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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
こちらのツイッターですが、爆笑させていただきました(^^;)

では今回の本題の関連ネタはこちら 



今回からは、朝鮮出兵時、捕虜として日本に連行されてしまった姜沆の「看羊録」に記述された島津氏以外の戦国武将の記述を見てみます。
人選とかも結構興味深いです。

ではまいる
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(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版です。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注

まずは、戦国武将の話は直接出てませんが、姜沆がいわゆる「豊臣子飼いの武将」というのをどういう風に見ていたのかというのが分かりやすいこの文から
今の要路にあたっている者はみな庸奴・市児(注1)のたぐいで、秀吉を頼ってにわかに富貴になった者であります。倭僧の中でもいくらかでも識見のある者はみな、「日本ができて以来、まだこの時[代]の顛倒の如きはない」と言いました。
「賊中封琉」p.27
注1「庸奴・市児」:奴隷的な身分の出身orヤクザ者 と言う意味らしい

福島正則とかはあながち外れじゃない うわ何を(略)
しかし、姜沆と知り合いだったという僧侶の発言は興味深いです。姜沆が知見のあった僧侶というのは上方の禅僧が多いのですが、こういう僧侶は元々の出身が公家の子弟とか守護大名の子弟とか身分の高い人が多く、そういう出身の人たちが、成り上がりもの・豊臣秀吉+その家臣をどう見ていたのかというのが分かる興味深い内容かと。
なお大坂の陣の後、秀吉縁の寺院は多くが他の寺院の手に渡り、所蔵していた宝物の多くがそれらの寺院によって横領・売却されたりされたのですが(『北政所―秀吉歿後の波瀾の半生』 (中公新書)に詳しい)、こういう僧侶達の秀吉認識が背景にあったのではとも考えさせられます。

では本題
[徳川]家康なる者がいる。関東の大帥である。今は内府と称している。藤原源義定の11世の孫である。義定がかつて関白に任ぜられ、その子孫は代々関東に居住した。食邑は8州にも伸び連なっている。その[地の]人は、勇敢な上、戦上手でもあるので、どの国も[戦いをいどんで]鋒を争うようなことはなかった。
家康の代になって、[豊臣]秀吉がはじめて[織田]信長にとって代わったが、家康は城に拠って服従しなかったので、秀吉は自ら往ってこれを攻めた。家康は、精兵1万5千人で相模に迎え撃った。秀吉の兵が敗れ、遂に[家康と]和を結んだ。家康も怨みを溶いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
その長男、三河守(注1)の知勇は家康にも優っていたが、家康は、次子の江戸中納言を愛し、嗣にしようと望んだ。その末子は、壱岐守(注2)といい、年はわずか10歳である、と言う。
家康の年は、その年63[歳]で、土地の所出は250万石、しかし実際はその倍もある。
<秀吉に提出した田籍では250万石といっているが、その先祖や父の代から自分[の代]に及ぶ間に開墾して増やした分は、その数に入れていない。それでこれに2倍する、と言う。>
[家康は、]慎重で、口数が少なく、体つきはどっしりしている。
城府はとても[険]阻である。秀吉の生きていたときには大変衆[人の]心を得たが、秀吉に代わるようになってから、倭[人の]望みにそわなくなってしまった。
<秀吉は、城を攻めて敵を打ち破ったときでも、敵陣が服従すればすぐに讎であった怨みを忘れ、城池や民社(注3)も全然侵奪しないで、ある場合には、他の邑をもっとつけてやりさえした。[それに反し、]家康は、恩怨を心ひそかに含み、一度でも反目するようなことがあれば、必ず相手を死地に追いやってしまって満足した。それ故、諸酋(注3)は[彼の]力を畏れて[表」面[は服]従するが、一人として心服する者はいない、と言う。>
「賊中聞見録」p.136~137
(注1)長男三河守:訳者の朴氏は「松平信康」としているが、慶長4年時点で既になくなっており矛盾する。なおネットで検索した限りだが、家康の子息で官途「三河守」を名乗った人物はいない
(注2)末子壱岐守:訳者の朴氏は「初代水戸藩主・徳川頼房」とするが、慶長4年時点では生まれてない(慶長8年生まれ)ので矛盾。なおネットで検索した限りだが、家康の子息で官途「壱岐守」を名乗った人物はいない
(注3)諸酋:諸大名のこと。

