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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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この記事は、以前今田新太郎関連で読んでいた『歴史と私』(伊藤隆)の中で紹介された
『学徒出陣の記録―あるグループの戦争体験』で紹介された回想録を素にしています。
※なお、『歴史と私』自体は拙ブログのこちらで紹介しています
※『学徒出陣の記録』も拙ブログのこちらで一度登場

何が印象的だったかというと、それまで見たことがある学徒出陣の回想録と言えば、あの有名すぎる『きけわだつみの声』など非戦・反戦色の強い物ばかりだったのですが、この回想はそういう先入観をぶっ飛ばすような強烈な内容でして。かといって好戦的かというとそうではない。もうともかく強烈、いや凶暴といった方が近いようなヾ(--;)
しかも書いた人が後に高名な歴史学者になったというのにも吹っ飛んだのでした。

ではご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


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 海没
        土田直鎮

数多くの立派な若者が死に、生き残ったのは、少なくとも事戦争に関してはおおむね屑ばかりというのがこの戦争であった。その屑どもが今になって戦争について云々しても始まるまいが、一つの史料として残したいという主旨だそうだから、できるだけ率直に当時の私を振り返ってみよう。
p.2
いきなり「生き残ったのは屑ばかり」と来ました。謙遜のように見えるが、他の同級生をディスってるようにも思えるヾ(--;)
土田直鎮青年(当時)は1924年(大正14年)1月生まれ、1943年(昭和18年)10月に一高から東大文学部に進んだというエリートでした。父親は土田氏曰く「厳格な国家主義者」だったと言うことですが、日本史専攻を選んだのは
別に意味があったのではなく、文学部の中で横文字を敬遠し、日本に縁の深い物をやろうとすれば、国史と国文ぐらいしか思いつかなかったが、国文の方は何か作品鑑賞といったような、気の利いたことを言わなければすまされないだろうと思ったからこれも逃げて、残る国史に落ち着くことにしたのである。
p.2
と言う消去法_(。_゜)/。と言うかこれじゃ私と志望動機が同じ…(をい)
この当時の東大国史学科を牛耳っていたのが、あの平泉澄ですが、先述の「厳格な国家主義者」であった父親が「(平泉が作った朱光会などの)会に入ることを禁じた。人の会に入るとどうしても心にもないことをする羽目になるから、本当にやりたいなら自分でやれ、人の後には着くな」と厳命されたため、平泉に関わることは殆どなかったようです。この父の言葉を土田氏は「ありがたい言葉」と表現しています。

さて、こうして東大に入ってはみた物の、当初から
いずれ戦争に行くことは当然の義務と心得ていたし、大学生活に魅力はなかったから、同年12月の最初の学徒出陣に、早生まれのために加われなかったのは残念であった。
p.3
と、全く勉強に身が入らなかった土田青年、徴兵は猶予されてはいましたが、残った学生にも勤労動員などがあてがわれ、勉強どころじゃない状況で、
所詮、勉強は本式に出来ないと思い、これを後回しにして、先に死ぬ方を片付けることにした。
p.3
(○。○)
たまたま「特別操縦見習士官」の応募があったのを受けてあっさり合格してしまいます。1944年(昭和19年)5月のことでした。「時期が来るまで(=1944年の10月に動員がくるまで)はきちんと勉強せよ」と言っていた父親にはこっぴどく怒られましたが、決まってしまった物はどうしようもなく、結局は
学問の大切なことをといただけで、後は文句は言わなかった
p.3
と渋々送り出されることになります。
入隊したのは熊谷陸軍飛行学校第二地上準備教育隊でした。土田青年は「特操三期」として入隊しましたが、先輩に当たる1期、2期のメンバーは特攻隊に動員されて戦死した人が多かったようです。土田青年も
「お前たちは消耗品である」という一言に始まる訓辞を皮切りに、死ぬことだけが生き甲斐という訓練がつづいた。
p.4
と言う厳しい状況に置かれ、
覚悟はしていた物の、死ぬのも並大抵のことではないなと思ったりしたものである。
p.4
と感想を書いています。ちなみに、同じ東大国史学科の同期だった村木勉という方が同じ熊谷陸軍飛行学校に所属していたのですが、その方の回想記(p.131~143)ではこの頃のことを余り詳しく書いていません。ページ数の都合もあったのでしょうが、前任の姫路西部50部隊でかなりひどい目に遭われたことの方が印象的だったようで。新人兵へのしごきよりはマシだったのか消耗品教育。

