拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
近江の国人であった蒲生家が、織田信長に気に入られたことをきっかけとして大名に上り詰めたこと、その後、早世する当主が続き、江戸初期には子孫もなく断絶に至った事もご存じの方が多いと思う。
ちなみに氏郷には孫娘がいた。嫡子・秀行と徳川家康の娘・振姫との間にうまれた女性である。彼女は後に叔父に当たる徳川秀忠の養女となって加藤忠広(加藤清正の息子)に嫁ぐが、寛永9年(1632年)、加藤家は改易となった。その後忠広は出羽国庄内の酒井家に、嫡子の光広は飛騨国高山の金森家にお預けとなった。が、彼女は夫にも息子にも付いていった形跡がないのである。一体彼女はその後どうしたのであろうか?
「幕府祚胤伝」という史料がある。要は徳川本家(将軍家)の系図なのだが、養子養女に関しても簡単に事績が綴られている。前書きによると、あの三田村鳶魚が収集した物で、「覚斎竹尾善竹の著なり」とあり、江戸時代後期に成立した物のようである。そこに秀郷の娘のことも書いてあった。
それにしても縁戚の全く皆無と思われる京都を選んだのが謎であるが、実は京都には彼女に近い親戚が居たのである。祖母に当たる冬姫。織田信長の娘で、祖父・秀郷の妻であった人である。加藤家が改易となった寛永9年(1632年)、冬姫は既に72歳の高齢であったが、実母・振姫も元和3年(1617年)に既に没しており、彼女が一番頼れるのはこの老女しかいなかったのでは無かろうか。
ちなみに彼女が葬られた本国寺は法華宗で、加藤清正の菩提寺でもある。母の実家・徳川家の宗旨である浄土宗の寺院ではなく、婚家・加藤家の菩提寺に葬られたところに彼女の心情を伺うのは考えすぎであろうか。
「幕府祚胤伝」は『柳営婦女傳叢』という大正6年に出た古い本に所収されています。都道府県図書館レベルなら所蔵されているかと思います。
ちなみに氏郷には孫娘がいた。嫡子・秀行と徳川家康の娘・振姫との間にうまれた女性である。彼女は後に叔父に当たる徳川秀忠の養女となって加藤忠広(加藤清正の息子)に嫁ぐが、寛永9年(1632年)、加藤家は改易となった。その後忠広は出羽国庄内の酒井家に、嫡子の光広は飛騨国高山の金森家にお預けとなった。が、彼女は夫にも息子にも付いていった形跡がないのである。一体彼女はその後どうしたのであろうか?
「幕府祚胤伝」という史料がある。要は徳川本家(将軍家)の系図なのだが、養子養女に関しても簡単に事績が綴られている。前書きによると、あの三田村鳶魚が収集した物で、「覚斎竹尾善竹の著なり」とあり、江戸時代後期に成立した物のようである。そこに秀郷の娘のことも書いてあった。
加藤家改易の後は養家であった徳川家のある江戸ではなく、京都で余生を送ったとある。又実家の蒲生家にも戻らなかったようである。どちらにしろ蒲生家も加藤家の後を追うように寛永11年(1634年)に無嗣断絶となっているため、蒲生家に戻ったとてすぐ次の居候先を探さねばならなかったと思われるが。御養女 実御姪
奥州会津城主松平飛騨守藤原秀行女 母公振姫君
慶長十八年癸丑二月十五日、為御養女、肥後国主加藤肥後守忠広江被嫁
同十九年甲寅四月十一日入輿婚姻○五月八日、忠広為名代加藤右馬允駿府江御礼、次而至江戸、献緋繻子巻廿、黒繻子巻廿、小袖十領、銀二千両 自分進物、小袖五、銀三百両
寛永九年辛未正月、御遺金二百枚、銀千枚○六月四日、忠広及男豊後守光正有罪、廃羽州庄内鶴岡 酒井宮内大輔忠勝奉之 以後京都棲居
明暦二年丙申九月十七日、卒去京師、年五十五、葬京都本国寺宗法院
それにしても縁戚の全く皆無と思われる京都を選んだのが謎であるが、実は京都には彼女に近い親戚が居たのである。祖母に当たる冬姫。織田信長の娘で、祖父・秀郷の妻であった人である。加藤家が改易となった寛永9年(1632年)、冬姫は既に72歳の高齢であったが、実母・振姫も元和3年(1617年)に既に没しており、彼女が一番頼れるのはこの老女しかいなかったのでは無かろうか。
ちなみに彼女が葬られた本国寺は法華宗で、加藤清正の菩提寺でもある。母の実家・徳川家の宗旨である浄土宗の寺院ではなく、婚家・加藤家の菩提寺に葬られたところに彼女の心情を伺うのは考えすぎであろうか。
「幕府祚胤伝」は『柳営婦女傳叢』という大正6年に出た古い本に所収されています。都道府県図書館レベルなら所蔵されているかと思います。
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