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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回の話はこちら



今回は何故か単独項目で言及してもらえなかったかわいそうな?武将達の記述について、気になるものをご紹介。
まあ、姜沆の置かれた状況が状況なんで、大概の武将はこき下ろされまくりなんですが、とりわけ、宗義智+小西行長に関する悪口はすさまじいです(^^;)
ではまいる

(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版です。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
私が俘われて倭国に連行されてから、倭僧に細かく聞いたところによりますと、平時のいわゆる倭の使者なる者はみな[対]馬当主が送ってきた私人であり、いわゆる倭の国書なる物はみな[対]馬島主が書いてよこした偽書であって、ただ群倭があずかり知らないばかりでなく、壱岐、肥前の将倭らもよく知らない、と言う事であります。
(中略)
交戦のきっかけは、ことごとく[宗]義智の謀からでたものであります。[小西]摂津守行長は義智の妻の父であります(注1)。義智は、自分から直接賊魁に通じることができず、行長を通じてわが国の虚実を細かく[秀吉に]報告し、[行長は]自らそのことに任じたのであります。こうして戦いがうち続き、災いは連なって、物故[する者]も増大し、倭人といえどもその怨みが骨に徹し、
「摂津守が実にこの事態を引き起こしたのだ」
と言い、[加藤]清正のような荒々しい者でさえも、
「朝鮮との戦いのきっかけを開いたのは、摂津守その人である」
と言ったのであります。
行長は、わが国での事[態]の結末が無期[限につきそうにもない]と見てとりはしたものの、朝にして撤[退帰]還すればわが国が義智を声討し、しかも相互間の貿易も許さないだろう事を恐れ、それで熱心に和解に努力したのであり、実に義智の立場を考え[てそうし]ただけであります。
「賊中封琉」p.55~56
(注1)宗義智の妻の父:この文章にあるとおり、宗義智の妻・マリアの父が小西行長になる。後の関ヶ原の合戦で小西行長が処刑されたことにより離婚、後長崎で死去したと言われるが、詳細は未詳。
姜沆的には「この朝鮮出兵の影の首謀者は宗義智と小西行長!!!」…らしい。いや、やっぱり首謀者は「賊魁」こと豊臣秀吉その人なんですが、こじれる原因を作ったのは宗と小西であることは間違いないと私は考えます。
脱線ネタだが、この辺のまずすぎる外交交渉を見ると、第2次世界大戦の時の日本とオーバーラップして仕方ない私である。
行長と清正とは元々仲違いしていたのですが、壬辰年の戦いを起こして以来というものは、いさかいがいよいよ深くなり、賊魁[秀吉]が意を尽くして仲直りさせようとしても、どうにもその憾みを釈かせることができませんでした。清正は行長に出くわすと、通例として、実に粗暴に接するのですが、行長[の方]は、外面的には温和[な見せかけ]を示してこれに応対します。
「賊中封琉」p.65
キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!小西行長vs加藤清正(爆)
なおこの文の後に、「加藤清正と小西行長がこんなに仲悪かったのに、わが国はスパイを使ったりしてこの反目を利用することができなかった、無策だった…」(ばんないまとめ)というような内容が続きます。
[宗]対馬守義智がもともとわが国との戦いのきっかけを仕組み、賊魁は博多の2万石の土地をその功[績]の賞(注1)としました。その前には、ただ対馬を食[邑と]していただけでした。
大体、倭では、壱岐・対馬を外国同様に見て、66州の列に入れません。
己亥年(注2)3月、群倭は、明兵とわが軍が[対]馬島を声討すると聞いて、流言がかまびすしく、街路ではその噂で持ちきりでした。しかし、[誰も対馬を]救おうと思う者はなく、義智も、倭京に身を隠していたのですが、捨て置いたままこれをどうにもできずにおりました。(中略)
