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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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一時期、「近思録崩れ」に興味があり、関連の資料などを斜め読みしたこともあるのだが。
さすが島津重豪がこの辺りの書類を焼却処分させたとか言う経緯もあって、具体的な流れがわかりにくいわかりにくい_| ̄|○
例えば『鹿児島県史料』の最新刊は「薩摩藩法制史料」だが、この巻頭の解説でも島津義久と島津斉宣の関係史料が異様に少なく、おそらく
・義久は豊臣秀吉に降伏したという点が島津家の恥部とされ
・斉宣は近思録崩れの件が島津家の恥部とされ
関係史料が収録されなかったのでは、と推測されていた。

ただ、現在のところ『島津重豪』 / 芳 即正など数少ないこの時代の概説書では
近思録崩れとは
「節約に関心のない先代藩主・島津重豪vs節約政策を採る当代藩主・島津斉宣のお家騒動」
という捉え方をされている。…まあ事実そうだと思うのだがヾ(^^;)

ホントにそれだけだったのか?という疑問が消えないのである。

というのも
去年、高野山に島津家関連の墓の調査?にいったのだが島津義久以降島津斉興まで歴代の墓を確認したのだが、
島津斉宣、島津斉彬、島津忠義
は確認出来なかったのである。
このうち
斉彬は幕末の混乱期に亡くなり、後に神格化されたこと
忠義の時に島津氏は神道に改宗したことで高野山に墓所を作る必要が無くなった
と言うことで説明できる。
どう考えても説明できないのが斉宣。現在高野山の島津氏墓所を管理している正智院に正式に確認する必要があるが、3カ所ある島津氏墓地をさんざん探してないのだから、斉宣の墓が高野山にない可能性は非常に高いとにらんでいる。
つまり、歴代藩主として高野山で弔われなかった(ほぼ)唯一の人物、それが斉宣なのである。
更に疑問なのは、高野山に残る島津家の墓を最後に整備したのはどうも島津斉興のようなのだが、斉宣は斉興の実父なのである。どうして斉興は実父の墓を築かなかったのか?特に儒教観念の強い江戸時代の武家ともなれば疑問きわまりない。

もう一つの疑問は、斉宣の実母・堤代長女(お千万の方)に対する扱いである。本来なら公家出身で、お世継ぎも産んだ女性であれば正室相当(ちなみに重豪には2人正室がいたが早々と亡くなっている)の扱いをされて当然のはずなのだが、重豪の娘・茂姫が11代将軍・徳川家斉の御台所になるという珍事の為に茂姫の母・市田氏女(お登勢の方)によって鹿児島に追われたという悲運の女性でもある。その後も重豪の意向に翻弄された人生を送るのだが、それは拙ブログを参照されたい。

ところが彼女が文化4年(1806年)鹿児島から江戸に登る辺りから、まるで腫れ物にさわるような扱いなのである。
まず藩主の実母とはいえ一側室にしか過ぎない彼女の行列に対し「薩摩藩大奥」という看板を掲げることが許可されている(該当史料は先述の『鹿児島藩史料』の追録5あたりに掲載)のだが、「大奥」と言えば本来は江戸幕府の奥方にのみ使われる名称である。
彼女はそのわずか4年後に亡くなるのだが、この時にあの茂姫が「お気の毒」としてわざわざお悔やみ状を送っているのである。ちなみにお悔やみ状の宛先は父・重豪じゃなくて斉宣である。茂姫母・お登勢の方と斉宣母・お千万の方の確執、また異母兄弟とはいえ、実際の立場は将軍御台所と一介の藩主という差もあることを考えると、これもまた異例である。

ここで気になるのは近思録崩れの際に採られた政策である。
一般的には、特に蘭癖大名・重豪の開いた施設を次々と廃止した政策が重豪の疳に障って失敗したとされているが、政策の中には江戸幕府の裁量権を無視したとしか思えない貿易振興策などもあり、それも重豪を刺激したことが先述の『島津重豪』でも指摘されている。芳氏は近思録派の主導者である樺山主税、秩父季保が中央の情勢に無知だったためにこんな政策を入れたのでは、と片づけていたが…。下級藩士であった秩父はともかく、樺山家は代々一所地格の上級藩士で、先祖にも家老を勤めた者が多い。中央の情勢に全く無知とは思えない−江戸幕府の意向を汲んで政策を採らなければならない事は分かっていたと考えられるのである。

