いちおう現時点での内容を転載しておきます。
参考 ほとんど史実ばかり書いてあるのにぶっ飛んでいる(^^;)アンサイクロペディア「島津忠恒」島津義久
島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩の守護大名・戦国大名であり、島津氏の第16代当主。元祖自宅警備員、2ちゃんねらーでもある。
人物
天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。幼少の頃は大人しい性格だった こと、そして三人の弟がいずれも勇猛で優秀だったことから「愚兄賢弟の生きた見本」という陰口を叩かれていた。しかし祖父の島津忠良が、長男に自信をつけ させるために「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わる」という、誉めているんだかそうでいないんだか分からない褒め言葉を言ってしまったがために、すっ かりその気になってしまった。おかげで元服した折には、まだ祖父が存命にもかからわず、同じ「忠良」を名乗っている。
逸話
自宅の警備には定評があり、彼が居城を警備していたたために、家臣は安心して戦場に赴くことができた。島津家が九州統一寸前まで領土を拡げる事ができたのも、関ヶ原後にも領土を維持できたのも、彼のひきこもり自宅警備に寄るところが大きい。弟の義弘やロバート=デ新納などの猛将に異常に好かれていた。やっぱり基本は「受け」なのだろう。
家臣の葬式の中で、自ら出向いたのは川上久朗、山田有信の二名だけである。中でも、山田有信については、自らが棺桶を担いだと言われる。とかく、川上久朗とのアーン♥♥ばかりがネタになるけどね。
趣味は和歌であり、和歌を通じて近衛前久や細川幽斎と親しくなった。友達が少ない彼の情報ルートはこの二人のみからであったが、前者はアン チ秀吉であり、後者は戦国時代最強の「時代の空気を読む男」であったため、重大な局面において決断を誤らずに済んだ。運命の女神は義久に味方していたのか もしれない。
たまにはアウトドア的なこともやっており、一時期には犬追い物にハマった。上井覚兼は「持病の痔病で出席できません」という駄洒落をかましたため(本当)、義久の勘気を被っている。なお、上井の痔の原因が何によるものであったかは、調べてみたけど上井覚兼日記には載ってませんでした。
義久のおじいちゃんコンプレックスはそこにとどまらず、正妻まで忠良の娘(つまり実の叔母)を娶っており、その妻がなくなった後の後室ま でもが忠良の実娘である。エロゲーも真っ青の近親婚だ。最も可愛がっていた末娘も近親婚(いとこ同士)であったが、その結婚の結末については島津忠恒の項目を参照されたい。もっとも、単にお飾り君主かと言われればそうとも言い切れず、あの鬼島津こと弟島津義弘をもって「予、かたじけなくも義久公の舎弟となり」と言わしめているくらいなので、実際は鬼島津を遥かにしのぐ実力なのかもしれない。もっとも、所詮は自宅警備員の内弁慶だ、という可能性もあり、主に山本博文「通称:DQN山本」がこの学説をとっている。
彼がこもっていた自室には、古今東西の悪人の肖像画が飾られていた。本人曰く「良い事は真似しやすい。悪い事こそ真似しないように気をつけなければいけない」と、反面教師という意味だったらしいが、ひょっとするとドMなだったかもしれない(と、山本博文は力説している)。
趣味は2ちゃんねるでの煽り、叩き。天下人になった秀吉に、この上なく挑発的なお手紙を書いたもんだから,大変な事になっちゃった。