甲午年(注3)の、いわゆる倭の使者、小西飛騨守(注4)もやはり小西行長が送り込んだ者で、賊魁の送り込んだ人間ではありません。<小西は姓、飛騨は州名で、それを官号としたもので、行長の従弟であります。行長の姓も小西です>
「賊中封琉」p.83
(注1)博多の2万石の土地:薩州家島津忠辰の改易後に出水を領していたことがある。また、江戸時代には肥前国に飛び地を持っていた。
(注2)己亥年:慶長4年(1599年)
(注3)甲午年:文禄3年(1594年)
(注4)小西飛騨守:内藤如安
以前少しだけ触れましたが、「大体、倭では、壱岐・対馬を外国同様に見て、66州の列に入れません。」ちうところに、姜沆の対馬/壱岐認識が垣間見えます。
次に紹介する文も、姜沆の対馬認識をよくあらわしている箇所かと 今回の記事の本題とは外れるのですが興味深いので抜粋。
(対馬は)平時には、ただわが国の関市に通って、それで生活を維持してきた。(中略)
その女子は多く[の場合]、わが国の衣装[を着ているの]であり、男子はほとんどがわが国の言語を理解している。
倭国を言うのに必ず日本と言い、わが国を言うのに必ず朝鮮という。[彼らは]いまだかつて日本だと自らを処したようなことはまずない。平時にあってはわが国から利益を蒙ること多く、日本からは少ない。それで、将倭から卒倭に到るまで、わが国を戴く心が、日本に附くよりも強い。
「賊中聞見録」p.130~131
ところがこの文の直後にこう続く
[豊臣]秀吉が66州を併呑するに及ぶや、[宗]義智は、罪[を得ること]を恐れ、遂にわが国を売って秀吉に媚び、その先鋒となったのである。秀吉は、筑前の博多の地を割いてその功を賞し、[それで対]馬島の将倭は、始めて粒食することができたのであった。以前は、ただわが国から賜う米を食べるだけであった。
しかし、[義智は]倭京にあってもまだ家屋敷を持てず、その妻の父行長の家の近くにある市[中の酒]楼を選んでしばらくの間賃[銀を払って宿]泊したのであるが、斥けられて、他の将倭らの例にもあずかれなかった、という。
大方の本土の倭は誠にあくどいが、非常に悪がしこいと言うほどではない。(中略)
対馬の倭は、あくどいと言うほどではないが、巧[妙な]詐[術]は百出する[ほど悪がしこい]。(中略)
わが国と間隙のない時は、専ら内附[してわが国につくこと]を意図し、倭奴が強盛である時は、わが国を裏切って嚮導[役]を買って出る。その悪賢い謀略や詐計はなみなみならぬものがある。辺将の撫[恤・制]御がもし適切でなかったなら、必ずやまた、この者どもにだまされるであろう。
「賊中聞見録」p.131-132
この文を見ると、姜沆には「子分の対馬に騙された」感が強かったようです(爆)
なおこの文の後には姜沆が考えた長文の対対馬対策が書いてあるのですが、そのなかに「今後は対馬から人が来ても釜山止まりにし、滞在場所も隔離して朝鮮人と交流できないようにするのが良い」という内容の文言があります。江戸時代の朝鮮王朝の対日本政策はまさしくこれそのものですが、姜沆の進言が取り入れられたものかどうかは不明です。

小西行長と宗義智の悪口もいささか読み飽きてきたので、ちょっと空気を変えてみる
<別所小三郎(注1)という者がいて、播磨・因幡に拠って叛いた。信長は、[人を]往かせて、殺させようとした。秀吉が、自分が往って論そうと願い出、信長はそれを許した。秀吉は、手ずから親兵100人ばかりを率いていったが、到着すると、これらの兵士を城外に留めておいて
「そち達を煩わせるまでもない。自分一人で入ろう」
と言った。その部下が泣きながら、
「単騎で入城されればどのようなことが起こるやも知れません。どうか、お供をして生死を共にすることをお許し下さい」
と願った。秀吉は、笑いながら、
「もし勝負を比べるならば、100人ばかりの兵卒は、飢えた虎に肉を投げ与えるのとどれほど違おうか。もし勝負を度外視するのであれば、身を挺して一人はいったところで何ら心配することはあるまい。」
と言った。そして、単騎で、刀や槍も外し、商人に身をやつして城門に入った。門番も禁じなかった。
[秀吉は]そのまままっすぐ別所の帳の前に行き、前に進んで、別所の手を取っていった。
「主[である信長]公はそなたを厚遇しているのに、そなたは何が気に染まぬと言って叛くのか。今、計としては、甲を脱ぎ、武器を捨て、[我が身をゆわえるように]束身して謝罪するにこしたことはない。そうすれば、うけあって、富貴も失わずにすむであろう」と。
