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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前の話はこちら 



今回は前回、前々回の範疇に入れないこぼれ話を紹介。一応タイトルは「江戸後期世相」としてますが、実は『三川雑記』自体世相話の固まりなんで、こういうタイトルにすると、全文紹介しなければいけないことになるのだが…ご勘弁を(^^;)

では
※ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリック

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・日本の儒学者は中国を尊んで日本をそしることがある。これは他の国ではないことである。みんな自分の国を尊ぶはずである(p.35)
・朝鮮の書籍は多く幕府の書庫にあるが、人の言うところでは対した物はないという。これから類推するに(朝鮮には)伝えられるべき英才は少ないと言う事だろう(この話はサクラ井から聞いた)(p.54)
→江戸時代後期~幕末の儒学者の思想傾向がかいま見られる興味深い話。

・下総はブスの名産地である。美人は真にまれである(p.80)
→ブスの名産地は茨城ではなく千葉県説ヾ(^^;)

・(竹内)式部という軍学師がいたが、西山節斎や久米○次郎と交流していた。その後、式部は公家に取り入って軍学を講義したので、幕府の疑いがかかって捕らえられてしまった。日ごろからの友人と言うことで久米が呼び出されて尋問されたところ、「あの男は常に心得のない人と思って3年前から縁を切ってます」と言った(これは嘘で、その数日前まで会っていたのだが、一時しのぎでこんな事を言って免れたのだという)。それから西山にお尋ねがあったところ「あの男は間違った心を持たないと思い、昨日まで深く交流してましたが、こんな事になってしまいました。私は決してあの男は異心を持ってないと思います。」と言った。その時奉行には大いに感じる物があったという。さてそれから式部の尋問が始まったが、弁舌鋭く全く罪に値する物が見つからなかった。それ故仕方なく「京都に式部が住むことはできない、なぜなら子どもの時に芸妓を相手に騒動を起こしたことがある」とか申し立て、「これは学者にあるまじき振る舞いである」とし、京都から追放処分となった。その後山県大貳の所で往復書簡が見つかり、申し訳できなくなって処刑されたという。その後、西山は評判が良くなり、久米はそれまで西山より門人が多かったのに段々衰えてしまった。それを気に止んで病死したという。(p.87)
→竹内式部と島津家の関わり?についてはこちら

・茶の湯は贅沢癖が付き民衆の苦しみになるので、茶の師匠の子孫はみんな亡くなるか衰亡する物である。加賀藩の藩祖より3代茶の名人が続き、茶を以て仕えていた者が多かった。みんな子孫は亡くなるか或いは衰えて栄えることがなかった。その中に多賀与一右衛門という者がいて茶の家なのに5000石取りで今も栄えている。これを問いただしてみると、その先祖に”おおあん”と言う武勇のある者がいて5000石で抱えられて大坂の陣で旗奉行を務めた。召し抱えられて日が経たないうちに真田丸に加賀藩と越前藩の兵が向かったとき、追い立てられて大敗北した。その時多賀は旗持ちの兵に旗を持たせて後に立って少しでも引いたら手打ちにするぞと側にいた。両国の兵がみんな退いた後の塀際に加賀の旗がひらめいていたので使番を使わして聞いてみたら然々の理由を述べたので、また加賀藩の兵が押し寄せて、その旗の勢いに乗って真田丸を乗っ取った。全くこれは多賀の功績であるとして恩賞があった。この多賀が茶の名人だったので代々仕えたという。宗和流だったので倹約を本義とした。言うところでは元々茶というのは足利義政公の奢りを防ぐために作った物なのに、豊臣氏から豪奢になってしまった。本義と異なっている。されば、釜を掛けるときの造作もなくし、器もざっとした物を使うようにした。茶碗も加賀国の近所で焼いて一個100文ぐらいの物である。炉を切るのが難しい家は縁側の下にあるすり鉢の欠けた物を拾ってきてそれに壁を塗って炉にしたら宜しいと言う事である。真に清廉で物いりじゃないことである(p。98)
→贅沢を嫌う儒学者らしく、茶道に対しても辛口な三川。ですが、骨董集めとかしないでお茶立ててるだけならOKだったようだ。でも加賀国の近所で焼いた焼き物っていったらたぶん九谷焼ですよね、これすごく高いんですけど(^^;)

