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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
久しぶりの戦国ネタです!ただし島津氏に直接関係なし_(。_゜)/



図書館で偶然に見つけた本です。タイトルでピンときて中も確認せず借りました(^^;)
帰宅して読みましたが、読みは的中。
現在は余り学術的にはネタになることが少ない(と思われる)
「豊臣秀吉賎民階級出身説」
至極真面目に諸史料を駆使して検討した論文でした(→何しろ出版社が歴史教科書の大御所・山川出版社ですからな、変な内容ではないと思ってたヾ(--;))
※物事を肩書きだけで判断するのは辞めましょうヾ(^^;) 現に今こういう例がヾ(--;)

更に驚いたのが、これまた更に学術的にネタにする人は最近ほぼ皆無の
「豊臣秀頼秀吉非実子説」
を真面目に検討しているみたい(○。○)
現在の秀吉研究と言えば政治体制とか家臣団の権力闘争とかが中心だと思うので、なかなか面白いテーマに目を付けたと思います。

以下詳しいことは「つづきはこちら」をクリック
※論旨の都合上、現在はマスコミないし一般的には使わない単語が続出します ご了承くださいますようお願いします。




実はこの本、タイトルから分かるように本当の主旨は豊臣秀吉を論じることではなくて、歴史学者にとってはおいしい(何しろあの網野善彦の出世ネタですからな)、しかし一歩取り扱いを間違えば、学者としては勿論、リアルに人生も終わってしまうかも知れないという地雷ネタ「被差別民問題」が主テーマ。

第一部が、タイトルにある「河原ノ者」(昔は「えた」という単語でひとくくりにされておりました、こっちの単語を使ったのは著者の服部先生の配慮でしょう、多分)、「非人」という典型的被差別階級を主に中世に重きを置いて論考した物で、既に他の学術雑誌などに掲載された物の再掲です。
島津氏が気になる私にとっては、犬追物には「河原ノ者」の助力が必要だったが、近世には欠落してしまったと言うお話(第一部第1章「犬追物を演出した河原ノ者たち」)は興味深かったです。ただ、あくまで「河原ノ者」の話が主体なので、島津氏において彼らの扱いがどうだったかという話が出て来てなかったのが残念。
他の話も興味深い物が多く、
・最終兵器?「亀の甲」:牛の皮を肉を付けたままはいで裏返しにし、大八車?に装着した物。肉が銃弾をよけるのに適度な弾力+吸収性を持ち、戦国時代後期には多用されたらしいです。(第一部何章に書かれたか失念) こんなの使っていた戦国時代末期の戦闘ってえらい状況になってた予感(特に臭いが…)。もちろんこんな物を武士が作れるわけが無く、「河原ノ者」の人のお仕事で、朝鮮出兵にも参加していたみたいです。時代劇とかで見たこと無いですよね まあ出そうとしても放送コードに引っかかりそうですが…
・奈良の京街道沿いにあったライ病患者(※ハンセン氏病患者はつい最近までかなり差別されていたのはご存じの方も多いかと)集団の役割と東大寺、興福寺との関係(第一部第二章)
・三角寛によって有名になった「サンカ」だが、博士号まで貰った三角の研究は実はヤラセ(第一部第六章)
・遊女は被差別階級ではなかったが、実際の扱いは「非人」そのものだった(第一部第八章)
などは印象に残りました。
あえてこのエントリでは書きませんが(差別助長されても困るし…)意外な職業が差別対象になってたことを知ってショック。今では何でそれが賎視されたのか考えもつかん。                      

第二部が最初に紹介した豊臣秀吉のこと。こちらは全編書き下ろしです。
以下のような考証から豊臣秀吉はいわゆる「非人」階級の出身ではないかとされています。
・秀吉は一般的に「中村」出身とされているが、同時代史料『祖父物語』(『清洲翁物語』と言うのもあるが異題の同本ではないかとされている)、『太閤素性記』から見ると、実は清洲の市場の生まれ。(第二部第九章)
・更に伝えられる幼少期のエピソードや親族関係から考察するに、親元を飛び出した秀吉は被差別部落に逃げ込むしか無く、いわゆる「非人」階級に転落した状況で育った。(第二部第九章、第十章)
・秀吉は親族を引き立てたがすべて母方ばかりで、父方の親戚というのは見あたらない、また諸史料や伝承を検討するに、秀吉は正当な結婚を経ずに生まれたいわゆる「非嫡出子」だった。(第二部第十章)

