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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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1944年(昭和19年)11月下旬、にわかに土田青年ら飛行学校生徒は南方派遣を命じられます。これは
南方のガソリンで我々を飛行機に乗せ、突入させるため
p.9
つまりは特攻させるためでした。が、なぜか生徒一同には悲壮感はなかったらしく
一同まさに歓声を上げた(中略)内地を出たら最後、二度と戻れないことはわかりきっていたが、そんなことはどうでもよかったのである。
p.9
極限状況でのハイテンションと言うべきか。
ともかく最後の時が迫った土田青年は、派遣先の奈良で母親とも「最後の」面会を終え、門司港から南方行きの船に乗せられます。12月29日のことでした。
ところがこの船というのが想像を絶する物で
船は確か海邦丸といい、1万トンの油槽船で、11隻の船団に護衛艦がついていた。もう船腹が欠乏していたから、輸送の状況はひどい物で、奴隷船さながらであった。
我々は仙台の航空通信の見習士官や、太刀洗の候補生たちと共に船首の倉庫に入ったが、私の入った所は2段に仕切った上下鉄板の、高さ1m20cmぐらいの空間で、そこに一坪13人、畳一畳六人半の割りで押し込まれた。窓はなく、昼夜を問わず暗い上に、200人ほどが詰まった所に5燭光ぐらいの電球に黒い覆いをかぶせた物が一つあるだけ。南方へ行くというので夏服を着ていたが、船は潜水艦を避けるために真冬の朝鮮西海岸を北上する。人間が詰まっているから湿気が上がるが、頭上の鉄板一枚外は極寒であるから、たちまち赤錆色の水滴となり、氷のように冷たい雨が一日中降る。
我々は終日雨合羽をかぶり、着の身着のまま、膝を抱えた姿勢のままで過ごしたが、氷の雨は直に全身を湿し、身体を冷やして下痢する者が増した。食事と言っても朝夕2回に握飯1箇と湯呑み1杯の白湯だけで、他に水1滴も支給されないが、私も1月4日の夕方頃から激しい下痢を起こし、丸4日間は水1滴も飲まずに断食で直そうとしたが、それでも日に12,3回の下痢は止まらなかった。軍医の診断も薬ももちろん無い。
p.9~10
確か、今田閣下の所属していた第36師団がニューギニアに送られたときもこれに近い状況だったような。以前upした拙記事では言及してないので、また機会があれば書くかも。ただ1943年(昭和18年)に転身させられた36師団はひどい航海ではありましたが無事到着したものの、その1年後の敗戦濃厚となった1944年末から航海させられた土田青年の船は無事ではすみませんでした。
昭和20年1月9日朝、やっと台湾の高雄沖にたどり着いた所で、敵艦載機の襲撃を受けた。船団の中で1隻は先に基隆沖で魚雷2発を食らって沈みかけたが、やっと持ち直して基隆に入り、私の乗船は新竹沖で夜中に駆逐艦と接触して故障し、船団と離れてただ1隻遅れていたために、敵機の集中攻撃を受けたようである。
機銃掃射で死傷者が続出し、私の左隣にいた矢田見習士官も頭を砕かれて即死した。やがて船は火災を起こして航行不能となり、輸送指揮官は退船準備、ついで退船を命じ、我々は門司で受けてきた海難訓練通りに、軍刀を腰にぶち込んで海に飛び込んだ。
p.10
ところが、こんな極限状況なのに
日ごろ、外地に行くときは気楽で、内地に帰るときの方が怖いと聞かされていたが、果たしてその通りで、談笑しながら半ばおもしろがって飛び込んだら、真冬とは言え流石に台湾沖の海はかすかに生暖かく、いい海水浴だなあと言い合ったりした。
p.10
_(。_゜)/
死ぬか生きるかの極限状態なのに、10日間も閉鎖空間に押し込められていたので逆に開放感があったのかも知れない…。
しかし、いくら台湾が亜熱帯とはいっても時は1月9日。
しばらくすると身体が冷えて全身が震え始める。まさに歯の根が合わないという言葉通りである。後で上がってから気が付いたら、歯に詰めたセメントや銀冠は全部きれいに消え失せていたが、このとき歯をガチガチいわせたためか、それとも海水のせいか、それは分からない。
p.11
更に時間が経過すると
その内に今度は震えが止まって、身体が逆にぽーっと温かくなる。それと同時に猛烈な眠気が襲って来る。いわば凍死の一歩手前であって、眠らないように互いを突き合い殴り合うのだが、殴られても一向に感じない。中には力尽きて眠ってしまう者もある。そうなると顔を海中に突っ込んだまま死ぬのであるが、こちらもぼーっとしているから、ああ、行ったなと思う程度でそれほどの感慨はない。
p.11

