拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
以前拙ブログのこの記事で
紹介されていた手の「寵愛」が好きでかつ島津家に興味のある方は「庄内陣記」(戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年)所収)を読むと萌え死にますよ!(なんつーブックレビューだ…)
…という、実に恐ろしいお話を書いたことがあるのですがヾ(^^;)
言い出した以上は、いくつかは紹介せねばなるまい(をーい)
ということで、お子さまにはとても紹介できない庄内の乱、始まり始まり~ヾ(--;)
※以下、同性愛的な表現が含まれますので、その手の事が苦手な方はこちらを押して下さい。その手の話が出ない庄内の乱の説明に跳びます。
言い出した以上は、いくつかは紹介せねばなるまい(をーい)
ということで、お子さまにはとても紹介できない庄内の乱、始まり始まり~ヾ(--;)
※以下、同性愛的な表現が含まれますので、その手の事が苦手な方はこちらを押して下さい。その手の話が出ない庄内の乱の説明に跳びます。
※以下長文に付き、ばんない超訳(元の文は書き下し文です)+適宜改行を入れております。
合戦前に城主の許可付きでデートかよヾ(--;)
しかも城主、デート申し込みの手紙に「よくやった!感動した!」(古)なんて意味合いのこと言ってるし、どーなってんの島津家中。
あと内村半平くんは、この文章を見る限りでは伊集院忠真と春田主左衛門とふたま…いやなんでもありません(棒読み)
半平君をしばいたという奈良原くんですが、しばいた理由については不明のようです。でも、後の記述を見るとたぶん主君と敵の二股かけてもおとがめ無しという半平君の美貌に嫉妬したんですよヾ(--;)
実はこの前の「柳川原合戦之事付鎗合之事」が、この話の前章になっているのですが、あまりにも長文のため省略させていただいております<(_ _)>
あらすじを申し上げますと
「慶長4年(1599年)11月8日の朝に志和地城から薪取りに向かった雑兵が北郷家(島津本宗家側に付いています)の兵に見つかったことから合戦が始まり、伊集院側の小川半介・内村半平も打って出た。小川半介は平田民部左衛門尉と槍で打ち合った結果、互いに討ち死。内村半平は本田兵右衛門尉なる侍と槍で打ち合い、あと少しで討ち取るところまで迫ったが、比志島宮内少輔が本田に加勢したため、半平も討ち死にした」
というものです。
ただし、この前章でも小川半介・内村半平兄弟のことが書かれているのですが、兄・小川半介が討ち死にしたのは間違いなく事実のようなんですが、弟・内村半平は生き残ったという説と戦死したという説の両説が紹介されています。
なお、内村半平の彼氏である春田主左衛門ですが、上記中略部分に補注があり、その後のことが書かれております。それによると、やむを得ないある理由によって国分士の肥後某・宮内某を討ち果たした責を負って切腹するという悲劇的な最期を遂げたとのことです。ちなみにその補注によると、春田主左衛門は東郷重位の弟子だったとか。
長文になってきたので、残りの武彦右衛門尉編は別項にて。
ちなみに上記「柳川原合戦之事付鎗合之事」にでてくる平田民部左衛門尉と関わりのある人です。
内村半平ならびに武彦右衛門の事
この小川半介・内村半平兄弟は伊集院忠真の小姓役で、最も寵愛のものたちであったので、片時もそばを離れず召し仕えられていた。ところが奈良原清八というのも同じ小姓役で勤めていたが、半平にどういう恨みがあったのか、ある夜、番屋の物陰に隠れて待ち伏せし、半平を打ち叩いて、すぐに逃げ去ってしまった。半平はただちに追いかけたが、暗夜のことであったので、清八の跡影さえも見つけられず、無念に思いながら立ち戻り、兄の半介にこのことを話し、「今度清八に遭うようなことがあれば差し違える!」と泣き狂っていたのを、半介は何とかなだめて「今日はとんでもないことになったなあ。しかし、正義のない清八と差し違えて死んだとしても、これは更に無益の犬死、君父に対して不忠不孝というものだから、この度の合戦で手柄を立て君のご恩に報い、その次にこの度の恥を注ぐべきであろう。」と意見をし、この城に長々居るのは腹も立つ、日頃から武勇は磨いているのだから、今度の合戦で名誉を挙げ、うっぷんを晴らそうではないかという長年の願望を達するべく、忠真に兄弟ともに暇乞いし、志和地城に籠城した。
