拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介する本は、山本勝之助という人物が昭和24年に出した本。
実はこの山本、当初はアナーキストとして活動するも、戦時中に石原莞爾と知りあってその信奉者となったという人です。
内容は昭和初期の2大政党制の混乱から軍閥台頭、そして泥沼の戦争への突入を描き、日本を敗戦に追い込んだのは誰か?と言う謎解きをしていくというものです。
…まあ、莞爾の信奉者の書いた本なんで「東条の馬鹿野郎」という結論になったのは当たり前なんですがヾ(--;)
ただ、読んでいくと気になる点があります。無意識かどうか分からないのですが、莞爾を擁護しているように見えます。満州事変でも「石原はこの直接動因の中にいなかったことは確実のようである(中略)軍事的指導に於いては石原と板垣が関東軍を完全にリードしたことは間違いない。だが軍事的指導と政略的謀略を同一にしている岩淵辰雄氏らの記述は、明らかに歴史的事実を歪曲した物と言わねばならない。」(p.117~118)とか。
そうそ、実はこの本の序文を書いているのが石原莞爾だったりする。
ではまいる。
実はこの山本、当初はアナーキストとして活動するも、戦時中に石原莞爾と知りあってその信奉者となったという人です。
内容は昭和初期の2大政党制の混乱から軍閥台頭、そして泥沼の戦争への突入を描き、日本を敗戦に追い込んだのは誰か?と言う謎解きをしていくというものです。
…まあ、莞爾の信奉者の書いた本なんで「東条の馬鹿野郎」という結論になったのは当たり前なんですがヾ(--;)
ただ、読んでいくと気になる点があります。無意識かどうか分からないのですが、莞爾を擁護しているように見えます。満州事変でも「石原はこの直接動因の中にいなかったことは確実のようである(中略)軍事的指導に於いては石原と板垣が関東軍を完全にリードしたことは間違いない。だが軍事的指導と政略的謀略を同一にしている岩淵辰雄氏らの記述は、明らかに歴史的事実を歪曲した物と言わねばならない。」(p.117~118)とか。
そうそ、実はこの本の序文を書いているのが石原莞爾だったりする。
ではまいる。
だが、この事件を転機として、軍内部に前述した如き分派対立があらわれ、その各々の指導者達はその分派対立を利用し、軍独裁化なる共通目的を持ちながらも、同時に彼ら自身の権勢への野心のために、激しい分派活動と策動とに狂奔したため、軍内部の粉乱と派閥対立の激化はますます拍車づけられ、派閥の抗争をその極点にまで導く契機となったことは、特筆されねばならぬ。事件を契機として派生した分派の指導者と中心人物を記せば次のごとくである。こちらのエントリにあるリストと比較すると興味深い。
A 清軍派
(清軍派とは、十月事件後荒木が陸相に就任するや真崎と一体となり、三月事件十月事件の首謀者を中央よりしりぞけたが、この処置を恨み、荒木・真崎の行動を派閥的な行動と難じ、これを打倒して『皇軍』の本来の体制に引きもどさんとするものと自称する一派を指称する)
南次郎 松井岩根 小磯国昭 建川美次 橋本欣五郎 重藤千秋 根本博 影佐貞昭 田中隆吉 長勇 小原重厚 田中弥 天野勇
B 統制派
(この一派は清軍派と同一歩調を取り、荒木・真崎を中心として結集していた青年将校を下克上の運動と見なしこれを制圧し、軍中央部幕僚の統制下に軍政権を樹立せんとする派閥を指す)
永田鉄山 東条英機 武藤章 坂西一良 臼田寬三 田中新一 今田新太郎 池田純久 田中清 片倉衷 辻政信
C 皇道派
(清軍派や統制派を亜流ファッショと攻撃し、自らを『本来の皇軍』と自称する一派)
