拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回のお話はこちら
桐野作人氏説のように「島津義弘(当時忠平→義珍)が兄・義久から家督相続した」となると、いくつかの謎が出てくる。
(1)「修理大夫」のこと
このころの島津氏では当主の官名は「修理大夫」→「陸奥守」と変わっていた。
また、変わるきっかけは「次期当主が決まった頃」のように思われる。島津義久も永禄7年(1564年)に修理大夫に任じられるが、この時に父・貴久は修理大夫から陸奥守に遷任されている。
が、義弘が修理大夫になった形跡も、また義久が陸奥守になった形跡もない。
(2)出家のこと
この頃の島津氏では、家督を譲った前当主は出家する慣例があったように思われる。
義久の祖父・忠良も息子・貴久が本家当主になった時点で出家したし、その貴久も義久に家督を譲ると出家している。
が、義久が出家したのは天正15年(1587年)で、出家の理由は豊臣秀吉に降伏したことであった。
またいくつか謎が出てくるかも知れませんが、その時は追記します。
桐野作人氏説のように「島津義弘(当時忠平→義珍)が兄・義久から家督相続した」となると、いくつかの謎が出てくる。
(1)「修理大夫」のこと
このころの島津氏では当主の官名は「修理大夫」→「陸奥守」と変わっていた。
また、変わるきっかけは「次期当主が決まった頃」のように思われる。島津義久も永禄7年(1564年)に修理大夫に任じられるが、この時に父・貴久は修理大夫から陸奥守に遷任されている。
が、義弘が修理大夫になった形跡も、また義久が陸奥守になった形跡もない。
(2)出家のこと
この頃の島津氏では、家督を譲った前当主は出家する慣例があったように思われる。
義久の祖父・忠良も息子・貴久が本家当主になった時点で出家したし、その貴久も義久に家督を譲ると出家している。
が、義久が出家したのは天正15年(1587年)で、出家の理由は豊臣秀吉に降伏したことであった。
またいくつか謎が出てくるかも知れませんが、その時は追記します。
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