さて、その中でもとりわけ厳しかったのが館林教育隊での訓練で、土田青年が
ここは徹底して消耗品速成教育を施した隊
p.4
と書いたくらいの所で
・家族他との面会禁止
・外出も禁止
・酒保(※売店)も無し
・10日に1度”休日”はあるが、午前中は休日なのになぜか体育があり、午後からは自分の雑用(掃除洗濯など)に追われて、実際の所休日じゃない…
・家族の写真持ち込み禁止
・お守り持ち込み禁止(千人針含む)
・写真撮影厳禁
という、土田青年曰く「一切の娑婆っ気を禁止」私から見ると「全く息抜きすらできない」という強烈な所でした。なお、写真撮影厳禁だったため、土田青年には「世間にあるような飛行服姿の写真は一枚も残ってない」とのことです。写真を禁止していたのは
どうせ死ぬと決まっている者が、何で人に姿を見せる必要があるか、黙って死ね、と言うのが趣旨であった
p.4~5
だったとか。敗戦間近の日本軍でも、ここまで強烈な話しは始めて聞きました…。
こんな所で、朝5時に起床、仕度をして朝5時45分には訓練開始、遅くても訓練開始から2週間で単独飛行が出来る様になるという「促成栽培」をされます。
但し、こんなおおざっぱな訓練では当然落伍者が出るわけでして、3週間以内に単独飛行が出来なかった人や操縦技術が怪しい人は「失格」とされ、地上勤務に回されます。ただ、これは当時大変恥ずかしいとされたようです。土田青年は一度教官機をひっくり返すという大事故を起こしたにも拘わらず「失格」にはならなかったそうだ。合格判定基準が謎すぎる。
「失格」と似たような物に「操縦忌諱」というのがあり、これはわざと失格になることですが、こちらはもっと恥ずかしいことでした。土田青年が入隊する1期前に、母親が「お前が合格したら私は自殺する」と強要したため操縦忌諱をした人が一人いたようなのですが、今なら感涙多数なこのお話について、土田青年始め隊の全員が
我々は誰かは知らぬがその母親を憎い奴と思った
p.6
そうで、うーむ。メチャクチャだなヾ(^^;)。なお、土田青年の同期で、偶々耳の病気のために操縦を休んだ人が、再検査の結果異常なしと診断されて「操縦忌諱」の烙印を押されてしまう、と言う不幸な事件がありました。その人は割腹自殺しようとしたものの、死ぬ直前に見つかって助かったようです(p.6)。

そんな「今から思えば非情な世界」(p.7)の熊谷飛行学校でしたが、物資不足は隠しようもなく、遂に練習機に入れるガソリンにも事欠くようになり、当初はアルコールを混ぜてごまかしていた物の、そのアルコールも無くなり、飛行訓練が出来ない状態になります。することが無くなった土田青年他の飛行学校生徒は他の学校に派遣されるなどしていたのですが、同年11月下旬、にわかに南方派遣を命じられます。これは
南方のガソリンで我々を飛行機に乗せ、突入させるため
p.9
つまりは特攻させるためでした。
土田青年の宿命は如何?

…と思ったが、かなり長くなってきたのでここでつづく_(。_゜)/
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土田氏の父について
自己レスです。

土田直鎮氏が「厳格な国家主義者」と評していた父のことですが、実は結構な有名人だったことを後日知りました。東大の助教授から、後に成蹊高校(旧制)の校長を務めた土田誠一(1887-1945)です。ああ恥ずかしい。補足として書いておきます。
<参考>
ホットアイ秋田(343号(1991/1/1))http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/343/343_022.html
矢島観光サポーターブログ https://ameblo.jp/yashima-kanko/entry-10858335740.html
ばんない 2018/08/22(Wed)12:27:13 編集
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