拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
かつて表題のタイトルの映画が大ヒットしたことがありましてな(年がばれる)
まさかその主演の歌手がヤク中で死んでしまうとは…大阪城ホールにコンサートまで行った身としてはショック。
「本藩人物誌」には亀寿のボディガードをしたという人物が3人書かれている。
上記記事によると、飯牟礼紀伊介光家、末田主馬允(諱不明)、皿良善助貞資の3名は、島津義久からの遺言として“国分様”こと島津亀寿の行水の際に身辺警護を務めたという事のようですな。
…つまり…
お前ら亀寿様のヌードを拝見したという事であるな、この不届きものめ!ヾ(^^;)
※この時代、入浴には湯帷子といううすーい浴衣みたいな物を着ますので、丸見えではありません(透けて見えるかも知れないけどね)
…
落ち着いたところで本題。
「本藩人物誌」には上記の通り飯牟礼光家と皿良貞資の記事があり、末田主馬允は項目が無くてどういう人物かがよく分からないのが残念ですが、飯牟礼、皿良の記事から「島津義久に早くから仕えていた家臣である」事だけは確実と思われます。
肝心の「亀寿の入浴ボディガードを指名した時期」ですが、飯牟礼記事、皿良記事とも「龍伯公御他界前」というのを明言しているので慶長16年(1611年)1月頃ではないかと思われます。
この後、時期がはっきりしませんが亀寿は鹿児島城から追放されて国分城にうつされるなど屈辱的な扱いを受けるのですが、義久にはそういうことが予見できていたのかも知れません。そして、もしかして亀寿が暗殺される可能性もかなり高いと思っていたのではないでしょうか。そのためのボディガード任命だったのでしょう。
なお、飯牟礼記事、皿良記事同様に「其涯ノ御奉公三人ニテ相勤候」(生涯に渡っての御奉公を三人にて相勤めた)とありますので、亀寿が死ぬまでこのボディーガードは続いたようです。
ところで、このボディガードを実際に命じた(義久の遺言を聞いて3人に命令した)人物「吉田六郎右衛門入道」ですが、「本藩人物誌」に出てくる吉田六郎右衛門清長入道半雪ではないかと思われます。祖父は吉田位清、祖母は島津忠良(義久の祖父)の姉なので、島津義久とは縁戚という事になります。天正6年(1578年)時点で26歳と書いてありますので、寛永4年(1627年)11月17日に死んだときには76歳と言うことでしょうか。朝鮮出兵にも行かされたり、関ヶ原の合戦の生き残り組であったりと結構タフな人だったようです。
まさかその主演の歌手がヤク中で死んでしまうとは…大阪城ホールにコンサートまで行った身としてはショック。
「本藩人物誌」には亀寿のボディガードをしたという人物が3人書かれている。
飯牟礼紀伊「介」朱光家慶長十六年国分高帳百五十六石余竜伯様へ御奉公国分江罷在候御他界前吉田六郎右衛門入道ヲ以被仰聞候ハ紀伊介伊地知勝左衛門儀ハ国分様江御遣セラレ候左候テ紀伊介末田主馬允皿良善助事ハ御行水之時参候間誰人ヲモヨセ付間敷由被仰付候間如御意其御涯之御奉公三人ニテ相勤候」其後琉球入ニ渡海国王下城ニテ平均ニ付光家ト貴島采女頼張両人右之御注進トシテ久高之命ヲ以鹿児島へ罷登候朱「外飯牟礼氏別冊
皿良善助貞資二郎二蔵○元亀三朱「イ二」年生○貞行養子実ハ弟ナリ兄戦死故家督 義久公へ奉仕御手自御銘被遊候宝刀被成下候○慶長十五年 龍伯公飯牟礼紀伊介御使ニテ貞資別テ奉公仕候ニ付御褒美可被仰出置東郷重位其座ニ罷在承知仕居候間御逝去後 家久公江右之旨言上仕候故一世之間年々十石ツヽ被成下候○ 龍伯公御他界前ニ吉田六郎右衛門入道被仰聞候ハ善助并末田主馬允事ハ此中 龍伯公江御奉公申上候通鹿児島へ可致御奉公候左候テ善助并主馬允飯牟礼紀伊介事ハ御行水ノ節参候テ誰人ヲモ寄セ付申間敷通被仰付其涯ノ御奉公三人ニテ相勤候事○寛永十五年島原へ御使トシテ被差越直ニ在陣仕候
