなみに、『江の生涯』著者の福田千鶴氏はこの「一の台」が家康のあまたいる側室の誰に当たるのか、という推測は全くしてられませんでした_(。_゜)/ まあメインのネタじゃないからこんな所でしょう…
まあ、上記文書を読むと、御かめ(徳川義直生母・御亀の方)、御あちや(阿茶の局)、おかち(御梶の方)などより下のランクに位置ずけられているようなので、まちがっても家康の正室ではないことだけは確実だろう。
慶長十六年(1611)に豊臣秀頼が二条城で家康と会見した際の贈答では、家康の「御上臈衆」として、記載順に「御かめ様」・「御あちや様」・「おかち様」に金子三十枚、「御なつ様」に同二十枚、「上らうの御かた」・「一のたい様」に同十枚、「残御女房衆」に同七十枚、「惣之御女房達」に銀子五百枚が贈られている(「秀頼様御上洛之次第」)
『江の生涯』p.131~p.132
徳川家康の所にもいたよ「一の台」。
まさか島津義久の所にいた一の台が義久が死んだ(慶長16年1月死去)のでトラバーユ(古)したということは時間的なことなどから考えても不可能だろう、たぶん(^^;)。
ちなみに、『江の生涯』著者の福田千鶴氏はこの「一の台」が家康のあまたいる側室の誰に当たるのか、という推測は全くしてられませんでした_(。_゜)/ まあメインのネタじゃないからこんな所でしょう…
まあ、上記文書を読むと、御かめ(徳川義直生母・御亀の方)、御あちや(阿茶の局)、おかち(御梶の方)などより下のランクに位置ずけられているようなので、まちがっても家康の正室ではないことだけは確実だろう。
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