荒木貞夫 真崎甚三郎 柳川平助 小畑敏四郎 秦真次 山岡重厚 鈴木率道(のちには縁遠くなったが山下奉文もこの時分はこの派閥に入っていた)
D 国体原理派
(この名称は皇道派と一般的には同一の印象を余人に与えているが、しいて皇道派と区別するなら、客観的に見ると前述の皇道派のおえらがたに利用されて皇道派の将官連中を支持した、北一輝=西田税の思想的影響を多分に持つ青年将校の一派である)
相沢三郎 満井佐吉 菅波三郎 香田清貞 野中四郎 安藤輝三 栗原安秀 大蔵栄一 大岸頼孝 村中孝次 磯部浅一 末松太平 河野寿 山口太一郎 竹島継夫 対馬勝雄 中橋基明 丹生誠忠 坂井直 田中勝
p.121~122
人物の個別説明は省略。ただ、このかなり特殊と思われる山本の分類の仕方は
・清軍派:陸軍の大幹部
・統制派:陸軍で中堅 幹部候補
・皇道派:所謂典型的皇道派
・国体原理派:皇道派の中で2.26で死亡or失脚した人
と言う風にも見える。
この事件は彼らも呼称し、また一般大衆も民間側の自発的行動として印象された物であるが、事実は軍を背後に持っていた物である。特に満州並びに中央部の統制派将校に関連を持っていたといわれる。それを実証する具体的な物として、別働隊の元アナーキストであった吉川永三郎をして、皇道派の民間側指導者である西田税及びその線にいた永井了吉を暗殺せしめようとしたことがあるし、また当時皇道派の表面的頂点にいた荒木貞夫を事件成功後殺害することを、重大目的としていたことでも分かる。統制派の当時少佐の今田新太郎が恩賜の拳銃を神兵隊幹部に交付したと言う噂ももっぱらである。検挙後当時少佐池田純久・中佐武藤章・少佐綾部某らの統制派の幕僚将校が、警視庁の当時特高部長であった安部源基を訪問し「何故検挙したか」と詰問したことは、この事件と統制派の関係を如実に物語っている。この事件の検挙後今田新太郎は上司の命令の形で大尉辻政信と新疆方面に出張を命ぜられている。それは専ら当時事件の取り調べに参考人として引き出されることを避けさせるためだと伝えられている。<あてにならない補足>
p.161
・この事件:神兵隊事件
・綾部某:多分綾部橘樹
この文に出てくる今田と神兵隊事件の関係については、以前も何回か言及済み こちらとかこちらなど
この無能にして無思想の将軍の元に従来の首脳の影に隠されて動いていた佐官級が、2.26事件を契機とするこれらの首班者達の交代に伴い大きく動き出してきた。以前から、陸軍の国防が自然アジア大陸を大将とするところから、統制派・皇道派の二大対立の他に軍の実力区分として、『対華派』『対ソ派』『欧米派』の3つの縦の系統が存在していたのである。最も欧米派は当時の軍の当面の問題が中国とソ連であったので、その勢力は微々たる物に過ぎなかった。対ソ派の中にも二つの流れがあり、ソ連の実力を極めて高く評価する一派と、ソ連の実力を軽く評価しウラジオなどは「竹槍で一週間で取れる」と揚言して対ソ作戦と対ソ拡張に指向する一派とがあった。この三派の代表的な人物を上げると次の通りであった。<少し補足>
対ソ派 荒木貞夫 真崎甚三郎 小畑敏四郎 秦彦三郎 河辺虎四郎 土井明夫 辰巳栄一 天野勇 大越兼二 (荒木、真崎、小畑は2.26事件後予備役編入)
対華派 南次郎 東条英機 土肥原賢二 武藤章 田中隆吉 和知鷹二 影佐禎昭 桜井徳太郎 坂西一良 池田純久 長勇 臼田寛二 田中新一 橋本欣五郎 柴山兼四郎(南、橋本は2.26事件後予備役編入)
欧米派 山下奉文 高島辰彦 岩畔豪雄 有末精三 鎌田保(山下・高島はドイツ派、有末・鎌田・岩畔はアメリカ派)
p.251
・この無能にして無思想の将軍:寺内寿一(当時軍事参議官)、杉山元(当時参謀次長)、梅津美治郎(当時陸軍次官)を指す
