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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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タイトルの件はちょっとした謎の一つである、らしい。

南部信順は島津重豪の13男(10男とする史料もあり)、重豪69歳(○。○)のときの子供である。その後、男子を全員亡くし嗣子不在となっていた八戸南部藩の婿養子となる。
ところが、
南部家と島津家の間にはそれまで全く縁戚関係がなかった上
八戸南部藩は2万石程度、しかも盛岡藩の支藩的存在(※支藩ではない、佐土原藩と鹿児島藩の関係といっしょ。)であまりにも格がつりあわない。
しかも島津家側にも南部家側にもこの養子縁組に関する史料が残されてないため、この経緯は「謎」とされていたのである。
例えば
そんな中で、島津信順が、八戸藩八代藩主南部信真(のぶまさ)の娘、鶴姫の婿養子になったのは天保九年(1838)、二十五歳の時だった。四年後の天保 十三年、信真が隠居し、信順が八戸藩主となったのだが、島津重豪と南部信真の間にどんな交際があったのか、なぜ養子縁組をしたのか、全く記録がない。
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/06/bakumatu01.html

と書かれているとおりである。
『八戸市史』通史編では
(蘭癖大名の代表格である)重豪が、ロシアをにらむ八戸藩の地理に目を付けて養子を送り込んだのではないか
としている。

ところが、検索していて、偶然に興味深い話を見つけた。
  ■ 外様大名との縁組
(中略)
利雄の世子で廃嫡となった嵩信(利謹の初名)室麻姫は筑前福岡五十二万石・黒田継高の娘。利謹は三十八代利済の生父である。黒田家との通路は古く、行信の娘津屋姫が黒田宣政の室となり、麻姫は宣政の養嗣子(実は従弟)継高の娘。継高にも嗣子がなく、薩摩鹿児島藩主島津重豪の子長溥(のち治之)を養嗣子としたが、八戸藩九代を相続した信順は長溥の実弟である。
http://www.morioka-times.com/news/2006/0607/14/06071404.htm
※太字は当方補足強調 ちなみに黒田長溥黒田治之は年代も違う別人であり、この記事は事実誤認している。

島津家と南部家の間に直接縁はなかったのだが、福岡藩黒田家を通した縁で養子に送り込まれたとは考えられないだろうか。
当初南部家は縁戚の中から適当な男子を捜したが黒田家も自家の跡継ぎに恵まれない状態で、適当な人材がいなかった。そこでその黒田家の親戚である島津家から…と信順を奨められた可能性は考えられよう。

ちなみに島津家と黒田家の間は継高の嫡子・重政に島津継豊と後室・竹姫の間に生まれた菊姫が嫁いだことから初めて縁が出来、その縁が一つのきっかけとなって重豪の9男・長溥が福岡藩の養子となったのである。

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