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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
以前から、いろんな本に
「豊臣秀吉は、九州御動座後、島津氏からぶんどった大隅を長男・信親を亡くした長宗我部元親に褒美として、日向を大友宗麟に与えるつもりだったが、両人とも辞退したため、大隅は島津氏に戻り、日向は幾人かの大名で分割することになった」
と書かれていたが、どの史料を根拠としているか分からなかった。

しかし、武功夜話検証 九州編―秀吉の島津征討とその史料集。という本を見た時に、偶然発見した。その話は、
『武家事紀』
という本に出てくるらしい。


 覚
                                                                    
一大隅・日向両国之儀者、人質不残請取可申候、自然不渡城於有之者、義久・島津兵庫頭(注1)、島
津中務(注2)両三人○(ニ・津)相届、
 右之不渡城、可取巻候、渡城ヲバ城主ヲ懇ニイタシ、其在所ニ足弱等カタツケ候時、百姓以下迄之政道堅申付、猥之儀有之者、可為一銭切事、
一日向国之儀、大友休庵(注3)へ出候間、休庵○(被・津)居候て、能候ハン城ヲ相拵、有付候様可申付候、立候ハデ不叶城ヲ、日向之内二、三モ四モ可然哉、其内之城ヲ一ツ、大隅之方ヘ付ケ(テ・津)、城ニ一郡相添、伊藤民部大輔(注4)ニコレヲ取セ、休庵為与力、合宿サセ可申事、
一去年、仙石権兵衛(注5)、置目ヲ破、不届働ヲイタシ、越度ヲ執候刻、長宗我部息弥三郎(注6)ヲ討死サセ、忠節者之事候、
 為、褒美大隅国ヲバ、長宗我部宮内少輔(注7)、為加増被下候条、長宗我部居候(テ・津)上能城ヲ普請申付、国之内ニ置候ハデ不叶城、三モ四モ普請、何モ申付、長宗我部ニ可相渡事、
一伊集院右衛門大夫(注8)、シウ之義久義(儀)ヲ大切ニ心得、其身ヲオシマズ、其方陣所へ走入、御詫言申上候、敵ニオイテハ、義理頼母敷者ハ、可被取立間、大隅之内一郡、薩摩ノ方へ相付トラスベク候、其外之郡国之儀者、有次第長宗我部ニ、一職可申付事、
一其方儀、此方へ越候ヘト申者、右一書懇ニ可申付ト思召被召寄候得ドモ、道々用心、以下無心許被思召、又此方へ越候ハ、○(ハ・津)日数可行候、下々之者モ、草臥候ヘバ、如何候間、無用之事、
一毛利右馬頭(注9)・小早川左衛門佐(注10)・吉川治部大(少・津)(注11)両三人ハ、人数二三千ニテ、此方へ可被越候、惣人数造作ニ候間、無用之事、并黒田勘解由(注12)ハ、馬乗四五騎ニテ、右馬頭可為同道事、
一大友休庵召寄、右之国之儀可申渡候、休庵被居候城ハ、休庵次第可然候事、
一於豊後国、大友左兵衛督(注13)去年越度トラレ候刻、○(悉・津)(々・津)之者覚悟ヲ替候処、志賀右衛門(注14)・佐伯(太郎・津)(注15)両人、無比類致働、大友家へ非義(儀・宇津)不動者ニテ候間、於大友家者、忠節者之儀ニ候条、両人日向国ニテ、為褒美、城一宛トラセ、其際ニテ知行を出候義(儀・津)、休庵ト可致談合候、知行大小モ可有之歟、ソレハ休庵次第(候・津)能之様、可然候事、
一豊後国ニテ、去年以来、表裏ヲ仕候者之儀者、城ヲ請取可致破却候、其中ニモ城置候ハデ不叶所者、大友左兵衛身に成候者ニ、相持セ可然候哉、ソレハ左兵衛督ト致談合、可為分別次第事、
一日向国者、大友休庵為隠居出候間、日州ニテ取候知行諸役者、休庵覚悟次第タルベキ事、
一豊後国者、大友左兵衛ニ、一職ニ出候間、置目等、左兵衛為ニ可然様ニイタシ候テ、可出事
一肥後・筑後・筑前三箇国者、城ヲ拵、物主ソレ〃〃被仰付被入置、博多之近所ニ、御座所可被仰付候条、其方者、
 備前少将(注16)・宮部中務法印(注17)・蜂須賀阿波守(注18)・尾藤甚右衛門(注19)・黒田勘解由、右之者ドモトシテ、日向・大隅・豊後城普請可申付候、并不入城者、ワラセ可然事、                
一豊前国ノ儀、是モ不入城ワリ、豊前ト豊後之間城一ツ、馬ガタケト右境目、城ト遠候ハゞ、其間ニ城
一ツ、豊後(前・津)之内ニ可置城、馬カ嶽・小倉四モ五モ可置候間、引足ニ右ノ普請アルベク候、国之者ニモ、忠不忠ヲ相糺、知行可遣候間、其分心得、諸事無由断申付、細々少之儀モ、以一書御本陣へ、毎日成トモ思案不及事於有之者、可申上候、依其御返事覚悟可然事、
一今度高城之儀者、御意ヲ不請儀、分別違ニ候得ドモ免候儀、其方タメニハ外聞可為迷惑候間、其方諸事ニ存出シ可然候、高城之様成義(儀・津)ニ、御意ヲ不請候ハゞ、重而者、成敗可申付候、得其意尤候事、
一右之条々、猶両人可申也、
      