ところで半平は当年16歳、容顔はことのほか美しく、文武の道にも通じて、何よりも心がけが素直であったので忠真は深く寵愛していた。だから敵対するこのような状態でも、さすがに感銘しない人は居ないだろうと言われ初め、日頃からよく好かれていた。
ある時、攻撃側の中から矢尻に文をくくった物が志和地城に打ち込まれた。城中の兵達がこれを拾って城主・伊集院掃部介の前に差し出したので、中を見てみると
”一筆申し上げます。御家中の内村半平というものが14歳の春の頃から兄弟の契約をし、偕老のちぎりを深く結んでおりました。ところが思いもかけずこの戦となり、互いに敵味方になってしまって、日頃のちぎりもむなしくなり、一命を主君のために刀にかけて名を後世に残そうと思っております。しかしながら、この三年の間、互いに語らいあった仲ですので、再会することなくむなしく果ててしまうのはとても残念に思っております。なにそつ大将のお許しを得て一日だけ再会することは出来ないでしょうか。しかし、対面の時に心中するつもりはありません。日本の大小神祇、特に八幡大菩薩に誓って申し上げます。毛頭表裏もない話です。恐惶謹言。
11月5日 春田主左衛門
伊集院掃部介殿
御陣所”
とあった。掃部介は見終わって感じる物があり、「誠に世の人が耐えられないのは、執愛恋慕の情である事よ。何の苦しいことがあろうか」とすぐに半平を呼び寄せ、先の(春田の)申し出を話した。(半平は)細かいことを聞かずに了解したので、異議はないということを先ほどの矢文に結び添えて攻撃側の陣に射返した。その矢文に書いてある内容は
”矢文拝見しました。内村半平に対面したいとご希望のこと、お手紙の意図は了解しました。誠にお志の程に感じ入りました。昔より世の中に戦はいろいろありましたが、このようなことは今まで聞いたことがありません。お志を思いやり、明日柳川原でご対面下さいませ。もっとも、半平にも用件は申し聞かせたところ、細かいことは聞かずに了解しております。返書は以上です。恐惶謹言。
11月5日 伊集院掃部介忠成
春田主左衛門殿
御返事”
(中略)
おもえば、互いの心を思いやり、対面を許した城主の心の優しいことである。
こうして春田は返事をもらって喜びは大変な物であった。このような干戈を交える時期であるから、両陣に群がり雌雄を決せんと命を懸け、呉越のように憎しみあっていたとしても、志が同じ時には恨みを残してはいけない。まして長年よしみを通じていた者なら当然であろう。(春田と内村半平は)互いに柳川原で待ち合わせ、終日主演し、互いに昔話をして、涙を流し、互いに暇乞いして鎧の袖に涙を浮かべ、東西に別れていったのであった。お互いの心中を推し量るに哀しいものがある。
この小川半介・内村半平兄弟は伊集院忠真の小姓役で、最も寵愛のものたちであったので、片時もそばを離れず召し仕えられていた。ところが奈良原清八というのも同じ小姓役で勤めていたが、半平にどういう恨みがあったのか、ある夜、番屋の物陰に隠れて待ち伏せし、半平を打ち叩いて、すぐに逃げ去ってしまった。半平はただちに追いかけたが、暗夜のことであったので、清八の跡影さえも見つけられず、無念に思いながら立ち戻り、兄の半介にこのことを話し、「今度清八に遭うようなことがあれば差し違える!」と泣き狂っていたのを、半介は何とかなだめて「今日はとんでもないことになったなあ。しかし、正義のない清八と差し違えて死んだとしても、これは更に無益の犬死、君父に対して不忠不孝というものだから、この度の合戦で手柄を立て君のご恩に報い、その次にこの度の恥を注ぐべきであろう。」と意見をし、この城に長々居るのは腹も立つ、日頃から武勇は磨いているのだから、今度の合戦で名誉を挙げ、うっぷんを晴らそうではないかという長年の願望を達するべく、忠真に兄弟ともに暇乞いし、志和地城に籠城した。
ところで半平は当年16歳、容顔はことのほか美しく、文武の道にも通じて、何よりも心がけが素直であったので忠真は深く寵愛していた。だから敵対するこのような状態でも、さすがに感銘しない人は居ないだろうと言われ初め、日頃からよく好かれていた。
ある時、攻撃側の中から矢尻に文をくくった物が志和地城に打ち込まれた。城中の兵達がこれを拾って城主・伊集院掃部介の前に差し出したので、中を見てみると
