拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
別館つながりである女性に興味を持って、片手間に調べているのだが
その女性とは
8代鹿児島藩主・島津重豪の側室であったお千万の方(おちまのかた)
という人物である。
『島津重豪』(人物叢書)によると、公家・堤代長の娘で、重豪の義理の祖母に当たる浄岸院竹姫につかえる上臈(高級女中)だったのが、浄岸院の死後に重豪の手が着いて側室になり、島津斉宣を産んだ人物だという。
(こちらのページで簡略版が読めます。)
この浄岸院竹姫というのはなかなかの人生を送った人物である。上記の『島津重豪』簡略版にも少しは書いてあるが、これは史料上の表面の話をたどっただけであって、実体はかなりどろどろしていたらしい。詳しくはこちら
この竹姫の実家である清閑寺家の分家の一つがお千万の方の実家である堤家である。あまりにもマイナーな公家で、私もよく分からなかった。検索してもこれくらいしかデータがない。
歴史資料館promised landの堤家の紹介
堤家は公家の中では下の方である「名家」のクラスで、しかも江戸時代になってから新設された新参者だった上に、正式な収入は御蔵米30石しかなかったらしい。幕府の御家人や鹿児島藩の郷士もびっくり!という貧乏公家である(^^;)お千万の方が浄岸院の上臈になったのもおそらくは「口減らし」だった可能性が高い。(事実、平成新修旧華族家系大成所収の堤家の系図を見ても幕府上臈や宮廷女官として出仕し、未婚の女性が多い。)
ところが、監督官のうるさい浄岸院がいなくなったところで手の早い重豪が側室にしちゃったというのが真相なんでは無かろうか。
ちなみにこの時代、武士が上臈に手を着けるというのは禁止行為であった。私の知ってる限りでは上臈に手を着けたエロ馬鹿殿は重豪と水戸斉昭ぐらいだ。ここにあの徳川家斉も入れて江戸時代3大精力爺トリオと私は勝手に読んでいるが。
もうひとつちなみに。島津家で側室に公家出身者がいるのはこの重豪が最初で最後である。
こうして(実体は貧乏公家だが)高位の出身であり、跡継ぎも産んだとなればお千万の方の人生は恵まれたものとなったはず
なのだが
重豪の娘・茂姫が後の徳川家斉正室・広大院となったために、お千万の方は日陰の人生を送らされることとなる。というのも茂姫が将軍家の嫁となるとなると、その茂姫の母親の方を島津家はヨイショしなければ行けないわけで、結局、お千万の方は嫡子生母でありながら鹿児島送りとなって、茂姫の母親が正室並の扱いを受けることとなってしまったのである。ちなみに茂姫の母親・お登勢の方(おとせのかた)は鹿児島藩の公式資料には「大坂蔵屋敷の足軽の娘」とあるが、素性不明の商人の娘という説もあるらしい。ともかくお千万の方は遙かに身分の低い女性の足下に置かれる羽目となったのである。
その後お登勢の方の弟(偽称という説もある)・市田喜内が「将軍御台所の叔父」と言うことで鹿児島藩家老に取り立てられ専横を極めたため、それに対する反発が直接的にはあの「お由羅騒動」を上回る規模だったといわれる「近思録崩れ」のきっかけになっているそうだ。
その後のお千万の方であるが、ライバルであったお登勢の方が享和元年(1801年)に亡くなり「重豪が寂しがっているから」という理由で再び江戸住まいとなる。が、なんと寂しがっている割には江戸に呼ばれたのは文化4年(1807年)と6年も後である。ちなみに「近思録崩れ」が勃発したのが翌年の文化5年である。陰謀臭い…
こんな夫と息子の対立でお千万の方が弱らないわけがなく、お千万の方は文化8年(1811年)に江戸で没してしまった。
・・・
このような経緯なので、その後近衛家と島津家の腐れ縁ヾ(^^;)(こちら参照)に対して、堤家との縁は切れてしまった者だと思っていたのだ
が
そうではなかったらしい。
国際スパイ・吉薗周三
幕末の公家・堤哲長と女中であるギンヅルの間に生まれた庶子の子に当たる人で、このHPを見る限りはかなりのくせ者だったようだが
この「ギンヅル」という人がなんと鹿児島の出身(しかもあの上原勇作の親戚)だというのだから驚いた。堤家と島津家の腐れ縁は幕末までは続いていたわけだ。
話は脱線するが、この堤哲長の子供には津和野藩の養子に出された亀井茲明(かめい・これあき)がいるが、
http://www.silverbirch.jp/sunshine/kusaka_01.html
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/kamei.html