これまた変わった区分である。少なくとも今まで私が見てきた概説書の類では一度も見たことない。
なお今田の名前が出て来てないのにこの一覧を出してきたのは、今田の同期の桜井徳太郎、高島(高嶋)辰彦、岩畔豪雄の名前が出てくるから。
さて、この一覧表の後には長文の続きがあり、そこで板垣征四郎、畑俊六、多田駿、石原莞爾の評価がされているのだが
・板垣:背後関係でどっちにも動く日和見傾向がある
・畑:自己に積極的な意見がない
・多田:知華派であったが強固な意思力に欠けている
そして石原莞爾については「彼は政治的に動くには余りにも、彼の持つ軍事学研究が比較にならぬほど優位を占めていて、当面事象に対する彼の判断はいつも軍事学見地よりなされていた」(p.252)と、まあ石原信奉者らしく、石原だけがまともな軍人という書き方になっております。
宇垣組閣流産の後大命は林銑十郎に降りた。林はその当時は予備であったがまだ馬脚が現われず、かつて皇道派の真崎達と渡り合った勇敢さが買われ、彼に対する要望はそれぞれ異なったものであったが、当時の軍は一致して彼を迎えたのである。彼を迎えることに専心したのは石原だという噂が今なお残っているが、その時分石原と林との交渉は絶無と言って良いほど無かった。それは当時の参謀本部に於ける石原の勢力を利用して林を担ぐ連中が石原の名を籍りたからだと思う。後も石原といろいろ関連を持ち世人に話題を提起した浅原健三が、十河信二と共に林の組閣本部に入ったことからしてそのような噂が益々裏付けられたようだが(以下略)この後、長文の「浅原の新聞記者インタビュー」を引用して、山本勝之助は「浅原と石原は無関係」と言うことを延々と語っているのだが…その当の浅原が晩年に書いた手記でこの当時石原といかに連携して動いていたかを語っているので(^^;)新聞記者インタビューで語った内容とやらは、石原に嫌疑がかかることを避けた浅原の心配りでしょうな。
p.271
私も溺れる者藁をもつかむ例に漏れず、近衛の近代的な感覚に若干の期待を持ち、太平洋戦争が始まり東条が覇権を握ってこの国を日増しに滅亡に追いやるのを見て、日本人としてとてもいても立ってもいられなく悶々としていたある時、当時近衛に最も接近していた後藤隆之助に、日本を滅亡から救うのは中国との全面的和平以外にないと語り、またかかる情勢を展開せしめるには近衛の働きにまつものが多いと言った。それから後19年1月27日、後藤が私の麹町にあった事務所に不意に訪れ、「明日近衛に会わないか」と言ってきた。それで私は翌日後藤と同伴で当時帝大病院に入院していた近衛を訪れた。しばらくいろいろな情勢についての雑談を交わしたが私は意を決して「近衛さん!あなたは位人臣を極めまた一般の人々と違い後顧の憂いもないと思う。この際一切の行きがかりを捨て捨身して国家の危機を打開して欲しい」といった。彼はベッドから半身を起こし澄んだ眼を私に向けて深くうなずいた。私はなお言葉を続け、石原莞爾の中国との全面和平の構想を語り、「あなたが石原さんの構想について賛同するなら謙虚な気持ちで会ってみませんか」といった。それに対するはっきりした近衛の返事については記憶を失ったが、私たちが帰るとき「石原さんに会ったらよろしく」と言う彼の言葉だけはなお今でも残っている。その時後藤や私たちと同伴した者に今社会党の参議院議員になっている羽生三七と大山岩雄がいた。彼らは以前後藤の主催していた昭和研究会のメンバーではあり、また昭和研究会は近衛政策の参謀本部であったのであるが、いまだかつて近衛とは個人的に面識する機会がなかったので、この時同伴したものと考える。<補足>
