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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回の資料は、江戸時代も中頃の史料です。
タイトルは「教訓条々」あるいは「島津綱貴教訓条々」とか「島津綱貴教訓」とされているようです。
タイトルからだいたいの内容は分かりますが、20代島津家当主にして3代鹿児島藩主であった島津綱貴が、息子に対して言い聞かせた説教(をい)なのですが、教訓それ自体ははっきりいってつまんないともかく、文章自体にはなかなか興味深い内容を含んでいますので紹介させていただきます。以下ばんない超訳ヾ(^^;)
※なお、実際の本文はほとんど改行がないのですが、あまりにも読みにくいので適宜改行を入れております。

一.一国の守護となり、一郡の主となり、国政を行い士民を撫育することは、文武の道に通じなくては難しい。文武は車の両輪、鳥の両翼のような物、どちらも欠かすことは出来ない。
一.志はいろいろな道の根本である。大本がなってなければ万事をやり遂げることは出来ない。だから、まず志を固く立てることである。
一.物をもてあそんで志を忘れる(『書経』より)、これは聖人の格言である。まして、遊興に興じて勝負事にうつつをぬかし、酒食に溺れるなんてとんでもないことである。
一.忠孝愛敬は人性の自然である。それに従えば栄えるし、逆らえば滅びる。つつしんでその人性に従うことである。
一.一日たりともむなしく過ごしてはいけない。若いときに勉強を怠れば年を取ったときに悔いても遅い。
一.人の戒めをよく聞けば良将となる、と『三略』にある。又よく諫言を聞きこれを聞き入れると言うことはとても大事なことである。
一.家臣からそのお仕えする人を知り、役職からその人を察する。だから、臣下の善悪を知らないのは、則ち暗将と言うことである。しからばまずは近臣の邪正をよくわきまえて、正直な者はこれを誉め、邪な者に対してはこれを教え諭して正道に返すべきである。これが君子の道である。これを行えば邪なはかりごとに落ちることがあろうか。よくよく心掛けるべきである。