島津家と亀井家のおつきあいのほどは不明である。
おまけ1
堤家の邸宅のあった場所(adobe acrobatが必要です)
京都御苑内の、近衛邸の近くだったようです。分かってたらついでに写真取ってきたのに_| ̄|○
おまけ2
堤家の菩提寺は松林院
京都には何カ所かありますが、これが伏見の松林院だとすると、薩摩藩御用達・寺田屋の菩提寺であります。ますます腐れ縁?ヾ(^^;)
ちなみに伏見の松林院は室町時代に天皇になり損ねた男?崇光院の菩提寺であり、かなり由緒ある寺なのだが予想通りマナーの悪い幕末ヲタの襲来のためか現在は拝観できなくなってしまったらしい(T_T)
その女性とは
8代鹿児島藩主・島津重豪の側室であったお千万の方(おちまのかた)
という人物である。
『島津重豪』(人物叢書)によると、公家・堤代長の娘で、重豪の義理の祖母に当たる浄岸院竹姫につかえる上臈(高級女中)だったのが、浄岸院の死後に重豪の手が着いて側室になり、島津斉宣を産んだ人物だという。
(こちらのページで簡略版が読めます。)
この浄岸院竹姫というのはなかなかの人生を送った人物である。上記の『島津重豪』簡略版にも少しは書いてあるが、これは史料上の表面の話をたどっただけであって、実体はかなりどろどろしていたらしい。詳しくはこちら
この竹姫の実家である清閑寺家の分家の一つがお千万の方の実家である堤家である。あまりにもマイナーな公家で、私もよく分からなかった。検索してもこれくらいしかデータがない。
歴史資料館promised landの堤家の紹介
堤家は公家の中では下の方である「名家」のクラスで、しかも江戸時代になってから新設された新参者だった上に、正式な収入は御蔵米30石しかなかったらしい。幕府の御家人や鹿児島藩の郷士もびっくり!という貧乏公家である(^^;)お千万の方が浄岸院の上臈になったのもおそらくは「口減らし」だった可能性が高い。(事実、平成新修旧華族家系大成所収の堤家の系図を見ても幕府上臈や宮廷女官として出仕し、未婚の女性が多い。)
ところが、監督官の
ちなみにこの時代、武士が上臈に手を着けるというのは禁止行為であった。私の知ってる限りでは上臈に手を着けた
もうひとつちなみに。島津家で側室に公家出身者がいるのはこの重豪が最初で最後である。
こうして(実体は貧乏公家だが)高位の出身であり、跡継ぎも産んだとなればお千万の方の人生は恵まれたものとなったはず
なのだが
重豪の娘・茂姫が後の徳川家斉正室・広大院となったために、お千万の方は日陰の人生を送らされることとなる。というのも茂姫が将軍家の嫁となるとなると、その茂姫の母親の方を島津家はヨイショしなければ行けないわけで、結局、お千万の方は嫡子生母でありながら鹿児島送りとなって、茂姫の母親が正室並の扱いを受けることとなってしまったのである。ちなみに茂姫の母親・お登勢の方(おとせのかた)は鹿児島藩の公式資料には「大坂蔵屋敷の足軽の娘」とあるが、素性不明の商人の娘という説もあるらしい。ともかくお千万の方は遙かに身分の低い女性の足下に置かれる羽目となったのである。
その後お登勢の方の弟(偽称という説もある)・市田喜内が「将軍御台所の叔父」と言うことで鹿児島藩家老に取り立てられ専横を極めたため、それに対する反発が直接的にはあの「お由羅騒動」を上回る規模だったといわれる「近思録崩れ」のきっかけになっているそうだ。
その後のお千万の方であるが、ライバルであったお登勢の方が享和元年(1801年)に亡くなり「重豪が寂しがっているから」という理由で再び江戸住まいとなる。が、なんと寂しがっている割には江戸に呼ばれたのは文化4年(1807年)と6年も後である。ちなみに「近思録崩れ」が勃発したのが翌年の文化5年である。陰謀臭い…
こんな夫と息子の対立でお千万の方が弱らないわけがなく、お千万の方は文化8年(1811年)に江戸で没してしまった。
・・・
このような経緯なので、その後近衛家と島津家の腐れ縁ヾ(^^;)(こちら参照)に対して、堤家との縁は切れてしまった者だと思っていたのだ
が
そうではなかったらしい。
国際スパイ・吉薗周三
幕末の公家・堤哲長と女中であるギンヅルの間に生まれた庶子の子に当たる人で、このHPを見る限りはかなりのくせ者だったようだが
この「ギンヅル」という人がなんと鹿児島の出身(しかもあの上原勇作の親戚)だというのだから驚いた。堤家と島津家の腐れ縁は幕末までは続いていたわけだ。
話は脱線するが、この堤哲長の子供には津和野藩の養子に出された亀井茲明(かめい・これあき)がいるが、