その後どのような経過をたどったのかはっきりしたことは忘れたが、とにかく後藤と近衛の相談の結果、石原・近衛会見の筋が出来た。後藤と私は会見の日取りを打ち合わせ2月23日湯河原で会わせることにした。私が石原に近衛会見を要求したところ、彼は前にも2,3度会ったことがあるが結局何ら現実的な効果がなかったので、また近衛の性格からしてその会見が時間の空費と考え、気が進まなかった。もっとも今までの会談はいつも無責任な第三者が介在して、近衛の所へ行っては石原が会見を要望しているようなことを言い、石原にはまた近衛が会見を欲しているようなことをいっては会わせていたので、会ったときはいつも何か双方に気持ちの上でズレがあって不愉快な後味を残していたのであった。私は石原に近衛と私の会見の経過を詳細に話したところ、石原は私の努力に報いる気持ちを多分に持って効果を度外視して会う決意をして呉れたようだ。23日その日石原は関西遊説の帰途で、車は東京の東亜連盟協会本部に向かっていた。私はその日の朝東京を発ち沼津駅に、東亜連盟の会員である淵上辰雄を同伴して東上してくる石原を迎えた。沼津から同車して石原と私は湯河原駅で降りた。そして近衛が病後の静養をしている湯河原温泉の中西旅館に訪れた。しかしこの会見も結局近衛の怯懦な性格が災いして、石原の予想したとおりなんら政治的成果を上げ得なかったのである。近衛の話題は宮中の内部関係や軍の動きを傍観者的立場から語り、意志的なことには遂に発展しなかった。その会見に連坐していた私も何ら得るところ無く、ただいまなお記憶に残っているのは、彼が手ずから私に菓子を取って呉れたことと、それに宮中の話特に東久邇の宮と朝香宮との関係や、天皇に杉山が無責任な報告をしてしかられたと言う事ぐらいのものである。彼の所を辞して石原と駅に向かう途中「近衛は駄目だよ」といった石原の言葉は、私に無限の哀しみを与え、近衛が重大な決意で断頭台を恐れず宮中勢力を結集して軍閥に当たったら、と言う甘い観念を根底から一掃してしまった。石原と湯河原駅のホームに立ったとき、夕闇が迫り落日が赤く西天を染めていた。
(中略)石原とのこの会見は近衛にとっても何らまとまらなかったことは、敗戦後彼が、自害してから後『近衛文麿公の手記』として朝日新聞社から刊行された『失われし政治』と言う本に書かれているが、それはただ「余は昨年石原君になぜ作戦部長たる君が不拡大方針を唱え、政府もこれに和し行動したるにも関わらず拡大したかと問うたところ、石原君は表面は賛成したが裏面において拡大を策した面従腹背の徒にしてやられたものであると言った」と簡単に片付けていることによっても推し量られるであろう。
p.283~285
・後藤隆之助:こういう人 戦後、歴史学者の研究会にて回想を語っている。
・羽生三七:こういう人
・大山岩雄:本文中にあるように、昭和研究会に参加していたと言うこと以外はよく分からない。情報求む。
・淵上辰雄:戦前は東亜連盟幹部だったが、戦後はヤクルトの重役。実はヤクルトの社長が今田と縁の深い南喜一という人物で…興味深い
・『失われし政治』:失はれし政治―近衞文麿公の手記 (1946年) …再刊されてないのね…
ちょいと長文引用になりましたが、ついでに今田全然関係ないのですが(ヲイ)、近衛文麿ネタだったので。
今田のこと調べてると、この大戦のそもそもの問題の一端が近衛にあるような気がしてならない。私の本来のネタである島津家と近衞家は関連が深いので余り悪口言いたくないんですけど、駄目な物は駄目なようで。