右の上々は数は少なくて短文ではあるが、その理は広遠である。常々これを身近に置き、かみしめるように読むように。悪く心得、事新しきように引き受ければ、かえって「忠言逆耳」、「良薬口に苦し」というものである。よくよく心得て信用有るべし。
お前は今年で16歳となり、去年元服してますます成長している。私にとっては次男で、修理大夫(=島津吉貴)に取ってはすぐ下の弟、家中一門に置いては諸士の崇敬を一番に受ける者である。しからば、修理大夫が当主となったときにはおのづから政治の補佐の任務はお前を置いて他に誰がやろうか。場合によっては守護代をも勤めなければいけないのだから、国中の人の敬うところは節南山(=『詩経』に出てくる山、位高い施政者の例え)にならぶもので、これを整える才力をもってその尊敬に追いつくのである。
例を挙げてみれば、遠く周の時代には、周公旦が聖徳をもって成王を補佐して天下を治めていた。近く我が家に於いては、日新斎は賢徳をもって陸奥守貴久をたすけ、島津家の正当・中興の主としたのである。これらは聖徳賢才のなせるところである。だから普通の心がけでは、かえって人々の失笑を招いて先祖を辱めるであろう。武家に於いては珍しいことではないが、朝夕に四書五経を読んでその内容に通じ、弓馬武芸は勿論、よく軍法を学んで、習字は怠らず、書をたしなみ、詩をそらんじ、、和歌を詠い、琴をはじくのは風流なことで、皆これは左文右武の家を栄えさせる業であり、どちらかが欠けても車の一輪が折れ、あるいは鳥の片方の翼が折れるに等しい物である。光陰は矢の如く、時は人を待たない。今の年頃こそ学問にいそしむべきである。かまえていたずらに日を送るようなことがあってはならない。
そう、我が家の先祖である島津豊後守忠久は右大将源頼朝公の庶長子で、文武の達人であった。その文徳と武功は『吾妻鏡』にも載っていて明白である。文治2年(=1186年)の春、八歳で島津庄・薩隅日三カ国に封を受け、同5年、奥州の藤原泰衡攻撃の時には先陣の大将を命じられ、無事に逆賊を打ち領国に帰り、仁義を以て民をいたわられたので、その積善の余慶で500年後の我らも20代相次いで三カ国を領したのは、かつまた代々の先祖が「武将の家」という志をもって、文武に暗くなかったからである。
近代に於いては、修理大夫義久は近衛関白前久公を師範として古今和歌集の奥義を伝えられ、青蓮院尊朝親王について書道を学び、九州を打ち従えて太守と仰がれたのは文武の徳を兼備してよく旗下の諸士を指揮されたからである。義久の舎弟・兵庫頭義弘は、初めは守護代として政道を補佐し、幾度も大敵をうち破ってきた。その中で朝鮮国での大勝は異国までも隠れなく、これまた文武の徳を以て賢志が成せたことである。
中納言家久は初め又八郎忠恒といったとき、豊臣秀吉の命令により朝鮮国に渡り、義弘と力を合わせ、在陣中は風景を見ては和歌を詠い、或いは帷幕(=野営を囲む幕のこと)の下に灯をともして照高院如雪親王(=聖護院道澄、近衛前久の弟)の御手跡を手習いされていたとか。戦の中でも文芸を忘れてられない志はひとえに元祖・島津忠久、源頼朝公の長庶子、日本第一の武将の末裔である島津家の名声を汚してはならないというご意志故であろう。朝鮮国泗川新城において明の兵士20万騎が襲来したときに義弘と共に一気に切り崩し、38700あまりの敵を討ち取り、異国・本国に並ぶものない大勝利を得られたのも、ひとえに文武の道に身を投じて勉学に励まれた証拠である。
そのほうは、ここに書いた条々をもっぱらにあい守り、文武の道を学び、名を後の世に残すよう志を立て、親を愛し兄を敬うことを忘れなければ忠孝の道の中の武将の器となるであろう。くれぐれも油断のないように。教訓の条は以上である。

元禄15年6月25日                       綱貴
島津又八郎殿



ちょっと長くなり、漢文独特の言い回しでうまく現代語に訳せない部分もありましたが、そこは強引に(をい)
しかし、かなり手前味噌というか総花的な文ではありますねぇヾ(^^;)

まず、前半の箇条書きになっている教訓ですが、まあよくありがちな文なので(をい)解説省略!ヾ(--;)

また、この教訓状は綱貴の三男・島津久儔(後の初代花岡島津家当主)に宛てられた物です。「差し継ぎの弟」と次男扱いになっているのは、ホントの次男が夭折したから。ところで、島津家の次男といえば字「又四郎」が慣例だったはずなのに(島津忠将も、島津義弘もそう)、江戸時代になるとどうも違うようですね。又八郎といえば…こちら参照。
手紙を書いた父・島津綱貴は島津光久の孫・あの(をい)島津家久の曾孫になります。一度拙ブログで紹介したことがあります→こちら。後半で家久(忠恒)がかなりヨイショされているのはこれが理由でしょう。実際は朝鮮では蹴鞠ざんま…いやなんでもありません(棒読み)

また、補翼の代表者として最初に周公旦が挙げられているのはいかにも儒教教訓的で、最も当然な人が例に挙げられているわけですが、その後にいきなり島津日新斎忠良が挙げられているのはさすがにヨイショもここに極まれり、というか自画自賛すぎ!ヾ(^^;)ワンクッションおくとかしろよ…。にしても一行ですまされる島津貴久…(T∀T)

その後は教訓状当初の目的であったはずの「補翼たる者こうあるべし」からややズレてきて「武将として備えるべき文武両道」にお説教の重点が移るようです。その例として、島津家初代・忠久が挙げられるのは別に不審はないのですが、書いてある内容が嘘ばっk…いや、なんでもありません(棒読み)。というか、8歳で奥州出兵の先陣勤めるなんてどう考えてもおかしいということには誰もつっこまかったんだろうか…。いや、そこは言わない約束だったのだろうか…ヾ(^^;)
また、このころにはもう「島津家は源頼朝の末裔」という意識が浸透していることは注目点でしょう。