ここで注目すべきなのは、島津斉宣が国学者・高山彦九郎と親交を結んでいたと言うことだろう。興味深い内容なのでソースも引用しておく。

 寛政3年(1791)5月17日の「寛政京都日記」によれば、参勤交代で薩摩に戻る途中、伏見の薩摩藩邸に滞在している松平豊後守(島津斉宣)に従行していた赤崎貞幹(海門)と彦九郎が会い、赤崎が18日に彦九郎の紹介で伏原宣條卿・岩倉具選卿・芝山持豊卿に会い、和歌をいただいたことについて、19日に、斉宣が赤崎に、どうして公卿方と会えるのか、歌などをいただくのは難しいと聞いている。
寛政4年(1792)4月2日の「筑紫日記」によれば、彦九郎の薩摩入国を喜び、藩主斉宣が自ら狩得た鹿で酒宴がひらかれ国賓的待遇を受けている。
4月13日には、造士館で歓迎の宴があり、桜島をながめながら、船中で酒宴が催された同時刻に「薩太守(斉宣)」も船遊しているのが遠くに見えたとある。
http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/koyuroku.htm

彦九郎と知り合った藩主は数多いようだが、国賓とも言える対応をしたのは斉宣だけのようである。またこれに絡んでくるのが赤崎海門なる人物だが、ここの項目にまた興味深いことが書いてある。ソース引用。

(前文略)当時薩摩は京都公家派と幕府体制側に藩論が割れていたが、彦九郎は赤崎海門を軸に奔走した。(以下略)
http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/koyuroku.htm


斉宣の母・お千万の方は堤氏という中下級公家の出身なのだが、彼女の幼少時に「宝暦事件」という国学者+公家+天皇(当時の天皇は桃園天皇)が絡む一大事件が起きている。斉宣もこの母からこの宝暦事件の顛末などは聞かされていたことは容易に推測できる。また、その内容はお千万の方の出身を考えると処罰された側の国学者や公家に同情的な内容であったろうと考えられる。
ちなみにその後、この宝暦事件の首謀者ともされた国学者・竹内式部がらみで「明和事件」なる事件が起き、これに巻き込まれた小幡藩織田家が懲罰的転封、また織田家一門も連座を食らっている。

私が何となくこれらから考えているのは、

拍手[3回]


近思録崩れは
単なる薩摩藩財政を巡る親子対立というより
一種の尊皇的思想を帯びた江戸幕府に対する反乱
と見なされたのではないだろうか、ということである。
そう考えると、文化4年を境として御台所・茂姫をはじめとする人々が手をかえしてお千万の方に対しては気持ち悪いほどの丁重な扱いをし、その実子である斉宣に対しては高野山で唯一菩提を弔ってもらえなかったという非情な扱い、という矛盾する事実が納得いくのである。

宝暦事件など江戸中期以降、細々とはいえ盛り上がりつつあった国学と尊皇の流れ。それが将軍御台所実家でありかつ江戸から最も離れた場所にある外様大藩の島津家と結びつき、江戸幕府から自立しようと言う動きが起こることを恐れられたのではないか?
そして薩摩藩側では、近思録崩れによって小幡藩のように厳罰を受けることを恐れたのではないだろうか。

この推論が当たっているとすると、近思録崩れは明治維新より70年も早く起こった尊皇運動と言うことになる。まあ斉宣とか秩父季保とか当事者はそこまで明確に尊皇を認識してなかったと思いますが


…と、ここまでは強引にこぎ着けたのだがヾ(^^;)
実はこの時代は専門でもないし、十分に史料も読み込めないのでこれ以上話が先に進められないのよ。
で、誰か薩摩藩とか国学とか興味のある人、卒論のネタにいかが〜(をい)
まあ、史料は全部重豪が焼いてしまったそうなんで、どちらかというと史料絶対主義の近世史的な手法より残った史料から推論を重ねる古代史研究の手法が有効かも知れませんけどね。
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