http://www.silverbirch.jp/sunshine/kusaka_01.html
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/kamei.html
島津家と亀井家のおつきあいのほどは不明である。
おまけ1
堤家の邸宅のあった場所(adobe acrobatが必要です)
京都御苑内の、近衛邸の近くだったようです。分かってたらついでに写真取ってきたのに_| ̄|○
おまけ2
堤家の菩提寺は松林院
京都には何カ所かありますが、これが伏見の松林院だとすると、薩摩藩御用達・寺田屋の菩提寺であります。ますます腐れ縁?ヾ(^^;)
ちなみに伏見の松林院は室町時代に天皇になり損ねた男?崇光院の菩提寺であり、かなり由緒ある寺なのだが
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上郎に手をつけるのは馬鹿殿
頂けませんな。徳川斉昭と島津重豪だけというのは。大抵の大名家は手をつけても表に出さないだけですよ。というか、幕府の大奥は将軍が側室や正室の部屋で過ごすが、島津家は夜を過ごす相手を呼びつけるなど大奥文化が違うから、上郎に手をつけるのが法度行為といえるかは分からんよ。
それに水戸藩の場合は峯姫が生存中の話だけどこちらは竹姫死後の話。
それに水戸藩の場合は峯姫が生存中の話だけどこちらは竹姫死後の話。
お願い
「あれで何」様初めまして
いえ、「初めまして」ではありませんね。
「島津忠厚 出生の謎」
(http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/91/)の記事に2回コメントされた「問わず語り(or問わず語))さんは同一人物ですね。IPが同じ(j○○○○○.mobile.ogk.yahoo.co.jp ※一部当方により伏字にしております)ですので。
ハンドルネームは一つに統一して下さいますようお願い申し上げます。
いえ、「初めまして」ではありませんね。
「島津忠厚 出生の謎」
(http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/91/)の記事に2回コメントされた「問わず語り(or問わず語))さんは同一人物ですね。IPが同じ(j○○○○○.mobile.ogk.yahoo.co.jp ※一部当方により伏字にしております)ですので。
ハンドルネームは一つに統一して下さいますようお願い申し上げます。
過去記事に失礼します。(^ ^)
戦国以降は、ザックリとしか知らないので、非常に面白く読ませて頂きました。
さすがゴージャス重豪公ですね。
こちらの御家騒動は、由羅騒動の知名度に喰われてますね。(; ̄O ̄)
公の代で御家騒動が無いのは、むしろ不自然なんで、疑問が解けました。
亀井〜やっぱ琉球繋がりなんでしょうか。
なんか可笑しみを感じました。
さすがゴージャス重豪公ですね。
こちらの御家騒動は、由羅騒動の知名度に喰われてますね。(; ̄O ̄)
公の代で御家騒動が無いのは、むしろ不自然なんで、疑問が解けました。
亀井〜やっぱ琉球繋がりなんでしょうか。
なんか可笑しみを感じました。
無題
時乃栞様コメントありがとうございます。
かなり昔の記事で、今読むと結構やっつけ仕事で恥ずかしい(汗)
確かに近思録崩れはお由羅騒動に比べるとずっと知名度は低いですね。しかし当時の藩主であった斉宣が事件後かなり厳しい処遇に置かれたことなどを見ると、単に重豪と斉宣の親子げんか(失礼)と言うだけでは済まない物が背景にあるのではと、私は思っています。
>亀井
亀井琉球守ですな(爆)ほら吹きもここまでくるとかえってすがすがしいですが。あ、でももし本人はほらのつもりじゃなかったらどうしよう。
ちなみに先日党から突然追い出されてしまった姫が末裔ですな…(しずかちゃんのほうではありません)
かなり昔の記事で、今読むと結構やっつけ仕事で恥ずかしい(汗)
確かに近思録崩れはお由羅騒動に比べるとずっと知名度は低いですね。しかし当時の藩主であった斉宣が事件後かなり厳しい処遇に置かれたことなどを見ると、単に重豪と斉宣の親子げんか(失礼)と言うだけでは済まない物が背景にあるのではと、私は思っています。
>亀井
亀井琉球守ですな(爆)ほら吹きもここまでくるとかえってすがすがしいですが。あ、でももし本人はほらのつもりじゃなかったらどうしよう。
ちなみに先日党から突然追い出されてしまった姫が末裔ですな…(しずかちゃんのほうではありません)