次はいろいろかっ飛ばしヾ(^^;)例に挙げられたのが島津義久です。和歌が堪能とか書道の達人といわれつつ、最後にろくな武功の例も挙げないまま「文武両道」と言い切っちゃってますが…(^^;)。江戸時代中頃にして、既に「義久にろくな武功無し!」は子孫に於いても認識されてたようです…_| ̄|○ その次が島津義弘。義弘に関しては義久と逆で、武功ばかりが書かれて、最後に強引に「文武両道」と言い切られてます。そして、義弘の息子・あの家久のヨイショ記事で締めくくられています。

元禄頃には
  • 初代(島津忠久)
  • -(島津忠良)
  • 16代(島津義久)
  • 17代(島津義弘)
  • 18代(島津家久(忠恒))
が取りあえず印象的な先祖として名前が挙げられた人たちのようであることは、この「教訓条々」から伺えます。
にしても
くどくなりますが、忠良のおまけ扱いの15代貴久公…。・゚・(つд∩) ・゚・ 。

※「教訓条々」は日本思想大系〈27〉近世武家思想 (1974年) に所収されています。古い本ですが、市立中央図書館レベルでも置いてあるところが多いので、入手しやすいかと。また藩法集〈第8〉鹿児島藩 (1969年) 、『鹿児島県史料』「薩摩藩法令史料集」にも所収されているようです(この2冊は大学図書館とか県立中央図書館レベルじゃないと入手は難しいかも)。

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ちょっとこの「教訓条々」では気になる点があります。

これは父で当時の当主・島津綱貴から、跡継ぎではない次男の島津又八郎久儔に宛てられた物であることは先述しましたが、この文書で「文武両道の見習うべき当主」として最後に挙げられ、一番分量を割いて書かれているのが又八郎忠恒こと家久なのは、単に直接の先祖(綱貴の曾祖父、久儔の玄祖父)だからと単純に考えていいのかどうか。
島津忠恒(家久)こそは、兄・久保の客死という棚ぼたによって、本来なら当主になれない人が当主となった人物なのです。

いちおう、この教訓状は
(久儔は)私にとっては次男で、修理大夫(=島津吉貴)に取ってはすぐ下の弟、家中一門に置いては諸士の崇敬を一番に受ける者である。しからば、修理大夫が当主と なったときにはおのづから政治の補佐の任務はお前を置いて他に誰がやろうか。場合によっては守護代をも勤めなければいけないのだから(以下略)
とか「次男(或いは補佐役)としての心得」を解いていることになっているのですが、実は「お前も家久(忠恒)公とおなじ”又八郎”、いざというときには棚ぼたに備えておけ」という裏があったのではないか…。

 
 
 
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とはず語り
>島津忠恒(家久)こそは、兄・久保の客死という棚ぼたによって、本来なら当主になれない人が当主となった人物なのです。

そんな奴はどこの藩にもいるもんだ。

水戸光國&頼重とか松平容敬とか徳川家宣とか徳川吉宗とか牧野忠寛とか伊達吉村とか・・・

まあ島津家に斎藤義龍のような奴がいたような気もするが忘れた
とはず語り 2012/05/23(Wed)13:08:54 編集
お知らせ
「とはず語り」氏が、以前拙ブログにコメントされた「あれで何」氏、「問わず語り」氏と同一人物であることを確定しました。
参考 http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/11

前回のコメントの時に私は“お願い”をしたのですが、読んで下さってないようですね。
こういうタイプの方と応答しても経験上有意義に話題が発展した試しがありませんので、今後は相応の対応を取らせて頂きます。
ばんない 2012/05/25(Fri)00:04:20 編集
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