拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
文禄5年(慶長元年)7月頃の歌会で詠まれた物です。
前回分と関係があります。
なお、義久以外の列席者の物もかなりの量ありますが、掲載します。
「沙弥慰畋」は川上久隅、「沙弥玄与」は阿蘇惟賢、「沙弥紹剣」は樺山忠助、「沙弥為舟」は新納忠元、「沙弥元巣」は伊集院久信、「大炊助久正」は喜入久正、「左衛門尉増宗」は平田増宗、「雅楽助経宣」は村田経宣、「兵衛尉宗親」は平田宗親(平田増宗の弟)、「右衛門尉豊信」は八木豊信と思われます。「沙弥宗察」「沙弥与進」は人物特定できませんが義久の歌会関連では常連のメンバーで頻出しているのでちょっと記憶にある方も多いかと。「大蔵少輔長治」「左衛門尉長家」「沙弥珠長」「沙弥宗運」「沙弥宗哲」…は誰か分かりません_(。_゜)/しかし、長治、長家は信輔(近衛信尹)、義久の次に歌を詠んでいるところから見て信輔の近臣ではないかと思われます。
この歌会の一番の注目人物は何と言っても8番目に歌を詠んだ「沙弥幸侃」こと伊集院忠棟でしょう。列席者の大半が義久に近い人物ばかりであることからみて、この頃はまだ義久の信頼を置かれていた近臣として列席していたとも考えられます。が、この歌会の開催場所が文禄4年の太閤検地の後に伊集院忠棟領となった都城であるところからみて、”接待場所の当主”として参加した物とも見られます。
どちらにしろ、この和歌はもしかしたら現在に残る唯一の忠棟作の和歌かも知れませんね。
前回分と関係があります。
なお、義久以外の列席者の物もかなりの量ありますが、掲載します。
既に何回もご登場されている方もいらっしゃいますが、「在本田助之丞蔵文書中」
於庄内都城 近衛殿様御興行之和歌
詠松蔭新凉倭歌 信輔
立帰る名残こそあれ松かけはすゝしき秋のやとりとおもへハ
詠松蔭新凉倭歌 竜伯
あつき日の影も忘て馴なるゝ松のしつえに秋風そふく
秋日同詠松蔭新凉和歌 大蔵少輔長治
とひよるもかわらぬ友と松陰にかたろふ秋の袖のすゝしさ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 左衛門尉長家
秋風をたもとにふれてあかなきハなミ木の松の下すゝミかな
詠松蔭新凉和歌 沙弥慰畋
見舞
ときわなる松とやハ見ん秋きてのかけハありしにかわるすゝしさ
秋日同詠松蔭新凉和歌 沙弥玄与
枝しけき松の下露落添て衣手すゝし秋の初風
詠松蔭新凉和歌 沙弥紹剣
きゝて猶すゝしき宿の松陰に吹もたゆむな秋の初風
詠松蔭新凉和歌 沙弥幸侃
わするなよとひよる松の下すゝミ千とせの秋ハよしやふるとも
詠松蔭新凉和歌 沙弥珠長
すゝしさをまねきし御代の名にしおハヽ玉松かえの庭の秋かせ
詠松蔭新凉和歌 沙弥為舟
すミよしや西に秋風松吹ハ涼しさよするおきつ白波
詠松蔭新凉和歌 沙弥宗運
植そへし真砂の庭の松かけに千とせの秋もこもるすゝしさ
詠松蔭新凉倭歌 沙弥宗哲
世を遠くみそのゝ松の枝も葉もならさてすゝし秋の夕風
詠松蔭新凉和歌 沙弥元巣
あふくてふ君か千とせの松かけのすゝしさならす宿の秋風
詠松蔭新凉倭歌 沙弥宗察
松の葉のかわらぬかけの梢より吹きてすゝし秋の初かせ
詠松蔭新凉倭歌 沙弥与進
すゝしさそきのふにもにぬ松の色ハ秋を見せたる木かけならねと
秋日同詠松蔭新凉和歌 大炊助久正
いさ清きみきりの松の声立てすゝしき秋やさそひきぬらん
秋日同詠松蔭新凉倭歌 左衛門尉増宗
松陰のすゝしさもやゝ音かへて荻の上葉にかよふ秋かせ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 雅楽助経宣
立寄てけにとことハの松陰も秋の夕ハなをそすゝしき
秋日同詠松蔭新凉和歌 左衛門督道武
風の音涼しさそへて色かへぬ松の木かけも秋をこそしれ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 兵衛尉宗親
ゆふへ
秋来ぬと音にしらする松風をふるゝ夕卩の袖そすゝしき
秋日同詠松蔭新凉倭歌 右衛門尉豊信
秋来ぬと音吹かへてすゝしさハ今一しほの松のかけかな
(『薩藩旧記雑録 後編』3-83)
「沙弥慰畋」は川上久隅、「沙弥玄与」は阿蘇惟賢、「沙弥紹剣」は樺山忠助、「沙弥為舟」は新納忠元、「沙弥元巣」は伊集院久信、「大炊助久正」は喜入久正、「左衛門尉増宗」は平田増宗、「雅楽助経宣」は村田経宣、「兵衛尉宗親」は平田宗親(平田増宗の弟)、「右衛門尉豊信」は八木豊信と思われます。「沙弥宗察」「沙弥与進」は人物特定できませんが義久の歌会関連では常連のメンバーで頻出しているのでちょっと記憶にある方も多いかと。「大蔵少輔長治」「左衛門尉長家」「沙弥珠長」「沙弥宗運」「沙弥宗哲」…は誰か分かりません_(。_゜)/しかし、長治、長家は信輔(近衛信尹)、義久の次に歌を詠んでいるところから見て信輔の近臣ではないかと思われます。
この歌会の一番の注目人物は何と言っても8番目に歌を詠んだ「沙弥幸侃」こと伊集院忠棟でしょう。列席者の大半が義久に近い人物ばかりであることからみて、この頃はまだ義久の信頼を置かれていた近臣として列席していたとも考えられます。が、この歌会の開催場所が文禄4年の太閤検地の後に伊集院忠棟領となった都城であるところからみて、”接待場所の当主”として参加した物とも見られます。
どちらにしろ、この和歌はもしかしたら現在に残る唯一の忠棟作の和歌かも知れませんね。
<追記>
「大蔵少輔長治」は進藤長治かとも思われますが、進藤長治の官名は“筑後守”とか”左衛門大夫”のようなので、異なるのが疑問。
ちなみに進藤長治の娘があの大石内蔵助の高祖母にあたるらしい(進藤家自体が大石家と相互に婚姻関係を結んでいるようであります)
「大蔵少輔長治」は進藤長治かとも思われますが、進藤長治の官名は“筑後守”とか”左衛門大夫”のようなので、異なるのが疑問。
ちなみに進藤長治の娘があの大石内蔵助の高祖母にあたるらしい(進藤家自体が大石家と相互に婚姻関係を結んでいるようであります)
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