拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
アクセス解析中に偶然発見。
19代島津家当主光久息女・鶴千代の肖像画
かなり珍しい物です。
何が珍しいかというと、島津氏は他の大名家に比べて肖像画のたぐいが余り残っていません。江戸時代の当主ですら、19代当主・光久から24代当主・重年までの肖像画は一枚も未発見なのですから。ましてや、女性の肖像画、それも江戸時代の初期にさかのぼれる物は貴重なのです。
この鶴千代というのは光久の13女(母親の名前は「家女房」とされ不明)で、兄の忠長の養女となり頴娃久明なる鹿児島藩家臣の妻となったが後に離婚、その後は兄の領地である都城で余生を送ったという人物。最も、兄の忠長も子供無く早死にした人物で、他に都城に鶴千代姫の血縁はおらず、肩身の狭い余生を送られたのではないかと思われます。
顔…ピンぼけと劣化で分かりにくいが、下膨れでおかめ?ヾ(^^;) この頃もおかめ顔は美人なんだっけな?
19代島津家当主光久息女・鶴千代の肖像画
かなり珍しい物です。
何が珍しいかというと、島津氏は他の大名家に比べて肖像画のたぐいが余り残っていません。江戸時代の当主ですら、19代当主・光久から24代当主・重年までの肖像画は一枚も未発見なのですから。ましてや、女性の肖像画、それも江戸時代の初期にさかのぼれる物は貴重なのです。
この鶴千代というのは光久の13女(母親の名前は「家女房」とされ不明)で、兄の忠長の養女となり頴娃久明なる鹿児島藩家臣の妻となったが後に離婚、その後は兄の領地である都城で余生を送ったという人物。最も、兄の忠長も子供無く早死にした人物で、他に都城に鶴千代姫の血縁はおらず、肩身の狭い余生を送られたのではないかと思われます。
顔…ピンぼけと劣化で分かりにくいが、下膨れでおかめ?ヾ(^^;) この頃もおかめ顔は美人なんだっけな?
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