”一筆申し上げます。御家中の内村半平というものが14歳の春の頃から兄弟の契約をし、偕老のちぎりを深く結んでおりました。ところが思いもかけずこの戦となり、互いに敵味方になってしまって、日頃のちぎりもむなしくなり、一命を主君のために刀にかけて名を後世に残そうと思っております。しかしながら、この三年の間、互いに語らいあった仲ですので、再会することなくむなしく果ててしまうのはとても残念に思っております。なにそつ大将のお許しを得て一日だけ再会することは出来ないでしょうか。しかし、対面の時に心中するつもりはありません。日本の大小神祇、特に八幡大菩薩に誓って申し上げます。毛頭表裏もない話です。恐惶謹言。
11月5日 春田主左衛門
伊集院掃部介殿
御陣所”
とあった。掃部介は見終わって感じる物があり、「誠に世の人が耐えられないのは、執愛恋慕の情である事よ。何の苦しいことがあろうか」とすぐに半平を呼び寄せ、先の(春田の)申し出を話した。(半平は)細かいことを聞かずに了解したので、異議はないということを先ほどの矢文に結び添えて攻撃側の陣に射返した。その矢文に書いてある内容は
”矢文拝見しました。内村半平に対面したいとご希望のこと、お手紙の意図は了解しました。誠にお志の程に感じ入りました。昔より世の中に戦はいろいろありましたが、このようなことは今まで聞いたことがありません。お志を思いやり、明日柳川原でご対面下さいませ。もっとも、半平にも用件は申し聞かせたところ、細かいことは聞かずに了解しております。返書は以上です。恐惶謹言。
11月5日 伊集院掃部介忠成
春田主左衛門殿
御返事”
(中略)
おもえば、互いの心を思いやり、対面を許した城主の心の優しいことである。
こうして春田は返事をもらって喜びは大変な物であった。このような干戈を交える時期であるから、両陣に群がり雌雄を決せんと命を懸け、呉越のように憎しみあっていたとしても、志が同じ時には恨みを残してはいけない。まして長年よしみを通じていた者なら当然であろう。(春田と内村半平は)互いに柳川原で待ち合わせ、終日主演し、互いに昔話をして、涙を流し、互いに暇乞いして鎧の袖に涙を浮かべ、東西に別れていったのであった。お互いの心中を推し量るに哀しいものがある。
合戦前に城主の許可付きでデートかよヾ(--;)
しかも城主、デート申し込みの手紙に「よくやった!感動した!」(古)なんて意味合いのこと言ってるし、どーなってんの島津家中。
あと内村半平くんは、この文章を見る限りでは伊集院忠真と春田主左衛門とふたま…いやなんでもありません(棒読み)
半平君をしばいたという奈良原くんですが、しばいた理由については不明のようです。でも、後の記述を見るとたぶん主君と敵の二股かけてもおとがめ無しという半平君の美貌に嫉妬したんですよヾ(--;)
実はこの前の「柳川原合戦之事付鎗合之事」が、この話の前章になっているのですが、あまりにも長文のため省略させていただいております<(_ _)>
あらすじを申し上げますと
「慶長4年(1599年)11月8日の朝に志和地城から薪取りに向かった雑兵が北郷家(島津本宗家側に付いています)の兵に見つかったことから合戦が始まり、伊集院側の小川半介・内村半平も打って出た。小川半介は平田民部左衛門尉と槍で打ち合った結果、互いに討ち死。内村半平は本田兵右衛門尉なる侍と槍で打ち合い、あと少しで討ち取るところまで迫ったが、比志島宮内少輔が本田に加勢したため、半平も討ち死にした」
というものです。
ただし、この前章でも小川半介・内村半平兄弟のことが書かれているのですが、兄・小川半介が討ち死にしたのは間違いなく事実のようなんですが、弟・内村半平は生き残ったという説と戦死したという説の両説が紹介されています。
なお、内村半平の彼氏である春田主左衛門ですが、上記中略部分に補注があり、その後のことが書かれております。それによると、やむを得ないある理由によって国分士の肥後某・宮内某を討ち果たした責を負って切腹するという悲劇的な最期を遂げたとのことです。ちなみにその補注によると、春田主左衛門は東郷重位の弟子だったとか。
長文になってきたので、残りの武彦右衛門尉編は別項にて。
ちなみに上記「柳川原合戦之事付鎗合之事」にでてくる平田民部左衛門尉と関わりのある人です。
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