 天正十五作六也(津)
      五月三日      朱印
 羽柴中納言殿

「武家事紀」巻三十 続集
 

(注)
1:ご存じ島津義弘
2:ご存じ島津家久 もちろんDQNとか言われているあっちの方じゃないぞヾ(^^;)
3:大友宗麟
4:伊東祐兵
5:あの仙石秀久
6:長宗我部信親 この前年の戸次川の戦いにて戦死
7:長宗我部元親 信親の父
8:伊集院忠棟
9:毛利輝元
10:小早川隆景
11:吉川元長 元春の長男で広家の兄
12:黒田孝高
13:大友吉統 大友宗麟の長男
14:志賀親次
15:佐伯惟定
16:宇喜多秀家
17:宮部継潤 根白坂の戦いでおなじみの人が多いかも
18:蜂須賀家政
19:尾藤知宣
※文字注記で「津」と付いているのは旧津軽家所蔵同一文書、「宇」は旧宇和島藩所蔵同一文書による補整

…ふー、長くて入力するの何度かやめようかと思ったヾ(--;)

ポイントはここかな
正確さに欠ける(ヲイ)拙訳が後ろに付いてます。

                          
一日向国之儀、大友休庵へ出候間、休庵○(被・津)居候て、能候ハン城ヲ相拵、有付候様可申付候、立候ハデ不叶城ヲ、日向之内二、三モ四モ可然哉、其内之城ヲ一ツ、大隅之方ヘ付ケ(テ・津)、城ニ一郡相添、伊藤民部大輔ニコレヲ取セ、休庵為与力、合宿サセ可申事、

(日向国のことは、大友宗麟に与えるので、宗麟が居られるような城を拵えて与えるよう申し付けるように。建てられないような城が日向国中に3つ4つあるだろうから、そのうちの城を一つは大隅国に所属させ、城に1郡を付けて伊東祐兵に与え、宗麟の与力にするように。)

ここで大友宗麟に日向国を与える話が登場
しかし、当初宗麟の与力になる予定だったのね>伊東祐兵 耳川の戦いの因縁もあるので、これは嫌だったかも知れないなあ…。

一去年、仙石権兵衛(注5)、置目ヲ破、不届働ヲイタシ、越度ヲ執候刻、長宗我部息弥三郎(注6)ヲ討死サセ、忠節者之事候、為、褒美大隅国ヲバ、長宗我部宮内少輔(注7)、為加増被下候条、長宗我部居候(テ・津)上能城ヲ普請申付、国之内ニ置候ハデ不叶城、三モ四モ普請、何モ申付、長宗我部ニ可相渡事、

(去年、仙石秀久が申しつけを破り不届きなことをし、度を超えた指揮をしたため長宗我部元親の息子・信親が討ち死にさせられた。これは(秀吉に対し)忠節を尽くしたことなので、褒美として大隅国を元親に加増させるように命令した件だが、長宗我部がいられるような城の工事を申し付け、大隅国に建てられなかった城を3つか4つ程工事させ、元親に渡すこと)

これが長宗我部元親に大隅国を与えるという話かな。しかし隣とは言っても日向灘はさんでる土地もらっても余りおいしくないような。


おまけ
『武家事紀』で謎の「島津義家」という人物が出てくる件(^^;)

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与力
伊東祐兵ファンなので、大友与力コースを回避出来て良かったヾ(@⌒ー⌒@)ノ

この与力話、伊東の耳に入ってたかが気になります。

某携帯国トリゲームで、祐兵の画像が目の下にクマあり、いかにも病っぽく描かれて、晩年設定かと受けました。
鍋島は月をバックの超絶イケメン
マニアックなゲームで、貴久公もいたけど、無料で説得したら、
お味方できぬ〜と振られました(爆
時乃栞 2012/07/06(Fri)01:53:49 編集
宗麟が貰っていたら
秋月一族は召し上げで終わりにしたかったので
しょうかねえ。

時乃栞さんがなさっている携帯を使っての
国盗りは私もやってます。
鍋島直茂が星二つという・・
尼子義久が星三つなのに酷い(涙
平八 2012/07/06(Fri)11:26:55 編集
無題
時乃栞様コメントありがとうございます。