…そしてここからがミーハーな歴史ヲタには興味深いヾ(--;)「豊臣秀頼秀吉非実子説」の検討(第二部第十一章)。
・現代の産婦人科の常識で考えると大勢の女性を抱えていた秀吉が淀殿一人だけに子供を儲けたというのは考えられない。秀吉はいわゆる「無精子症」、淀殿の産んだ子供の実際の父親は秀吉以外の人物と考えるのが正しい(p.600~605)。
・秀吉生存時から鶴松、お拾(秀頼)が秀吉の実子ではないという風聞があったことは同時代資料でも確認できる(p.606~612)が、鶴松誕生前後、お拾誕生前後には異様に無用の刑罰が多いのは、「秀吉非実子説」の噂を流した人々に対する処刑ではないだろうか(p.621~624)
・また、鶴松が生まれる前には秀吉は公家や皇族、寺社仏閣に金をばらまき「口封じ」をした。以上から鶴松が秀吉の実子でないという認識は同時代人にも強かったが、それを広言することは宣教師が外国に出す手紙以外では出来なかった(p.624~628)
・秀吉は織田信長の子供を養子に迎えたり、織田家の息女を側室に迎えたりと主家に対する執着が強い人物だった。そのため、織田家の縁者である茶々(淀殿、伯父が織田信長)に民間でもよく行われている「子授けのお籠もり」と似たようなことをさせて鶴松を産ませたのではなかろうか。(p.614~621)
・こうして豊臣家後継者の母となった淀殿だが、鶴松誕生1年後に小田原への参陣を命じられ、また数々の書状でも北政所の方が鶴松の母として扱われ、鶴松の養育には浅野長政(北政所の義理の弟)があたるなど、立場は北政所より弱かった。福田千鶴著『淀殿』で書かれた「淀殿秀吉正室説」はその点から見ても首肯できない。(p.628~630)
・お拾(秀頼)の場合は誕生日からの逆算、同時代資料の検討により秀吉と淀殿がその頃同居していなかったことが証明できることから見て、はっきり秀吉非実子と断言できる。秀吉と共に肥前名古屋城に同行したのは別の側室である京極龍子(松の丸殿)(p.632~636)
・佐賀県立博物館に所蔵されている北政所宛豊臣秀吉の手紙は「二の丸殿(=淀殿)が懐妊したそうでめでたい。我々は子供は欲しくないと思っていた。太閤の子は鶴松であるが、よそに行ったまま。二の丸殿ばかりの子にて良いではないか」と言った謎めいた内容である。恐らくこの時の淀殿の妊娠は全く秀吉が関知しなかったことで、そのため秀吉・北政所夫妻の子とはせず、淀殿の子としておこう、と言う事だったのではないか。また、淀殿も自分の産む子は父親が誰であろうが秀吉は認知せざるを得ないと読み切っていた(そうでないと鶴松の父も秀吉でないことが公然にばれるから)。なので、お拾誕生の時には鶴松と違って公家などに金品をばらまくなどの盛大なパフォーマンスがなかった(出来なかった)。秀吉自身も、母・大政所が死んだときには特急で名護屋城から大坂に戻ったが、お拾誕生の時には先述の京極龍子よりも遅れて名護屋を発つ状況だった(p.636~644)
・秀吉が淀殿・お拾と対面した1ヶ月半後からは淀殿付きの奥女中などが成敗・処刑される事件が増加するが、とりわけ際立っているのが唱門師(いわゆる陰陽師のこと)が淀殿付き女中から金品を貰った罪で処刑され、また無関係だった唱門師も所払いとなって京から追放されて豊後の開墾団に放り込まれたりしている。更にこの時期、唱門師のボスである公家の土御門久脩が出奔した。これら唱門師「弾圧」は一見浮遊層の唱門師を定住させる政策に見えたが、実は淀殿周辺の女中(或いは淀殿本人)ととんでもない事を共謀した唱門師に対する見せしめであった。しかし、唱門師の加持祈祷はこの当時の社会には不可欠な物で、秀吉死後には多くの唱門師達が京に帰ってきて政策は瓦解した。(p.644~655、p.695~708)
・秀吉が最初に領主となった長浜の妙法寺には「伝豊臣秀吉子」とされる”本光院朝覚居士”なる人物の肖像画(実物は火災で焼失)と墓が残っているが、実は秀吉の子とする直接的な史料はなく疑問(p.659~663)
・現在、「秀吉の最初の子」という説が定着している石松丸だが、彼は小早川秀秋か(p.663~672)
・秀吉が朝鮮出兵したとき、大名の正室にちょっかいを出したという伝承は沢山伝わっているが、槌市(後藤貴明の娘で、龍造寺隆信三男・家信の夫人)の場合は実際の呼び出し文書が伝わっていてかなりぁゃιぃ(p.676~678)

