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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら


桐野作人氏の連載+ブログで上記文書の大本になった書状が判明しました。
長文なので、関係分だけ抜粋します。
(前半略)
一、右わつかの人衆にて、与風下向申候儀ハ、内輪ニ野心在之儀を頼候て、被指下候由尤存候、敵説にも此地へ其聞候之間、爰元の用心油断不申候事、
一、此中宇土ニ堪忍候又介殿、薩摩へ被相越之由被聞食付候由、尤ニ存候、乍去さつま迄ハとても可被通事ハ罷成間敷候<与欠>、定而此地三ケ村へ徘徊たるへく候、涯分密々ニ念を入たつねさせ可申候、万一又介殿尋出申候ハヽ、打果可申候、大方ニ尋候てハしれ申ましく候よし、 上意尤存事候、及心念入可申候事、
(1節略)
一、又介殿舎弟、今程水俣へ在陳之由申候、万事からくり可有と聞え申候、かミかたの衆不相下候之処、不図加主計(※注1)、如水(※注2)罷出候事ハ、内輪ニくり付候衆依有之参られ候由、彼鹿屋三右衛門尉(※注3)申事候、くわしく直ニ可被聞食候間、一二ニ不及申候事、
(以降の節略)
「朱書き」
「慶長五年」                      図書頭
十一月十三日                      忠長(花押)
伊勢平左衛門尉(※注4)殿

(「薩藩旧記雑録」後編3-1285)

※注1:加主計→加藤主計頭、加藤清正のことである
※注2:如水→ご存じ黒田官兵衛孝高のことである
※注3:鹿屋三右衛門尉→鹿屋壱岐守兼長(生没年未詳)、天正14年7月の筑紫城攻めで筑紫春門を討ち取ったこと、その後朝鮮出兵にも同行したことが『本藩人物誌』に記されている。
※注4:伊勢平左衛門尉→伊勢貞成(島津忠恒(家久)筆頭家老・伊勢貞昌の兄)のこと
実は前半に謎を解く文章があるように思うのですが、不覚にしてcopy取ってませんでしたヾ(--;) 体調回復できたらcopy何とかしたいのですが…図書館に行く余裕が…ああ、薩藩旧記雑録をどこか全文データベース化してくれないかな(←無茶である)

気になるのは後の節「又介殿舎弟」で始まる文章で、ちょっと文意が正確に解釈できないのですが、
「又介殿舎弟」は慶長5年11月時点では何かの陰謀(「万事からくり」)に荷担して水俣に在陣している模様で、それは上方(徳川家康サイドのことか?)の指図ではなく、加藤清正や黒田如水が出ていることから見て(彼らの)内輪の指図じゃないか?…と鹿屋三右衛門の情報から島津忠長はそう考えている
…というのがこの文の大意ではないかと考えています。

「又介殿舎弟」が誰か?ということですが、これは桐野氏の推定通り末弟・島津小七郎忠豊(天正9~慶長10/11/21、25歳没)で正解かと。忠清には3人弟がいますが、慶長5年11月時点で、すぐ下の弟・忠栄は島津豊久を頼って佐土原におり、その下の弟・忠富は早くに島津家への脱走に成功し、関ヶ原の合戦にも大叔父にあたる島津義弘と共に参戦していました。なので消去法でこの「又介殿舎弟」に該当する人物は末弟・忠豊しか考えられません。

ちなみに同年(慶長五年)9月15日以前は、島津忠清は小西行長軍の旗下にあった可能性が高いです(こちらのサイト参照)。ので、桐野氏説のように島津忠清が加藤清正軍旗下に入ったとしたら、確実に関ヶ原の合戦後です。…ただし、小西行長側に立って戦っていた人物を関ヶ原の合戦後わずか2ヶ月の間にこういう重要な仕事に抜擢したというのが…むー、後考を期す。

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