拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
…だいたいネタ元自体が島津日新斎が息子・貴久を使って本宗家を(ピ~)で、島津忠恒(家久)も見ようによっては(以下自粛)
ではなくて、庄内の乱前後に勃発した、島津氏の有力分家・北郷家のお家騒動のお話です。
wikipedia「北郷忠能」でもちょいと触れられていますが…
ではなくて、庄内の乱前後に勃発した、島津氏の有力分家・北郷家のお家騒動のお話です。
wikipedia「北郷忠能」でもちょいと触れられていますが…
慶長10年(1605年)には家老の北郷久陸を追放するなど家中への統制策を強める。このころから独り立ちして北郷家の当主としての実務も見るようになったと思われるが、朝鮮出兵・庄内の乱で実際に活躍した三久を当主とすべきという勢力と対立し、家中が紛糾し出すようになる。
北郷家は、実はちょっと前にもお家騒動を起こしかけていました。1579年、先代当主・北郷時久が突然長男・相久を廃嫡し、相久は自殺したのです。この理由は今以てまともに書いてある史料が無く謎とされています。ただ、後に相久を祀る神社が建てられたときの理由などからみて相久の廃嫡の原因は讒言であったようです(「本藩人物誌」北郷相久など参照)。ちなみに相久の妻が島津義弘の長女・御屋地であったと推測されます。
このため、時久の跡は次男・忠虎(相久の同母弟)が継ぐことになりますが、この忠虎が1594年、若くして朝鮮出兵で客死してしまいます。忠虎には長千代丸という男の子が一人居ましたが、忠虎が死んだときにはまだ数え5歳。とうてい政務を執れる状態ではありません。しかし、北郷家は豊臣秀吉より直接領地を宛われている「御朱印衆」でもあるため”当主が小さいから何もしない”…というわけには行きませんので、隠居していた祖父・時久が政務を代行し、問題の朝鮮出兵は忠虎の異母弟・北郷三久が代行を勤めることになります。しかし、祖父・時久も忠虎の早世に気落ちしたのか1595年に亡くなってしまいます。
この結果、もう皆様には予想が付くかと思いますが、軍務を代行している三久が徐々に北郷家の当主のような状態となり、北郷家は朝鮮在陣中の三久派と在国の長千代丸派に分裂していくことになるのです…。
このような状態で、1599年、伊集院忠棟暗殺事件が起こります。伊集院忠棟は1594年の太閤検地により、長年都城領主であった北郷家を追い出して後がまに納まったような状態になっており、北郷家にとっては敵同然の人物であったようです(「庄内軍記」など)。忠棟の息子・忠真は忠棟の突然の殺害に怒って島津家に反乱を起こそうとしています。ここで伊集院忠真をやっつけ、島津家に恩を売っておくことは北郷家の失地回復の大チャンスをつかむことになります。
…が、当主の長千代丸はまだこの時点で10歳。やっぱり先頭に立って戦うのは無理!
ということで、叔父の三久の登場となります。しかし、北郷家の先頭に立って戦う三久に対する人望は高まる一方で、北郷家の失地回復どころか、北郷家分裂の危機が迫っていたようなのです…
「庄内陣記」ではこのように書いております。
このため、時久の跡は次男・忠虎(相久の同母弟)が継ぐことになりますが、この忠虎が1594年、若くして朝鮮出兵で客死してしまいます。忠虎には長千代丸という男の子が一人居ましたが、忠虎が死んだときにはまだ数え5歳。とうてい政務を執れる状態ではありません。しかし、北郷家は豊臣秀吉より直接領地を宛われている「御朱印衆」でもあるため”当主が小さいから何もしない”…というわけには行きませんので、隠居していた祖父・時久が政務を代行し、問題の朝鮮出兵は忠虎の異母弟・北郷三久が代行を勤めることになります。しかし、祖父・時久も忠虎の早世に気落ちしたのか1595年に亡くなってしまいます。
この結果、もう皆様には予想が付くかと思いますが、軍務を代行している三久が徐々に北郷家の当主のような状態となり、北郷家は朝鮮在陣中の三久派と在国の長千代丸派に分裂していくことになるのです…。
このような状態で、1599年、伊集院忠棟暗殺事件が起こります。伊集院忠棟は1594年の太閤検地により、長年都城領主であった北郷家を追い出して後がまに納まったような状態になっており、北郷家にとっては敵同然の人物であったようです(「庄内軍記」など)。忠棟の息子・忠真は忠棟の突然の殺害に怒って島津家に反乱を起こそうとしています。ここで伊集院忠真をやっつけ、島津家に恩を売っておくことは北郷家の失地回復の大チャンスをつかむことになります。
…が、当主の長千代丸はまだこの時点で10歳。やっぱり先頭に立って戦うのは無理!