賢明な皆様なら「?」と思われる事必定なんですが、どうも徳川家康が関東公方の末裔という事になっているようです(^^;)。最後の姜沆の補注による「秀吉の性格vs家康の性格」の内容が興味深い。史実は秀吉も大概だと思うんですけどね。
[毛利]輝元なる者がいる。京西の大帥である。壬辰の役に元帥となった者である。安芸中納言と称し、あるいは毛利中納言とも称している。
まさに百済が滅ぼうとしたとき、臨政太子が船に乗って倭国に入り、大内左京大夫<倭人は王を大内という。それで、今に至っても、周防州に大内殿の称号がある>となって、周防州に都した。その子孫は、四七世を歴る間、代々倭官となってその土地を襲いだ。輝元の祖先はすなわちその従者であった。臨政[太子]の[後]裔は多々良氏となり、輝元の祖先は大江氏となったが、のち、毛利と改めた。臨政の子孫がすでに絶えてしまってからは、輝元の祖先が代わってその土地を襲ぎ、安芸州の広島に都した。
物力にすぐれ、富んでいるのは、倭京になぞらえられる[ほどである]。
その風俗は、倭のうちでは、いくらかつつしみ深い。性質は、とてもゆったりとおおらかで、わが国人の気性によく似ている、という。
輝元の年はその時48[歳]、食邑は京西、九州にわたっており、土地の所出は150万石、しかし、実際はこれを越えている。
[輝元が、宇喜多]秀家ともども、賊魁の命令におさえられて、やむをえずわが国人の鼻を削いだときも、いくらかは憐れみの気持ちがあった、という。
「賊中聞見録」p.138~139
姜沆の武将評では割と高評価の毛利輝元。姜沆の実体験・実際に聞いた話からの評価ではなく、前任領主の大内氏が(自称)朝鮮人末裔を称していたことに拠る身びいきがありそうな気がする。
前田肥前守[利長]なる者がいる。加賀大納言[前田利家]の子である。<前田はその姓である。>大納言は、もともと、家康と[官]爵勢[力]ともに相等しかった。秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前[守]に依託して、
「そこもとは、備前中納言[宇喜多]秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」
と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌(注1)年冬に死んだ。肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
<[前田利長は、]高く門楼を建て、それが大坂内城と斉し[いほど高]かった。[彼は]ひそかに、[上杉]景勝・[伊達]政宗・佐竹[義宣]・[宇喜多]秀家・[加藤]清正・越中守[細川忠興]らと、家康を殺してその土地を分けようと計り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。石田治部少輔[三成]が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入[って]拠[りどころと]し、肥前[前田利長]の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。家臣たちはみな、
「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、我が主君の命[令]に違って死ぬことはない」
と言っ[てその命令に従わなかっ]た。家康の怒りはますます激しくなった。肥前の妻の甥であった[宇喜多]秀家が行って肥前の家臣を喩し、[門楼を]撤去させ、
「そち達の主が[私に]言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。肥前守も城や隍を修[理]改[築]して固守の計を取り、ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、[上杉]景勝などともひそかに[相互]援[助]の盟[約]を結んだ。群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。>
「賊中聞見録」p.139~141
(注1)戊戌年:前田利家は慶長4年(己亥)死去。戊戌は慶長3年にあたる。

