拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
伊集院忠棟(幸侃)が島津忠恒に茶事にこと寄せて手ずから暗殺されたのは慶長4年3月9日(旧暦)なのだが、
この時既に徳川家康は島津家にちょっか…いやご便宜を計って下さっていたようです。
というか、ひこにゃん井伊直政が島津と関わりを持ったのは、関ヶ原の合戦の時のガチンコバトルじゃなくて、この時だったのか。
ちなみにこの後島津忠恒(家久)期の筆頭家老で後に孫娘を世子・島津光久の正室にねじ込み島津家中で絶大な権力を誇り、徳川幕府にも覚えめでたかった家老・伊勢貞昌もこの辺りがデビューみたい。ただ、この後の「庄内陣記」見ると戦働きは全然書いてなかったから本多正信に似たタイプだったんでしょうね、伊勢…だから幕府に気に入られたのか。
この時既に徳川家康は島津家にちょっか…いやご便宜を計って下さっていたようです。
此時内府公(=徳川家康)聞召され、警固の為、井伊兵部少輔直政に騎馬廿騎計相添えられ、忠恒公の館に遣わされ、直政御門前に衆屯して居られける間、伊勢兵部少輔貞昌出合あり、さつしければ、直政申されけるは、幸侃御成敗の由、内府聞為され、残党等反逆を企こと心許なく存じ候、依て御加勢に遣され候旨をぞ申されける。惣じて幸侃妻子共悉く東福寺へ立ち退きければ直政も帰参さられける。
(幸侃伏見邸にて伏討の事)
(幸侃伏見邸にて伏討の事)
というか、ひこにゃん井伊直政が島津と関わりを持ったのは、関ヶ原の合戦の時のガチンコバトルじゃなくて、この時だったのか。
ちなみにこの後島津忠恒(家久)期の筆頭家老で後に孫娘を世子・島津光久の正室にねじ込み島津家中で絶大な権力を誇り、徳川幕府にも覚えめでたかった家老・伊勢貞昌もこの辺りがデビューみたい。ただ、この後の「庄内陣記」見ると戦働きは全然書いてなかったから本多正信に似たタイプだったんでしょうね、伊勢…だから幕府に気に入られたのか。
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