拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
以前から気になっていたのですが、今年の2月に、桐野作人氏が以下のようなコラムをUPされました。
垂水家・島津信久、波乱の生涯(上)
垂水家・島津信久、波乱の生涯(下)
島津信久は「島津久信」の名前で有名(といっても一部島津マニアの間だけだが…)で、島津義久の次女(新城)の息子に当たることから、私もずっと気になっていた人物の一人です。
上記のコラムを読んで、いろいろ思うところをUP…しようと思っていたのですが、ご存じの東日本大震災で、何か物書きする気力も萎えてしまい、今まで引きずってしまいました。
ようやくそれなりの物が書けそうな気分になってきましたので、駄文をUPしてみます。但し、都合上諸史料を詳細に比較検討できない状況なので、結構記憶とかに頼って適当に書いてますヾ(--;)
では
垂水家・島津信久、波乱の生涯(上)
垂水家・島津信久、波乱の生涯(下)
島津信久は「島津久信」の名前で有名(といっても一部島津マニアの間だけだが…)で、島津義久の次女(新城)の息子に当たることから、私もずっと気になっていた人物の一人です。
上記のコラムを読んで、いろいろ思うところをUP…しようと思っていたのですが、ご存じの東日本大震災で、何か物書きする気力も萎えてしまい、今まで引きずってしまいました。
ようやくそれなりの物が書けそうな気分になってきましたので、駄文をUPしてみます。但し、都合上諸史料を詳細に比較検討できない状況なので、結構記憶とかに頼って適当に書いてますヾ(--;)
では
>義久が一応、甥で婿の忠恒(のち家久)を後継者に認定しているにも
>かかわらず、なぜ家督問題が生じるのか
忠恒の後継者認定は、義久の主導じゃなくて、豊臣政権の主導で義久は後から追認する形だったような。
個人的には、当初から義久は忠恒の後継者認定には積極的じゃなかったように考えています。といっても、この頃の島津氏は朝鮮出兵などで次々と一族が死亡し極端な若手不足に陥っており、後継者として血統的に適当な人物と言えば忠恒ぐらいしかいなかったのも事実ですが。
>ひとつは、義久と忠恒の仲です。一応、家督に指名したのですから、
>それなりに関係は良好のはずですが、どうもそうではなかった節があります。
(中略)
>やはり忠恒が夫人の亀寿との間に男子をもうけられなかったことがいちばん大き
>いと思っています。
私は忠恒と亀寿の結婚自体にそもそも無理があったと考えています。拙ブログのこの辺辺り参照。
>信久の官名「相模守」
桐野さんのブログのコメントにも書いたのですが、これは実に重要なポイントだと考えています。理由は桐野さんがブログで書かれたとおり、「相模守」はそもそも義久の祖父でありかつ当時の島津氏にとっては神にも等しい存在であった島津忠良の名乗りであるからです。
ただ、これも桐野さんが指摘してますが、信久(久信)がいつから「相模守」を名乗ったかが、現在残っている史料からははっきりしないのが難です。後考を期したいと。
>それから8年後、垂水家2代当主・島津以久 は関ヶ原合戦後、
>佐土原島津家を再興して大名となっていたが、慶長15(1610)年に他
>界する。幕府はその跡目に孫の忠仍を指名したが、忠仍は外祖父義久
>が病床にあり、遠方では孝養ができないという理由で断ってしまった。
>忠仍があえて幕府の辞令を断ったのは、佐土原家に転出してしまえば、
>本宗家の家督相続が不可能になるからだった。
ほぼ同意なのですが、更に付け加えて、私は忠仍(信久/久信)が狙っていたのは本宗家の家督相続だけではなく、更に大きい物を狙っていたのではないかと考えています。徳川幕府はその辺を見抜いて佐土原藩主・以久の跡目に忠仍を指名したのではないかなとも思ってますが…いや、徳川幕府がそこまで九州の最果ての小藩の人事に興味もないか(ヲイ)
また、この事件は信久(当時「忠仍」、久信)の浅さをうっかり見せてしまったのではないかなとも考えています。それは桐野さんの文中でも紹介されている忠仍が幕府に佐土原藩主後継を断る手紙の内容にあります。これを忠恒(当時「家久」)が知ったら、いや忠恒じゃなくても忠仍に対して警戒を強めるんではないかと。
…まあ、忠恒はああいう性格なので、単なる警戒で終わらずに凄絶な実力行使に出たのは、みなさんご存じの通りなんですが(苦笑)
蛇足
>信久は長男久敏が気に入らず、四男久章に相続させようとした
これは四男じゃなくて次男の忠政だったような。記憶違いだったら済みません。
>かかわらず、なぜ家督問題が生じるのか
忠恒の後継者認定は、義久の主導じゃなくて、豊臣政権の主導で義久は後から追認する形だったような。
個人的には、当初から義久は忠恒の後継者認定には積極的じゃなかったように考えています。といっても、この頃の島津氏は朝鮮出兵などで次々と一族が死亡し極端な若手不足に陥っており、後継者として血統的に適当な人物と言えば忠恒ぐらいしかいなかったのも事実ですが。
>ひとつは、義久と忠恒の仲です。一応、家督に指名したのですから、
>それなりに関係は良好のはずですが、どうもそうではなかった節があります。
(中略)
>やはり忠恒が夫人の亀寿との間に男子をもうけられなかったことがいちばん大き
>いと思っています。
私は忠恒と亀寿の結婚自体にそもそも無理があったと考えています。拙ブログのこの辺辺り参照。
>信久の官名「相模守」
桐野さんのブログのコメントにも書いたのですが、これは実に重要なポイントだと考えています。理由は桐野さんがブログで書かれたとおり、「相模守」はそもそも義久の祖父でありかつ当時の島津氏にとっては神にも等しい存在であった島津忠良の名乗りであるからです。
ただ、これも桐野さんが指摘してますが、信久(久信)がいつから「相模守」を名乗ったかが、現在残っている史料からははっきりしないのが難です。後考を期したいと。
>それから8年後、垂水家2代当主・島津
>佐土原島津家を再興して大名となっていたが、慶長15(1610)年に他
>界する。幕府はその跡目に孫の忠仍を指名したが、忠仍は外祖父義久
>が病床にあり、遠方では孝養ができないという理由で断ってしまった。
>忠仍があえて幕府の辞令を断ったのは、佐土原家に転出してしまえば、
>本宗家の家督相続が不可能になるからだった。
ほぼ同意なのですが、更に付け加えて、私は忠仍(信久/久信)が狙っていたのは本宗家の家督相続だけではなく、更に大きい物を狙っていたのではないかと考えています。徳川幕府はその辺を見抜いて佐土原藩主・以久の跡目に忠仍を指名したのではないかなとも思ってますが…いや、徳川幕府がそこまで九州の最果ての小藩の人事に興味もないか(ヲイ)
また、この事件は信久(当時「忠仍」、久信)の浅さをうっかり見せてしまったのではないかなとも考えています。それは桐野さんの文中でも紹介されている忠仍が幕府に佐土原藩主後継を断る手紙の内容にあります。これを忠恒(当時「家久」)が知ったら、いや忠恒じゃなくても忠仍に対して警戒を強めるんではないかと。
…まあ、忠恒はああいう性格なので、単なる警戒で終わらずに凄絶な実力行使に出たのは、みなさんご存じの通りなんですが(苦笑)
蛇足
>信久は長男久敏が気に入らず、四男久章に相続させようとした
これは四男じゃなくて次男の忠政だったような。記憶違いだったら済みません。
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