最後の1行は置いといてヾ(--;)、関ヶ原前夜の徳川家康vs前田利長の内容が、一般的に知られているものとかなり違うので興味深い。関ヶ原の合戦前は、結構勢力の優劣が流動的で不安定だったのかなとも思わされる。
[上杉]景勝なる者がいる。今は、越後[中]納言と称している。代々、越前・[越]中・[越]後の三州の地に居[城]した。賊魁が信長に代わるに及び、景勝は、[秀吉との]戦いに敗れ、服従を請うた。秀吉は、出羽、佐渡に景勝を移して[その地を]授け、越後の地を奪って掘里久太郎(注1)に与えた。景勝の心は平らかではあり得ず、越後の民もやはり景勝が主[君]であることを望んだ。
家康が秀吉に代わるに及んで、肥前守[前田利長]と家康が不仲になった。景勝は、勝手に自分の領地に帰り、肥前守と兵を連ね越後の地を攻奪しようとした。[堀]久太郎[秀政]は大いに懼れ、数家康に報告した。家康も根本[の関東]を景勝が襲うかと気にし、数[景勝に]手紙を送って京にもどるように勧めたが、景勝は従わなかった。
<倭人は、みなこう言ったという。
「景勝が、本当に肥前守と兵を連ねて、直ちに家康の根本を擣くとしよう。家康が戻って[根本である関東を]救援しようとすれば、多分[加藤]清正等がいっせいに立ち上がるであろうから、西京[である大坂]は、自分の所有では無くなるであろう。帰って救わなければ根本がまず敗れ、腹背に敵を受けることになろう。景勝らが動けば成功しないはずはないが、惜しいかな、景勝らは[愚]鈍・懦[劣]である。必ずや、自ら奮発しようとしないであろう」>
「賊中聞見録」p.141~142
(注1)掘里久太郎:堀久太郎秀政