※下線はばんない補足
上記記事によると、飯牟礼紀伊介光家、末田主馬允(諱不明)、皿良善助貞資の3名は、島津義久からの遺言として“国分様”こと島津亀寿の行水の際に身辺警護を務めたという事のようですな。
…つまり…
お前ら亀寿様のヌードを拝見したという事であるな、この不届きものめ!ヾ(^^;)
※この時代、入浴には湯帷子といううすーい浴衣みたいな物を着ますので、丸見えではありません(透けて見えるかも知れないけどね)
…
落ち着いたところで本題。
「本藩人物誌」には上記の通り飯牟礼光家と皿良貞資の記事があり、末田主馬允は項目が無くてどういう人物かがよく分からないのが残念ですが、飯牟礼、皿良の記事から「島津義久に早くから仕えていた家臣である」事だけは確実と思われます。
肝心の「亀寿の入浴ボディガードを指名した時期」ですが、飯牟礼記事、皿良記事とも「龍伯公御他界前」というのを明言しているので慶長16年(1611年)1月頃ではないかと思われます。
この後、時期がはっきりしませんが亀寿は鹿児島城から追放されて国分城にうつされるなど屈辱的な扱いを受けるのですが、義久にはそういうことが予見できていたのかも知れません。そして、もしかして亀寿が暗殺される可能性もかなり高いと思っていたのではないでしょうか。そのためのボディガード任命だったのでしょう。
なお、飯牟礼記事、皿良記事同様に「其涯ノ御奉公三人ニテ相勤候」(生涯に渡っての御奉公を三人にて相勤めた)とありますので、亀寿が死ぬまでこのボディーガードは続いたようです。
ところで、このボディガードを実際に命じた(義久の遺言を聞いて3人に命令した)人物「吉田六郎右衛門入道」ですが、「本藩人物誌」に出てくる吉田六郎右衛門清長入道半雪ではないかと思われます。祖父は吉田位清、祖母は島津忠良(義久の祖父)の姉なので、島津義久とは縁戚という事になります。天正6年(1578年)時点で26歳と書いてありますので、寛永4年(1627年)11月17日に死んだときには76歳と言うことでしょうか。朝鮮出兵にも行かされたり、関ヶ原の合戦の生き残り組であったりと結構タフな人だったようです。
個人的に、皿良貞資のこの記述も興味深かったです。
唯一の抵抗が「このご褒美、お前一代限りだからな!」
…まあ、同席して聞いてた人物があの東郷重位というのが皿良にとっては幸運(家久にとっては不運)でしたね。重位は唯一家久(忠恒)をぼこれる人だから(ヲイ)
何か家久(忠恒)のかちーーーーーーーーーんときた顔が目に浮かぶ様だ(^^;)慶長十五年 龍伯公飯牟礼紀伊介御使ニテ貞資別テ奉公仕候ニ付御褒美可被仰出置東郷重位其座ニ罷在承知仕居候間御逝去後 家久公江右之旨言上仕候故一世之間年々十石ツヽ被成下候
(慶長15年、島津義久公が飯牟礼紀伊介をお使いとしてつかわし、貞資は特に奉公したので、褒美を与えると仰せられた。東郷重位もその場にいてその件を承知していた。義久公が亡くなられた後、家久公に右の件を申し上げたところ、貞資一代の限り毎年10石与えられた。)
唯一の抵抗が「このご褒美、お前一代限りだからな!」
…まあ、同席して聞いてた人物があの東郷重位というのが皿良にとっては幸運(家久にとっては不運)でしたね。重位は唯一家久(忠恒)をぼこれる人だから(ヲイ)
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