>伊東祐兵ファンなので、大友与力コースを回避出来て良かったヾ(@⌒ー⌒@)ノ
ぎゃはは。与力になってたら、後の朝鮮出兵の失態で、連座で領地取り上げの可能性が出てきますからね。
与力の話はどうなんでしょうね。この手紙の宛先(羽柴中納言)は豊臣秀長のことで、伊東祐兵は秀長と懇意にしていたそうなので、話聞いた可能性もありますね。

>鍋島は月をバックの超絶イケメン
気になる(爆)
ちなみに肖像画はこれなんですが…
http://jp.nabeshima-ishii.com/naoshige.jpg
ばんない 2012/07/07(Sat)22:37:17 編集
無題
平八様コメントありがとうございます。

>秋月
どうなんでしょう?高橋も一緒に消去させるつもりだったのでしょうか。この辺の史料は存じないので何とも言えません。

>鍋島直茂が星二つという・・
>尼子義久が星三つ
そのゲーム作っている人、余り戦国時代分かってないような
ばんない 2012/07/07(Sat)22:41:44 編集
解釈について
 ご無沙汰しております。古文書の入力は大変ですよね。本当に変換がしんどかったと思います。お陰様で、西国文書の勉強になりました。お疲れ様でした。

 相変わらず重箱の隅をつつくようなコメントですが、「越度」は「失敗、違反」を意味するようです。それと、「国之内ニ置候ハデ不叶城」の「デ」は、打ち消しなので「置かないとまずい城」になるっぽいです。自己流ですが、以下のような内容になっているように思います。

一、去る年に仙石権兵衛が置目を破って不届の働きをいたし、越度をとった際に、長宗我部の息子である弥三郎を討ち死にさせました。(この討ち死には)忠節なことですから、褒美として大隅国を長宗我部宮内少輔へ加増として下されますので、長宗我部が居る上はよい城の普請を申し付け、(大隈)国内に置かなくては叶わない城があるなら、3でも4でも普請を申し付けて、長宗我部に渡すように。
高村 URL 2012/07/09(Mon)01:33:41 編集
翻訳
高村様、コメント+翻訳ありがとうございます。

実は自分で訳していても変な訳だと思ってました(苦笑)。なるほどそういう意味に取るのですね。
>西国文書
というより、これは秀吉の文書なので西国文書というのとはちょっと違うかも知れません。ところで気になったのですが、東国の文書とは何か違うのでしょうか?
ばんない 2012/07/09(Mon)22:45:41 編集
言葉の違い
おっしゃるように秀吉が西国人かは微妙ですね。「名古屋より向こう」をついつい西国として同一視してしまうのは関東人の悪い癖です。

東国文書との違いですが、城を「置」とか「拵」としている点が真っ先に目に付きました。後北条・今川では「城・地利・取出・構・要害」は、「成」したり「築」いたり「取立」てるものなんです(普請はどちらも使います)。「置」のは武将や部隊に限られています。それと、秀吉文書では「走廻」「調」「肝要」が頻出しないのも「おや」と思いました。ただこれも乏しい管見の限りなので、その点お含みおき下さい。
高村 URL 2012/07/11(Wed)00:25:37 編集
西国と東国
高村様コメントありがとうございます。

西国文書と東国文書の違いについてのご説明、ありがとうございました。用語がいろいろ異なるのですね。
実は、島津家も秀吉に負ける前とその後では文章の印象が違うように感じます。具体的にどうか、というと説明しにくいのですが。

秀吉の文書は「西国文書」と言うより「天下文書」というか「統一者の文書」でしょうか。すぐ分かる特徴としては、目下に与える文書のサインが花押ではなくはんこ、それも相手の立場によって朱色と黒色と使い分けてあるそうです。
こういう大名家による文書の特徴の違いについて書いてある本があったんですが…ちょっとタイトルを失念してしまいました。
ばんない 2012/07/11(Wed)01:09:16 編集
ご指摘の書籍
ばんない様

大名別に文書を徹底解明したのは『中世のなかに生まれた近世』(山室恭子・著)だと思います。私のバイブルですが、こちらも絶版なんですよね。

島津氏と大友氏についても分析していて、羽柴氏に助けられた筈の大友氏が改易され、攻められた島津氏が生き延びた理由を文書発給システムから考察しいるものです。島津氏文書の激変ぶりは激しかったようですね。
高村 URL 2012/07/12(Thu)22:08:28 編集
それそれ
高村様コメントありがとうございます。

>『中世の中に生まれた近世』
そう!それです。タイトル分かってすっきりしました。ありがとうございました。

しかし歴史関係の本は絶版になるスピードが速いですね。今話題の電子書籍になる可能性も低そうだし(涙)
ばんない 2012/07/12(Thu)23:44:28 編集
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