結局救助の船がやってきたのは日が暮れるころ。退船したのが朝の8時45分頃で、救助されたのは午後6時半頃、つまり9時間半以上土田青年は泳ぎ続けていたことになります。すごすぎる。
しかし、土田氏は後年この時のことをこう回想しています。
どうも頭の片隅に、眠るなと言う命令が聞こえていたためか、生きてしまったが、あの時おとなしく眠っていたら大往生が遂げられたのに、といささか残念である。実際、快く眠って死ぬのだから、もう今後はあんな気持ちのよい死に方は出来ないだろうと思うと、惜しいことをしたという気持ちはいまだに消えない。
p.11~12
(○。○)
もっとも土田氏は同時に
私が死ななかったことは、後になってみれば確かに一つの親孝行であった。
p.12
とも書いてられます。

こうして九死に一生を得た土田青年は台湾の飛行場隊隊に配属されるのですが、台湾にも既に飛行機や燃料はなく、3月になって突然第9師団歩兵第7連隊(武1524部隊)へ配属されることが決まります。
飛行機で特攻して死ぬつもりだった土田青年には大変ショックだったようで「やれやれ歩兵か」とぼやきつつ、新任地へ向かうことになります。
ところがこの連隊というのが
この連隊は、関東軍として山下奉文大将の指揮下に東満国境で鍛えられ、沖縄に転出し、更に配備変更で台湾に無傷で来ていた精鋭で、現役兵を主体とし(以下略)
p.12
と言う、土田青年向きの凶ぼ…いや精鋭部隊。と言うか類は友を呼ぶのか。
ここで朝生平四郎連隊長(大佐)以下のメンバーに親切に迎えられた土田青年は、第五中隊の小隊長を命じられます。お仕事は「陣地の構築の監督」。
ところが予想通り、と言うか予想以上にこの部隊も悲惨な状況で
台湾にいながら給養は極端に悪く、朝夕は毎日兵2名を使役に出して詰み集めた野草を煮込んだ粥に同じく野草の岩塩汁1杯、昼は飯盒の底にごく少量の飯を入れ、干瓜の塩漬2切れという食事が毎日続いた。弊社は三角兵舎と言って、竹の床、泥の壁、草の屋根の、板一枚も使わない手作りの小屋を山腹に着け、小隊長以下1個小隊が入る。灯火も小皿に重油を入れ、ボロ布を芯にしたものが小隊に一つあるに過ぎない。
p.12
まあ、ニューギニアはこれ以下の状態だったわけですが、こんな所で不幸ランキングしてもしかたない。
ともかく、こんなひどい状況の中でも小隊の兵は文句言わずに穴掘りされていたそうで、即席隊長だった土田青年は「心ひそかに感謝するだけで、帰国するまで私は中隊の兵をほとんどしかることなく済ませられた。」と回想しています。

こうして穴掘りし続けてやってきた1945年(昭和20年)8月15日。
作業中だった土田青年は直接玉音放送を聞くことはなかったのですが、中隊の本部では内容を受け入れられない下士官と、実際に放送を聞いた伝令兵の間で大もめに揉めてしまいます。
それを見ていた土田青年
私は日本は結局勝てないとは思っていたが、それならなおのこと、負ける前には自分はとうに死んでいるはずと決め込んでいたから、こう先回りして降伏などされては心外であった
(中略)
今から当時の気持ちを考えると、戦後の総理大臣や代議士連中の決定した終戦だったとしたら、連隊は絶対にそんな命令なぞ一蹴して戦い続けただろうと思う。
p.14
と、当時の感想を書いています。
…とは言っても、戦争が終わった後はかなり生活が楽になったのは事実のようで、特に台湾では捕虜の扱いが緩かったことから、収容所に入れられることもなく、中隊ごとにいろいろな商売を始めたりして自活します。

