拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
実は以前から気になっていたのですが、偶然こちらのブログのこの記事を読んで、ちょっとまとめてみようかという気になりました。
管見で見た限りじゃ、論究した人も今までいないようだし。早物勝ち(ヲイ)
島津義弘には何種類かの肖像が伝わっています。管見で知っているのはこの3つ。
(1)尚古集成館蔵のこれ。たぶん一番有名な義弘像。
(2)確か尚古集成館か鹿児島県立歴史史料センター黎明館かが所蔵している僧体の像。
新納忠元の肖像画などとセットになっている。
※(2009/5/1追記)ネットで検索中に偶然見つけましたので、リンクしておきます。所蔵は鹿児島県立図書館みたいです。ちがってたーごめんなさい 肖像画はこちら
(3)現在、日置市の徳重神社蔵になっているやはり僧体の木像。
旧所有者の妙円寺と所蔵を巡って因縁の争いをした(今もしている?)曰く付きの像。
これとかこれとかは後世の作で論外ということで(…)
上記3つのうち、作成由来などもはっきりしているのは(3)。義弘自身が京都の相国寺の僧侶に頼んで造らせた像である。なので、(3)はおそらく義弘の生前の姿に一番近い物と思われる(みんな、がっかりすんなよー)。
(2)は、その黎明館の特別展のパンフに掲載されていたのを拝見したことがあるが、(3)に似ている。おそらく(3)とあまり時期をへだたたらないうちに作成された物であろう。
で、問題の(1)である。この画像にはいくつかの不審な点がある。
・衣装:衣冠束帯である。
・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。
・背景:肖像画をみると、幕の向こうにある義弘様を拝む、といった構図になっているが、徳川家康の肖像画とそっくり。
まず、顔にひげが生えてないという点からみて、義弘が実際に戦国武将していた時期にかかれた物ではないことは明らかである。が、この肖像画の顔は若いのでその点ですでに矛盾がある。
次に衣装であるが、黒の衣冠束帯であるから、この時代の有職故実からみて義弘が従四位以上に在籍したときの肖像画ということになる。はたして、義弘が正式に任官したのは天正16年(1588年)に従五位下、次に昇格したのは慶長4年(1599年)に従四位下、が、この慶長4年に義弘は出家してしまっている。つまり、実際に義弘が黒い衣冠束帯を着られた時期は慶長4年の、それもわずかの時期しかないのでそのときにかかれた物となる…はずなのだが、先述の「顔」の考証(戦国武将を引退した頃か、あるいは極端に若いときにかかれたか)と矛盾する。
最後に構図であるが、幕(御簾?)の向こうの上段の間に座っている衣冠束帯姿の人物を拝見させられるという構図は、先述の通り徳川家康や豊臣秀吉の有名な画像とほぼ同じである、つまりこれら「天下人」の画像の影響を強く受けて作成された物ではないだろうか。
結論をまとめると
「島津義弘の一番有名な肖像画は義弘の生前に描かれた物ではない可能性が高い」
ということ。
そして、義弘を天下人になぞらえようとする構図から見て、義弘を極度に顕彰しようとする意図がこの肖像画にはあったと思われる。義弘死後に義弘をここまで顕彰しようとする人物はただ一人、その三男で家督を継いだ物の、先代の伯父・島津義久から歴代の系図などいっさいの重要な相続品を受け継げなかった島津家久(忠恒)その人しか考えられない。
慶長7年(1607年)徳川幕府より島津家の当主として認められて実質的に当主にはなってはいた物の、形式的には当主としての体裁を整えられないままだった家久。彼にとっては父・義弘が島津家の当主となったという”物語”を作り出すこと、そして”当主”義弘から直々に家督を継いだという「虚構」を作り出すことが重要だったのではないだろうか。そのための義弘肖像画作成だったのではと思われるのである。
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管見で見た限りじゃ、論究した人も今までいないようだし。早物勝ち(ヲイ)
島津義弘には何種類かの肖像が伝わっています。管見で知っているのはこの3つ。
(1)尚古集成館蔵のこれ。たぶん一番有名な義弘像。
(2)確か尚古集成館か鹿児島県立歴史史料センター黎明館かが所蔵している僧体の像。