上杉景勝と前田利長の関係とか、今一般的に知られている話とは異なるように思います。ただ、「必ずや、自ら奮発しようとしない(ので家康には勝てない)」と言われていたらしいのは興味深いです。史実はこの下馬評通りになってしまいました。
あと、「越後に未練があったのに秀吉に無理矢理転封された」というのはほぼ史実通り(苦笑)。幕末になっても戊辰戦争の影でちゃっかり米沢から越後を伺っていたというのは公然の内緒です(爆)
[伊達]政宗なる者がいる。代々、陸奥一州により、富貴さは、倭国を傾けるほどである。秀吉が信長に代わるに及び、政宗は[秀吉との]戦いに敗れ、服従を請うた。
金銭[の豊富さ]は、諸倭[大名]の倍にもなるが、[京までの]道路が絶遠であり、北海は風が強くて、船もまた転覆することが多くて、倭京にいる人夫や調度は、輝元らの半分にも及ばない。
<政宗の凶悍さは、諸倭に比べて最も甚だしく、自分の兄や子まで殺したほどである。生まれつき、また才略にたけていて、伏見城中に水がなかったのを、政宗が策を設けて城外の川の水を引き、長い仕掛け[の樋]を作って、まっすぐに秀吉のいる内城に入れた。城中の男女は、今でもそれに頼っている、という。>
「賊中聞見録」p.142
”ま~くん”こと伊達政宗の話です。ちょっとだけ朝鮮にも出兵していましたが大々的ではなかったのに、姜沆が特記したのは、いわゆる「伊達ぶり」というか、突飛に派手なのが目に止まったのでしょう。補記に書いたようなぶっ飛んだ行動にも目が止まったようですが…。
佐竹[義重・義宣]なる者がいる。代々、常陸などの数州に拠っていて、秀吉[の代]に到っても旧来通りであった。
「賊中聞見録」p.142~143
最上[義光]なる者がいる。代々、陸奥の一隅に拠っていて、秀吉[の代]に到っても旧来通りであった。
「賊中聞見録」p.143
佐竹、最上は余り特記事項もないのに、わざわざ一項を設けて姜沆が書いた理由が不明。
筑前中納言金吾[小早川秀秋]なる者がいる。秀吉の本妻の甥で、[毛利]輝元の女婿である。秀吉が以前名乗っていた姓を木下と言ったが、金吾もその姓を冒してやはり木下と言った。
金吾は、若州小将[木下]勝俊・始路城主[木下]右衛門大夫[延俊]・宮内少輔[木下利房]らと四人兄弟である。金吾はその末弟である。秀吉にかわいがられたので、領地は兄たちの倍を得た。
庚子年、その年は19[歳]、丁酉の役には元帥となって釜山に駐屯したが、賊魁は、[彼が]軍律を失うことが多かったので、厳しく叱責した。
<大体、その性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、その兄たちに及ばぬこと甚だ遠い。舜首座[藤原惺窩]は、以前、金吾に書を教えたことがあったので、その人となりを非常に詳しく知っている、と言う事である。土地の所出は99万石。>
「賊中聞見録」p.143
あの小早川秀秋が1項を設けて特記されています。小早川秀秋は養父が元五大老(小早川隆景)だったので登場したのか、朝鮮出兵の元帥だったから特別に書かれたのか、それとも姜沆と親しかった藤原惺窩の弟子だったから登場したのか、今ひとつ分からないです。ただし内容は酷評に近いですね。もしかして藤原惺窩の秀秋評の受け売りなんだろうか(^^;)
備前中納言豊秀家なる者がいる。秀吉の養女の婿である。始め、赤松播磨守(注1)の旗下として秀吉に従い、立身をした。
その先祖はわが国の人である。
備前一州、備中の半分、美作の半分に拠り、備前の岡山に都している。
武器が優れ、兵士は精鋭であり、土地も肥沃で、財物も豊富である。
壬辰の役には、京師(注2)の南別宮に進入し、かなり殺掠を禁じたが、わが国の若い男子を多数生け捕りにして帰った。<家康とは次第にそねみ合うようになっている。丁酉の役には誤りが多くて、士卒の心を失った。>
<[日本にもどって後の]庚子年2月、その部下が、秀家の所業を怒り、いっせいに刀や槍を佩びて進み出、
「所行を改めませぬと、どのような災いが身に降りかかるやも知れませぬぞ」
と、秀家を劫かした。秀家は、あわてふためくばかりで、なすすべを知らなかった。大谷刑部少輔[吉継]が、これを聞いて秀家を迎え、共に一船を出して大坂に下った。それで[ようやく]事がみなおさまった。首謀者数人のうち、ある者は自殺し、ある者は逃げ、残りはそのままで[罪に]問われなかった。
家康は、秀家の不始末を幸いに、[人を]殺した者の罪を取り調べなかった。群倭は、このことをもって、ますます家康を小[人]だと言った、という。土地の所出は69万石>
「賊中聞見録」p.144~145
(注1)赤松播磨守:同時代に「赤松播磨守」はいない。また、宇喜多秀家が赤松氏直属だったことはなく、父・直家も赤松氏家臣・浦上氏の配下だった。
(注2)京師:ソウルのことである。京都じゃないので注意。

宇喜多秀家の話ですが、「豊(臣)秀家」と書かれているのが興味深いです。ご存じの方が多いと思われますが、文章にもあるとおり秀家の妻は豪姫(前田利家の娘、豊臣秀吉の養女)でどうも豊臣一門の扱いを受けていたらしく、姜沆のこの記述はそれを裏付ける物と言えそうです。
また、後半はあの宇喜多騒動の話に触れられています。影で家康が攪乱したというように書かれているのが興味深いです。



個別に項目を設けて詳述している大名、既出の島津義弘を含めて、以上。
何故か加藤清正とか宗義智とか朝鮮出兵に深く関わったはずの武将でも、この個別項目の後で名前だけ登場_(。_゜)/
五大老(徳川家康、毛利輝元、前田利家(この時点では利家が死んで利長)、上杉景勝、宇喜多秀家)が登場するのは分かるんだが、伊達政宗とか、佐竹氏、最上義光など朝鮮出兵にほとんど関わりなかった武将まで登場。人選が謎です。



かなり長くなったので、今度は個別項目で書かれなかったその他の武将について項を変えて続けます。

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無題
ツイッター面白かったです。
どれも甲乙つけがたい傑作^^

各武将の記録、意外と詳しく書いてますね。
毛利輝元が高評価で面白かった^^
時乃栞 2016/09/12(Mon)21:28:01 編集
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