こうして1946年(昭和21年)1月14日、部隊は広島県大竹港に無事帰還します。
しかし、土田青年にとって戦後の日本は余り面白くなかったようです。
まず、父親が既に亡くなっていて死に目にあえなかったこと(何と土田氏は台湾で夢に見たらしい p.15)。また、先述のように死ぬつもりだった土田青年にとっては帰国して「見るもの聞くものすべて腹だたしい」状態だったようで、一時は引きこもり状態になってしまいます。同年の4月にようやく東京大学に復学しますが
戦後のこととて研究室はなかなか議論が多くてやかましかった。
p.15
この頃の東大国史研究室について、同窓の色川大吉氏は「1946年、(中略)平泉澄ら皇国史観の一派(朱光会)が研究室から総退場したとき、村尾次郎にかわって赴任してきた井上光貞助手を中心に、大学院学生の山口啓二永原慶二稲垣康彦らの支援を受けて、国史研究室はみるみるうちに変わっていった。(中略)研究室にも自治委員会が作られ、マルクスやエンゲルスの歴史理論の研究会や、その頃出版されて衝撃を与えた石母田正『中世的世界の形成』の研究会が熱心に続けられた」(p.209)と書いています。これを見る限り確かに“議論”の類は多かったようで、元来そういうこと自体が苦手だった土田青年は折角復学した大学や研究室には殆ど顔を出すこともなく、論文を提出して1949年に卒業してしまいます。幸運にも亡くなった父が大量の蔵書を残しており(※空襲で蔵書を失った学生は多かったようだ)、図書館や研究室に行かずとも卒論は書けたようです。

そんな土田青年でしたが、結局その後はそのまま東大の史料編纂所に就職。死ぬまで日本史の学者として喰っていく道を歩んでいきます。
1968年(昭和43年)、当時東大史料編纂所助手だった土田氏は、この頃をこう回想して、この随想を締めています。
今になっても、戦争中の印象は鮮烈なものがある。およそ異常な青春時代を送り、しかも結局何の役にも立ち得なかったわけであって、批評はどのようにもできるだろうが、私としては少しも後悔の念は持っていない。いやなこともいろいろあったし、自分自身に愛想を尽かすこともあったけれども、とにかく国のために戦うことに情熱を注ぎえた点は幸福であった。それだけに、私の感覚には戦争を境にして大きな断絶があって、戦後の世の中には冷淡である。浮世の仕事や義理は、極力果たすことに務めているつもりだが、何か今の世が馬鹿らしくて、横目で見ているという感じが抜けない。少なくとも私は、今のような日本を夢見て戦ったのではなかった。ことに、何かと言えば臆病犬さながらに群がってわめき立て、正義感ぶると言ったような風潮は肌に合わない。しかし、それもこれも、所詮は人類という、お互いに余り上等とは言えない生物の一面であろうとも思い、自分の一生は戦争で一応区切りが付いたのだからとも考えたりしている。
p.16
…ところで、これらの回想録をまとめたのが、先述した同級生・色川大吉氏。この方は大変有名で私より詳しい方の方が多いかと思いますが、いわゆるマルクス主義史観の権化みたいな方でして(^^;)、土田青年が「こんな研究室嫌だ」と言っていたころ、東大歴研(後の歴史学研究会)を結成したり、あの羽仁五郎を担いだり、結局それにも飽きたらずに農村教育に没入したりという、どう見ても土田氏とは「水と油」みたいなお方でして。この土田氏の回想録もらったときに、どう思われたんでしょうねえ。色川氏がこの本を企画したときには、『きけわだつみのこえ』東大国史版みたいなのを想定されていたかと思うんですが。色川氏は土田氏のこの回想録を「うぬぬ」と思いながら読まれたのか、それとも「土田だからしゃーない」と思われたのか。
土田氏は既に他界されているのですが、色川氏はまだご健在の模様。誰か感想聞いてくれないかなヾ(--;)

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