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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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「薩藩旧記雑録」後編3-1334(『鹿児島県史料』所収)より
(前半略)
一.慶長五年、図書頭(注1)より伊勢平左衛門(注2)江之状ニ、此中宇右ニ堪忍候、又介殿備前忠清也、薩州家也薩摩へ被相越候由被聞食付之由、尤ニ存候、乍去さつま迄ハとても可被通事ハ罷成間敷候歟、定而此地三か村江徘徊たるへく候、涯分密〃ニ念を入たつねさせ可申候、万一又介殿尋出申候ハヽ、打果可申候、大方ニ尋候てハしれ申ましく候よし、上意尤存事候、及心念を入可申候事ニ相見得候、

(注1)図書頭→島津忠長
(注2)伊勢平左衛門→伊勢貞成。島津家久(忠恒)の筆頭家老となった伊勢貞昌の兄。
島津義弘の元で活躍するが、島津氏と寺沢広高とのトラブルの責任をかぶり自害したとされる(参考「本藩人物誌」)
上の文中に出てくる「又介」が傍注に寄れば島津忠清とされます。
しかし、上記の文書を読んでみると、慶長5年頃の島津家の島津忠清に対する態度は非常に厳しい物であったことが分かります。薩摩国に入国したらしいが、念入りに探し出し、見つけだしたときには打ち果たしても良いとあるのです。しかもそれが「上意」(但し、島津義久、義弘、忠恒のうち誰の上意かは不明。)であったというのです。

とっても厄介者、来るな!寄るんじゃねぇ!…という態度ですな。
「本藩人物誌」島津忠清の項によると、関ヶ原の合戦で寄食していた小西行長が処刑された後、忠清はその後の領主となった加藤清正のもとに捕らわれていたとありますが、実際は「捕らわれていた」と言うよりは、上記の状況から薩摩に帰ることが出来ず、そのまま加藤清正の元に厄介になるしかなかったのでしょう。

しかし、忠清はどうしてかくも島津家から「厄介者」扱いされる人物になってしまったのでしょうか?
そして、この9年後の慶長14年(1609年)に突然この状況が一変、島津家から迎えが来て家族毎連れ戻されたのですが、その背景は?

…ただ一つ問題があって、上記の史料、実はかなり後世の物なのです。「旧傳集」(たぶん『薩藩旧伝集』と同じ物)からの引用と明記されてます。最も、「旧傳集」は「この話は島津忠長から伊勢貞成への手紙を見て書いた!」と冒頭で主張してますけど…。



…島津忠清って単なる薩州家の生き残りで、しかも慶長14年になっても他の兄弟達のように島津家に脱出しようとした動きもなく、晩年はを島津家久(忠恒)側室に献上したことのおこぼれで生き延びていたような所があって、ヘタレイメージで見ていたのですが、実はすごいキーマンなのかも知れない。何のキーマンかも今はまだぼんやりとしか見えてこないけど。

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