別所は、
「仲違いがもう深くなって、どうしようもありません」
と言った。別所の部下は、秀吉を殺そうと望んだが、別所は、
「彼は私のために計ってくれているのである。どうして殺せよう」
と言い、秀吉を護送して城門から出させた。秀吉の部下は、秀吉がもう死んでしまったと思っていたので、[彼が]門から出て来たときには、驚きながらも歓び迎えないものはなかった。[事のいきさつを]信長に返報したところ、信長は遂に秀吉に命じて別所を攻撃させた。別所の兵は敗北して西路に逃走した。>
「賊中聞見録」p.149-150
「干殺し」で有名な三木合戦と別所長治と秀吉の話。
“賊魁”秀吉なのに何故かいいエピソードが書かれたのは、後述する藤原惺窩との絡みがあると思われます(別所長治は惺窩の父・兄の敵に当たる)。なお、実際は姜沆が書いた話と違い、別所一族は女子供も含めて自殺に追い込まれたのは有名な話。
家康・輝元・[上杉]景勝・佐竹[義宣]・[伊達]政宗・最上[義光]・[島津]義弘・竜蔵寺・生田[三左衛門](注1)・崛尾[吉晴](注2)・崛里(注3)・筒井[定次]・真田[昌幸]・土佐の[長宗我部]盛親・讃岐の[生駒]雅楽[頭親正]らの領地はすべて世襲で、家来もみな代々の家臣である。
主将が戦いに敗れて自決すれば、その部下もみな進んで自決する。(中略)
その他の諸倭は、みな雇われ者か、下賎の身であったが、秀吉を頼って立身し、膂力や勇敢さで自ら富貴の身となったのである。土地はすべて新たに得た物であり、家来もすべて烏合の衆である。領地の大きさが宇喜多秀家や小早川金吾秀秋ほどあり、勇敢さが清正や長岡[越中守細川忠興]のようであっても、主将が戦いに敗れて自決すれば、その家来は、あるいはちりじりになり、あるいは降伏する、と言う。
「賊中聞見録」p.176
(注1)生田:池田輝政
(注2)崛尾:堀尾吉晴
(注3)崛里:堀秀政 ただし姜沆が日本に来たころにはとっくに故人。

実は「葉隠」じゃない戦国時代の日本の武士
これらの話、姜沆が実際に見たわけではなく上方僧侶の話の聞き売りだと思うんですが、由来の古い大名の家来は忠義心が強く、秀吉子飼いの大名は結構ドライというのは興味深い内容です。…まあ、姜沆分類による「由来の古い大名」の中に実は「秀吉子飼い」が混じっているように見えるんですが(^^;)
私は倭京に連れて来られてからと言うもの、倭国の内情を知ろうと思って、時々倭僧と接した。その中には文字(注1)を知り、物の理も知っている者がなくもなかった。
医師で、意安・理安(注2)という者がいて、しばしばやってきては琅とう(注3)中で私と会った。
また、妙寿院の僧・舜首座(注4)なる者がいる。京極黄門[藤原]定家の孫で、但馬守赤松左兵衛広通の師である。[彼は、]大変聡明で、古文をよく解し、書についても通じていない物がない。性格も剛峭で、倭では受け入れられるところがない。内府家康が、その才賢を聞き、家を倭京に築いて、年に米2000石を給した。舜首座は、その家を捨てて住まわず、扶持も辞退して受けず、ただ若州少将[木下]勝俊、[赤松]左兵衛広通と交友した。
<広通は、その国の桓武天皇の9世の孫である。六経に非常に打ち込み、風雨の日も、馬上でも、本を手から話したことがなかったが、その性質が鈍魯で、かな訳がなければ一行も読めなかった、と言う事である。>
「賊中聞見録」p.181
(注1)文字:いわゆる「漢文」もっと詳しく言うと「漢文をネイティブ中国人並みに使える」ことが「文字を知っている」事になる。ひらがな・ハングルは姜沆的には文字じゃない別の物体らしい。
(注2)意安・理安:意安は吉田宗恂(1558~1610年)、理安は宗恂の弟子という以外は未詳
(注3)とう:「王」偏に「當」。「琅とう」は牢屋のこと。実際は軟禁状態で、時々外を出歩いたりアルバイトもしたりしていた。
(注4)舜首座(しゅんしゅそ):ご存じ藤原惺窩。この当時はまだ相国寺妙寿院の禅僧で、舜首座の役を務めておりこのように呼ばれたようだ。
また(舜首座は)次のようにも言った。
