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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず

※当記事を読む前に拙ブログのこの記事を読んで下さるとより話が分かりやすいかもです。


「島津家」という名前に引っかかって、 という本を読んでみた。
内容だが、 いわゆる「越前島津家」について書かれた本で、
前半が南北朝頃の当主・島津忠兼について
後半が戦国時代に戦死した「最後の」当主・島津忠長とその後の播磨の島津氏 について
書かれた物だった。
拙HP+拙ブログの守備範囲上、やはり気になるのは後半である。
以下、上掲の本の記述をたどりながら、越前島津家(播磨の島津氏)のその後を追いかけてみたい。


(1)忠長の遺児・忠之
天文~天正頃の人物。越前島津家の16代当主。存在を示す史料は系図以外では播磨の島津氏が所有している「赤松晴政所領返付充行状」(天文廿三年十二月廿九日)のみ。系図による来歴は以下の通り。
天文3年~天正3年9月9日。天正3年の青山の戦いで赤松氏の内紛に巻き込まれ戦死。忠之ばかりではなく育ての父であり叔父の島津重宗も同日戦死し、事実上越前島津家(播磨の島津氏)は絶家状態となった。

(2)忠之の遺児・義弘
天正~寛永頃の人物。越前島津家の17代当主。存在を示す史料は系図のみ。系図の説明による略歴は以下の通り。
天正2年~寛永11年4月16日 重行、又二郎、蔵人、彦兵衛尉。
父が戦死したときまだ2歳だったため、母親に連れられて逃亡する。成人後、赤松祐高に従って大坂の陣に豊臣側として参加するも、敗北。祐高と共に飾磨大覚寺に立てこもるが、池田利隆軍に攻められ、祐高は切腹。義弘は更に本拠地の播磨国下揖保庄上村に逃亡するが、そこも池田軍に攻められて義弘の長男(忠遠)、次男(忠頼)は切腹。義弘は出家し助かった。三男・政之が跡を嗣ぎ、孫(長男の子)・忠範は下揖保庄西野田村の郷長になった。

(3)義弘のひ孫・忠次(良久)と玄孫・権兵衛忠義
元文頃の人物。
この時、鹿児島藩は新城島津家が持っていた越前島津家の系図及び書簡などをもって、藩主吉貴の息子・忠紀に「越前島津家」を嗣がせよう(再興させよう)としていた。その事前調査のため、播磨の島津氏を調べさせた。この時調査隊は2ルートあったという(鹿児島藩大阪留守居役配下・竹村八郎右衛門と岡本金蔵、遍旬律師(薩摩国重富郷平松村円明院開基)の弟子・禅外)。竹村・岡本隊は満足な調査結果を得られなかったが、禅外は遍旬の人脈から兵庫能福寺の僧侶・松森院治源にたどり着く。この治源が権兵衛忠義の弟で、そのため禅外は忠長~権兵衛忠義に至るまでの詳しい情報を聞くことが出来た。
しかし、調査結果を報告した元文三年、すでに鹿児島では忠紀が元文二年に越前島津家を再興したところであった。そのため、その後播磨の島津氏から問い合わせがあったときも、播磨の島津氏が島津家末裔かどうかについてグレーゾーンの回答しか出来なかったのではないか?…と松久氏(この本の著者)は考えているようである。

(4)佐吾次義清
26代当主。文政~天保頃の人物。権兵衛忠義の5代孫。
醤油醸造で莫大な富を築き、龍野藩主・脇坂安董にたびたび献金したという。その褒賞として、帯刀を許される。いくつかの村の庄屋職となる。

(5)与三郎義重
27代当主。天保9年12月20日~明治30年5月19日。義清の長男。
父同様、醤油醸造で得た莫大な富を元に、藩への献金を都度都度行い、又いくつかの村の庄屋職を勤める。幕末は藩に徴兵されていた模様。明治維新後は本来の醤油醸造業に戻る。明治24年に初代に当たる島津忠久の墓参りを計画、島津本家に問い合わせたところ許可が下りたので、鹿児島を訪問。この時に本家側から大歓待を受け、その後、本家からパーティーに招待されるなどつきあいが増えるようになる。

(6)佐吾治忠正
28代当主。文久2年4月13日~明治34年12月1日。
義重の長男。揖保村で名誉助役を務める。本家島津家とは父の代と変わらず親密な交際が続いていた。明治34年に40歳の若さで死去。一介の田舎の名士(失礼ご容赦!)に本家島津家(島津忠重)からはもちろん、久邇宮邦彦王からも香典が届いたという。

(7)信夫
29代当主。明治26年1月8日~?
忠正の長男。家業は嗣がず、海軍に入る。この時、本家当主・島津忠重も海軍軍人となっており、度々手紙のやりとりをしていたという。最終的な階級は大佐。終戦後は故郷の龍野に帰った。その後の消息については諸資料には記録がない模様(或いは実は資料があるのかも知れないが、プライバシーの問題を考慮して松久氏が書かなかっただけかも)。