新納忠元の肖像画などとセットになっている。
※(2009/5/1追記)ネットで検索中に偶然見つけましたので、リンクしておきます。所蔵は鹿児島県立図書館みたいです。ちがってたーごめんなさい 肖像画はこちら
(3)現在、日置市の徳重神社蔵になっているやはり僧体の木像。
旧所有者の妙円寺と所蔵を巡って因縁の争いをした(今もしている?)曰く付きの像。
これとかこれとかは後世の作で論外ということで(…)
上記3つのうち、作成由来などもはっきりしているのは(3)。義弘自身が京都の相国寺の僧侶に頼んで造らせた像である。なので、(3)はおそらく義弘の生前の姿に一番近い物と思われる(みんな、がっかりすんなよー)。
(2)は、その黎明館の特別展のパンフに掲載されていたのを拝見したことがあるが、(3)に似ている。おそらく(3)とあまり時期をへだたたらないうちに作成された物であろう。
で、問題の(1)である。この画像にはいくつかの不審な点がある。
・衣装:衣冠束帯である。
・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。
・背景:肖像画をみると、幕の向こうにある義弘様を拝む、といった構図になっているが、徳川家康の肖像画とそっくり。
まず、顔にひげが生えてないという点からみて、義弘が実際に戦国武将していた時期にかかれた物ではないことは明らかである。が、この肖像画の顔は若いのでその点ですでに矛盾がある。
次に衣装であるが、黒の衣冠束帯であるから、この時代の有職故実からみて義弘が従四位以上に在籍したときの肖像画ということになる。はたして、義弘が正式に任官したのは天正16年(1588年)に従五位下、次に昇格したのは慶長4年(1599年)に従四位下、が、この慶長4年に義弘は出家してしまっている。つまり、実際に義弘が黒い衣冠束帯を着られた時期は慶長4年の、それもわずかの時期しかないのでそのときにかかれた物となる…はずなのだが、先述の「顔」の考証(戦国武将を引退した頃か、あるいは極端に若いときにかかれたか)と矛盾する。
最後に構図であるが、幕(御簾?)の向こうの上段の間に座っている衣冠束帯姿の人物を拝見させられるという構図は、先述の通り徳川家康や豊臣秀吉の有名な画像とほぼ同じである、つまりこれら「天下人」の画像の影響を強く受けて作成された物ではないだろうか。
結論をまとめると
「島津義弘の一番有名な肖像画は義弘の生前に描かれた物ではない可能性が高い」
ということ。
そして、義弘を天下人になぞらえようとする構図から見て、義弘を極度に顕彰しようとする意図がこの肖像画にはあったと思われる。義弘死後に義弘をここまで顕彰しようとする人物はただ一人、その三男で家督を継いだ物の、先代の伯父・島津義久から歴代の系図などいっさいの重要な相続品を受け継げなかった島津家久(忠恒)その人しか考えられない。
慶長7年(1607年)徳川幕府より島津家の当主として認められて実質的に当主にはなってはいた物の、形式的には当主としての体裁を整えられないままだった家久。彼にとっては父・義弘が島津家の当主となったという”物語”を作り出すこと、そして”当主”義弘から直々に家督を継いだという「虚構」を作り出すことが重要だったのではないだろうか。そのための義弘肖像画作成だったのではと思われるのである。
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無題
こんばんは。コメントありがとうございます。
早速ながら、戦国武将で髭を生やさなかった人の例をいくつか教えて下さいますか。肖像画などがネット上で見られるのであればなおいいのですが…。よろしくお願いします。
早速ながら、戦国武将で髭を生やさなかった人の例をいくつか教えて下さいますか。肖像画などがネット上で見られるのであればなおいいのですが…。よろしくお願いします。
無題
http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/shuzo_img/401b.jpg
実際どうだったのかは分からないんですけど、大内義興の肖像は髭を生やしていません。
これ以外の肖像も生やしていませんでした。
実際どうだったのかは分からないんですけど、大内義興の肖像は髭を生やしていません。
これ以外の肖像も生やしていませんでした。