かくして東条は新しく軍内に大きな派閥的勢力を作るに至ったが、彼は彼自身の軍事上に於ける識見については満州派に遠く及ばざる事を知っていた。平時ではともあれ戦争の段階に於いては情実も強く動くであろうが結局戦術上の優越が軍の実権を握ることを知り、満州派の復帰による自己の没落を考え、焦燥ともだえの虜となり、ついに彼は関東軍憲兵司令官当時彼の部下であった当時大佐加藤泊次郎を東京憲兵隊長として迎え、その下にごく最近戦犯として収容されるのを厭い逃げ回ったあげく長崎で捕らわれ新聞紙上を賑わした当時少佐大谷敬二郎を特高課長にすえ、彼らを駆使して満州派弾圧の挙に出た。彼はその陋策の第一歩として、満州国協和会東京事務所嘱託として、石原・多田・板垣に接近していた浅原健三の内偵に重点を置いた。浅原は旧い社会主義者ではじめは大杉栄たちの影響を受けてアナルコ・サンジカリズム的傾向が強かったが例の八幡製鉄所の大争議を指導しそのために入獄し、出獄後大杉達の『労働運動社』系から去り、『九州民憲党』『日本大衆党』などの中で働き社会民主主義者になった。(中略)彼は麻生久氏達の投機的社会主義に漸次絶望を感じ、また彼をたたき落とすために八幡製鉄所によって対立候補として選ばれたことのある亀井貫一郎らが同一陣営内で暫時勢力を扶植している現状を見て感情的に面白くなく、それに他の諸事情も累なっていわゆる『無産階級陣営』から去り暫く姿をかくしていたが、のち社会的に印象されたときには石原莞爾の民間的側近者としてであった。筆者は彼を知るが故に、彼が無産陣営を去り軍の中に入ってきた心理過程が単なる事大主義でなく、彼の理念の現代的展開のために軍内に突入したものと理解する。後年軍の圧力に自己の良心を殺して肉体的苦痛を逃れるため転向したいわゆる『転向者』流と同一に見るならば、彼浅原の本質を知らざるをそしりを免れざるものである。これまた今田と関係ないが、今田が後に「親友」とまで称した浅原健三についての話なので引用してみた。同じ社会主義系活動家だった山本が、かつて仲間だった浅原をどう評価しているかというのは中々興味深いです。
p.303
それにしても大谷敬二郎…(苦笑)
また私と直接関係はなかったが、東亜聯盟系の柔道家の牛島辰熊が弾圧政策のやり玉に挙げられ憲兵隊に留置された。事件の内容は彼が参謀本部の少佐津野田知重と共謀して東条暗殺を企図した嫌疑による物である。そしてまた牛島に金を提供したという理由で当時上海にいた浅原健三が飛行機で東京憲兵隊に拘引された。しかしこの事件は背後に三笠宮が存在したという噂が高かったせいか、ついに問題にならず全部釈放されるにいたった。「わが東条英機暗殺計画」。昭和24年にはこの程度の伝えられ方でした。この事件に実は今田の存在が影を落としていたというのは昭和60年にこの本が出るまで全く不明だったという…。
p.327~328
全364ページ、2mm弱四方の活字がびっちり書き込まれたこの本、実はすべて口述筆記らしいです(○。○)…記憶力のすごさに舌を巻きます。
後、今田に関心のある私として気になること。
前半に統制派将校として批判的に名前が出てくる物の、後半は全く名前が出てこない。この本しか読んでない人は「今田が石原莞爾の"一の子分"と言われてた」と知ったらビックリするんじゃ無かろうか。
実は他の石原莞爾本を読んでいて気になっていたことですが、石原莞爾失脚(昭和13年に突然関東軍に辞表をたたきつけて内地に帰国し、その後辞職を許されず閑職に異動させられる)以後に莞爾の"信者"になった人は、どうも今田と莞爾のつながりを分かっていないのか、今田に関する扱いが冷たいように思うわけですよ。山本も莞爾の信者になったのは莞爾が第16師団師団長になってから(昭和14年)らしいので、むべなるかな…
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