…ざっと箇条書きにするとこんな所でしょうか。


個人的に豊臣秀吉という人物がどーしても好きになれない私ですが(島津ヲタで秀吉が好きという酔狂な人はいないと思う、多分)、この本を読んでそのもやもやした部分がはっきりしたように思います。

どうも「太閤さん」とか言われて明るいイメージを持たれがちな秀吉ですが、実際のその背景にはかなりダークな世界を抱えていた人物ではないかと考えられます。社会の底辺からその時代の頂点まで上り詰めたことはもちろん評価できます。しかしこの手の人物にありがちな「成り上がりの暗さ」まで秀吉は克服することが出来なかったのではないでしょうか。とどめに、折角勝ち得た権力を継承する実子という物が秀吉にはいませんでした。これは血統を重視するこの時代においては致命的なダメージだったと思います。豊臣権力を残すため、秀吉は淀殿という「道具」まで使って、絶対不可能なはずの自分の子まで作り上げますが…最後は道具達に翻弄されたのでした…

ところで、服部氏もこの本で指摘していますが(p.565)、秀吉の出自の悪さを公然と指摘したコワイ物知らずの大名がいました。それが島津氏です。秀吉が大友宗麟の救援を口実に島津氏に大友氏との戦いを辞めるよう命令しますが、その時に秀吉に対して「ゆえ無き御仁」の言うことは聞けないと返答したらしいのは有名です。この文書は『旧記雑録後編』に所収されていますが案文(つまり下書き)なので実際には出されなかったのではないかという説もあるみたいです。が、同じような話が『上井覚兼日記』にも出ているので、文章自体がマイルドになっても似た内容の物が秀吉に出された可能性は大いにあると考えます。
この内容が秀吉を激怒させたことは容易に推測できます。だって秀吉のウィークポイントをズバリつくものですからね。
その後、島津氏は秀吉の前に完膚無きまでに敗れ、その後、朝鮮出兵に代表される秀吉政権への奉公に疲弊していくことになるのはこのブログを見ている人には既知の話でしょう。現在の学界ではこれを「中世的な政権から脱却できない遅れた島津氏故に豊臣政権の要求がこなせなかった」と見るのが通説のように思われます。山本博文著『島津義弘の賭け』は代表的な物かと。
しかし、私はどうも他大名に対するそれと比較して、島津氏に対する秀吉の要求はかなりきつかったように感じていました。現に当事者の島津義弘が、妻への愚痴で「よその大名はそうじゃないのにうちの所は自分ばかりか跡取り息子まで朝鮮に出されて」と泣いています。やはり、自分のウィークポイントを公文書で曝した島津氏に対する秀吉の怒りというのは、「鎌倉以来の家」という名門・島津氏に対するやっかみも加わって厳しい物があったように私は考えております。
唱門師達はなぶり殺しに処刑し、無関係な者まで流刑同然に移住させた秀吉ですが、流石に大名の島津氏に対してはそういうことは出来ません。でも「朝鮮で跡継ぎまで死んでくれないかな~そうしたら嬉しいのにな~」ぐらいは思ってたかも知れませんな、秀吉なら。

 ご興味のあるかたは是非実物を読まれることをお奨めします。713ページの大著ですが、読みやすいです。さすが教科書の山川出版社ヾ(^^;)

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秀吉なら
そうそう!
実は根に持つタイプで腹黒ですから!
大気者は信長へのポーズだし!

>槌市

え!(@@)
後藤家文書(佐賀県史料集成6巻)には件の書簡はないけど、他に収蔵されてるかな?

いずれにせよ出自コンプレックスの強さから見て、そうとう低い階層だったんだろうな~って思いますね



時乃栞 URL 2014/05/18(Sun)16:51:59 編集
コメント遅くてごめんなさい
時乃栞様コメントありがとうございます。
本当に回答が遅くなりがちで申し訳ない…

「秀吉は実は陰湿」説は近著では渡辺大門氏による『秀吉の出自と出世伝説』もあります。でもまだ未読(汗)
あと昔のマンガになりますが『信長』(池上遼一が絵を描いた方)に出てくる秀吉も陰険さ丸出しで、あの漫画が出た当時は斬新だったんじゃないかと思いました。

槌市については、実際にこの本読んで貰った方が早いかと。
ばんない 2014/05/28(Wed)18:05:37 編集
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