以下、この系譜の問題点などについて考えてみたいと思います。



1.播磨の島津氏17代当主・義弘
上記(2)で紹介し、拙ブログの過去記事でも紹介した人物です。
過去記事でも一度考察しましたが、やはり
・幼少期に母親に連れられて逃亡したという逸話
・「義弘」という名前(この以前には“義”や“弘”を入れた名前を名乗っていた人物が見あたらない)
に問題があるように考えます。特に今回この本を読んで知ったのですが、播磨の島津氏の「義弘」もみなさんご存じの方の「義弘」も同じ17代当主としてカウントされている点が偶然とは思えません。
また、播磨島津氏の系図では義弘の弟として「忠之」という人物が登場しますが、これは自分の父親の諱と同じになります。日本において親と同じ名前を名乗った例は非常に少ないと思います。

以上から、この人物は越前島津家直系孫と江戸時代以降の播磨の島津氏をつなぐために創作された人物なのではないでしょうか。
もし実在の人物だとしても、この義弘以降に「義」を通字として名乗る当主が大勢いることから見て、この義弘が江戸時代以降播磨島津氏の初代当主と見て間違いないと思います。
気になるのはこの義弘の初名「行」です。播磨島津氏の系図では忠長の弟(忠之の叔父)とされる人物が「宗」と名乗っています。義弘は忠之の実子ではなく、この叔父の系統に当たる人物ではないでしょうか。播磨島津氏の系図では義弘の子として長男・忠遠、次男・忠朝、三男・政之が登場しますが、三男だけ別系統の名前です。この辺にも作為を感じます。

2.越前島津家系図及び史料移動の謎
上記(3)でも書いたが、本来越前島津家(播磨の島津氏)が持っていたはずの系図+文書類は、元文頃には何故か薩摩の島津本宗家が所有していたという。
これに関係する話として、播磨の島津氏には奇妙な伝承が伝えられていた。
「島津忠之の未亡人は薩摩の島津氏を頼り、播磨の島津氏に伝えられた文書(=越前島津家文書)を持って旅立ったが、寛文六年(1666年)九月九日に大隅国鹿屋にて目的を果たせないまま没した。」
という話が、播磨の島津氏の系図に書かれているという。
また、先述の僧侶・禅外の調査日記に
「彼女(=忠之の未亡人、播磨島津氏の義弘母)常々一族ノ戦死ヲ殊ノ外歎キテ様ニ及滅亡ニ候事恨メシク候 後ニ子孫に伝候テ仕官ノ勤ハ無用ニ候 併家ノ文書等ハ大切成物ニ候得ハ此躰ニテ所持モ不入事ニ候得者 薩州様ニ差上度ト申居候由又ハ家ノ系図等弥差上申候トモ 古老申伝承居候得ハ 伝聞計ニテ不分明ニ候
其後宗賀(=播磨島津氏の義弘)母ハ如何成行申候哉 行末等不相知候故 若御国許江系図等持参仕 相果候人者宗賀母ニテモ可有之候哉ト存当候-」
とある。
以上から、播磨の島津氏では「忠之の未亡人が越前島津家の系図・文書を持って薩摩の島津氏に渡し、消息を絶った」という伝承を持っていたことは確実である。

しかし、松久氏も指摘しているように、
 島津忠之没年:天正3年(1575年)
 忠之の未亡人?没年:寛文6年(1666年)
と91年ものタイムラグがあり、無理がある。
松久氏は
・豊臣政権下で薩摩の島津氏が在京賄い料として、播磨の揖東郡、揖西郡に領地をもらっていたことがあり、その時に播磨の島津氏とつながりを得たのではないか
・「忠之の未亡人」という伝承が誤りで、実は「義弘の未亡人」ではないか
という仮説を唱えている。

これに関しては五味克夫氏も検討しているので、また項を変えて考えてみたい。

3.明治以降の薩摩の島津氏と播磨の島津氏
(4)以降で書いたように、江戸時代後期からは事業が成功して富豪となり、明治時代には遂に薩摩の島津本宗家とも親しくおつきあいをしていた播磨の島津氏。もちろん、幕藩体制が崩壊して広域の交流が可能になったからなのは当然なのだが…気になるのは播磨の島津氏の領主である脇坂氏。実は脇坂氏と薩摩の島津本宗家は親戚関係にあります。松久氏の本では播磨の島津氏が独力で薩摩へ連絡を取ったような書き方でしたが、領主・脇坂氏の仲介もあったのではないでしょうか。
ちなみに松久氏の本によると、播磨の島津氏は明治維新後も脇坂氏や藤堂氏(最後の藩主・脇坂安斐の実家)とも親しい交流があったようです。

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