ということで、叔父の三久の登場となります。しかし、北郷家の先頭に立って戦う三久に対する人望は高まる一方で、北郷家の失地回復どころか、北郷家分裂の危機が迫っていたようなのです…
「庄内陣記」ではこのように書いております。
北郷三久は一雲斎(北郷時久)の三男にして、嫡子常陸介忠綱(=北郷相久)故有って自刃、二男讃岐守忠虎也。三久始め宗次郎と云い、伊集院幸侃婿也。然るに文禄2年(忠虎)病死なり。三久は九州諸所より朝鮮国に至り、軍功莫大にして威権も勝れたりと。時に兄讃岐守忠虎文禄2年朝鮮国唐島において病死に付き、嫡子長千代丸幼稚なるを以て、三久後見として、此般の軍役を務る処なり。然るに文禄2年本領庄内は改易にて宮之城に移ると雖も北郷譜代の者は何句艱苦を凌ぎて、主家の為力を尽くすの処、三久は内心惣家の相続を謀り、既に人望も得たる故、龍伯公の御意を得て決すと雖も、家臣に至っては不服にて、慶長3年春家老小杉丹後守、幼稚の長千代丸を奉じて伏見に至り、維新公に訴えて、正嫡長千代丸へ家督のことを願ふ。維新公は異議なく其順理を以て相続の儀に御決し、遂に首尾能安堵に至りし由、故に北郷旧臣の内にも三久の勢ひ強き故、主家を離れて、三久に属する者も多しと云。又此度の軍役三久是非相続の内趣を以て、後見役にて惣家の勢を出陣ありし故、旧臣供は此度軍功を抽んで、旧領を復するの宿念を以て、一涯粉骨を尽くせし由、幼稚の長千代丸を奉じて出陣し、先鋒を役す。因って三久の後見を嫌忌すること大形ならず、小杉丹後守始め力めて事を計ると云々。仍って伏見在番家臣の内より四十五人小杉六左衛門・北郷小兵衛・津曲太郎兵衛を主取として相詰候。
(野々美谷城攻之事)
(野々美谷城攻之事)
表面的には島津本宗家vs伊集院忠棟家と言う所にばかり目が行きがちな庄内の乱ですが、島津家に味方した北郷家も内紛寸前でドロドロでございます。よくこの状態で「庄内の乱で一番の武功」を挙げられた物である。
しかし興味深いのは北郷三久が島津義久(龍伯)を頼む一方、北郷長千代丸派が島津義弘(惟新)を後ろ盾にしようとしたことです。何が興味深いかというと、北郷三久の母は何と島津義弘の前妻だからです。にも関わらず、三久は義弘ではなく義久を後ろ盾にしようとしたようなのです。義弘が対決していた伊集院忠棟に近いと見られていたからでしょうか?(義弘の末娘・御下は忠棟の長男でこの「庄内の乱」の敵側大将・伊集院忠真の妻)それとも、三久の同母弟・北郷久村が義久に近侍していたからでしょうか?
ちなみにその後北郷三久は北郷家から分家し、後にその義久とひじょーに不仲だった島津忠恒(家久)によって家老に任じられています。うーんドロドロ。
しかし興味深いのは北郷三久が島津義久(龍伯)を頼む一方、北郷長千代丸派が島津義弘(惟新)を後ろ盾にしようとしたことです。何が興味深いかというと、北郷三久の母は何と島津義弘の前妻だからです。にも関わらず、三久は義弘ではなく義久を後ろ盾にしようとしたようなのです。義弘が対決していた伊集院忠棟に近いと見られていたからでしょうか?(義弘の末娘・御下は忠棟の長男でこの「庄内の乱」の敵側大将・伊集院忠真の妻)それとも、三久の同母弟・北郷久村が義久に近侍していたからでしょうか?
ちなみにその後北郷三久は北郷家から分家し、後にその義久とひじょーに不仲だった島津忠恒(家久)によって家老に任じられています。うーんドロドロ。
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