「日本の将官は、すべてこれ盗賊であるが、ただ、[赤松]広通だけは、人間らしい心を持っています。日本にはもともと喪礼がありませんが、広通のみは三年の喪を行い、唐の制度や朝鮮の礼を厚く好み、衣服や飲食などの些細なところまで、必ず唐と朝鮮に見習おうとしています。日本にいるのではありますが、日本人ではない[と思えるほどな]のです」
[そして、]とうとう私のことを広通に話した。広通は、時々私の元へやってきて話を交わしたが、自分は[加藤]清正や[藤堂]佐渡[守高虎]らと仲違いをしているので、[互いに知りあっていることを]決して佐渡の家に知られてはいけないのだ、と言う事であった。
又、ある時は、わが国の士分の俘虜や私の兄弟に、六経の大文を書いて欲しいと頼み、[その対価として]密かに銀銭で私たちの覊旅の費用を補い、帰国時の準備にあててくれた。
<また、ある時、わが国の『五例儀書』と『郡学釈業儀目』を入手し、但馬の寺領に孔子廟を[自ら監]督[して設]立した。また、わが国の祭服、祭冠を[まねて]制定し、しばしばその家臣を率いて祭儀を習ったりした。>
「賊中聞見録」p.182-183
赤松広通と言ってもかなりの戦国マニアじゃないとピンと来ない人が多いかと思いますが、あの天空の城竹田城の最後の城主といったら通じるかな。7,8年前に偶然に墓参りしたことがあります。台風23号で近隣の山が土砂崩れした2年後ぐらいのことで、広通の墓以外更地になっていたのが印象的でした。上の竹田城はその時は無事だったんですが、10年後突如の天空の城ブームで人災により石垣が崩壊(苦笑)
赤松広通が加藤清正、藤堂高虎と仲が悪かったというのは「看羊録」ぐらいにしか記述がなかったかも。広通が関ヶ原の合戦で西軍に付いてしまった理由の一つかも知れないです。
赤松広通が好意的評価されてるのは儒学に熱心というばかりではなく、藤原惺窩の友人と言うことや帰国援助をしてもらったことで評価がアップしている可能性が高いかと思います。藤原惺窩が赤松広通と親しかったのは、藤原惺窩の親の領地との関連でしょうかね。藤原惺窩の父親の領地とその悲劇的な死については渡辺大門氏の『逃げる公家、媚びる公家―戦国時代の貧しい貴族たち』に詳しいです。
なお、引用で省略した辺りにあの有名な「藤原惺窩の売国発言?」があるんですが、ネットで見た限りじゃ実際の文を紹介した物がない様なんで、ついでに書いてみる。
舜首座が、かつて次のようなことを言った。
「日本の民衆の憔悴が、今ほどひどい時代はいまだありませんでした。朝鮮がもし、唐兵と共に[日本を]吊民伐罪しようとするならば、まず降伏した倭と通訳にかな書きの布告文を掲げさせ、民衆を水火の苦しみから救おうとしているのだという意思を詳しく知らしめ、軍隊が通過する地域にいささかの被害も与えなければ、白河の関まででも十分行くことができましょう。倭人が朝鮮の人や物を殺略したように、もし[朝鮮が]ここ[日本]で同じ行為をするならば、対馬ですら通過できますまい」
「賊中聞見録」p.182
最後はこれ。儒学者には日本のサブカル…というか「いい仕事してますね~」は理解できなかったらしいヾ(^^;)
倭[の風]俗では、あらゆる事柄や技術について、必ずある人を表立てて天下一とします。ひとたび天下一の手を経れば、[それが]甚だしく粗悪で、甚だしくつまらない物であっても必ず沢山の金銀でこれを高く買い入れ
(中略)
木を縛り、壁を塗り、屋根を葺くなどと言う、つまらない技にさえみな天下一があり(中略)
堀田織部なる者がいて、ことごとに天下一を称しております。花や竹を植え付けたり、茶室をしつらえたりすれば、必ず黄金百錠を支払って[彼に]一度鑑定を求めます。炭を盛る破れ瓢、水汲み用の木桶でも、もし織部が誉めたとなれば、もうその値は論じるところではありません。
[このような]習俗がすでに成立してしまっているので、識者が時にはあざ笑ってみても、禁止することはできなくなっています。織部の家の富は、[それ故]家康[の富]になぞらえられるほどです。
「詣承政院啓辞」p.217
堀田織部=古田”へうげもの”織部
鑑定業でかなり荒稼ぎしていたみたいですね。あやかりたい人は多いかも(でもへうげものは最期が悲惨)



「看羊録」の入力もかなり疲れてきたのですがヾ(--;)
関ヶ原合戦直前の情勢についての内容がなかなか興味深いので、もう1回だけ続きます。

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