・犬肉を食べるのにはコツがある、皮より一重内に白い筋がある、これをよく取り去れ。誤ってこれを食べたら死ぬとか(この話は中島から聞いた)(p.137)
→ホントかいな?しかし獣肉を食べないと言われていた江戸時代だが、結構食べられていたみたいなことを伺わせるエピソード。この中島という人は他にスッポンの正しい食べ方なども三川に話しています。なお、『三川雑記』の最後の方は怪しげ?な食事療法の列記になってますので、興味のある方はどうぞ。

・近来カムサスカにて船を200艘造っている。これは日本を占領するためだろう。一つの船には400人乗れるので合計80000人来るだろう(この話は松崎から聞いた)(p.176)
・近来ロシアのことがよく日本に知られてきたのでどこからばれるのだろうと向こうでも調べた所、ロンドンから来たオランダ船が報告したことを知り、ロンドンとカムサスカと人を入れ替えたらしい(この話は牧ノから聞いた)(p.176)
・ロシアは中国へ少しずつ貢ぎ物を送って騙しているそうだ。これは西北の方へ手を延ばすためだ。今中国と争えば損なので、四方を取ってから後、中国に手を着けようという計画だろう(p.177)
→カムサスカはカムチャッカ半島のことだろうか。松前藩に採用されたこともある三川、ロシア情報は当然敏感です。ちなみにこれらの話が書かれたのは天保7年。

・黄檗宗は代々中国出身の僧侶を迎えることになっていたのだが、今も幕府に願い出て許可はもらっているが、中国人は誰も彼も外国の行事は嫌だと言って来ない。これなので今時の中国本土での仏教は衰え人材無いことは分かろう物である。実は日本へ来るほどの技量のある者がいないんだろう。よって船で来た人が言うところでは「3000金をくれたら来るだろうよ」その理由を問うと「その金で人を修行させて(僧に)仕立てて連れてくればいいだろ」とか。妙な計画で笑ってしまった。(この話は松崎から聞いた)(p.207)
→三川は儒学者ですが、黄檗宗には興味があり、また好意的でもあるように見える。他にはこんな話も紹介している

・宇治の黄檗宗は禄高はないが立派に暮らしている。俗人を良く教化している。その中に塩を納める者がいるが妙な話を聞いた。魚肉はないが漬け物で人を喜ばせるという。大根を付ける方法に
 瓶を土の中に八分目まで埋めて瓶の穴だけの蓋を作って、その上に重しを置く。入り用の時は一本ずつ取りだし、後は蓋を堅く閉めておく。決して人の手を入れることを許さないが、(それは)味が変わりやすくなり、人の手に熱があるからである。(p.451)
・宇治の黄檗山は禄はないが壮健に暮らし経済に気を使っている。寺の法があり、住職となっても当番があって御飯当番も回ってくる。僧はみんな田畑仕事をして今の寺のやりくりを助けているのである(p.456)
・黄檗山には禄がない。ただ境内が9町あり、その中で田畑を耕し、寺中の人の食事を賄っている。僧もことごとく田畑仕事をするよう決められている(p.471)

この一方で、浄土真宗(一向宗)には否定的な様子。
・丹波五郎左衛門という人がいたが、蓮如はこの人に殺されかけた。今二本松藩に一向宗の家は一軒もない。(p.465)
→丹波五郎左衛門=丹羽長秀 三川の単純表記ミスかと。丹羽長秀と蓮如は時代が異なるので斬るのは不可能だったと思うのだが
・一向宗は大害があることを察するべきである。彼らもまた(自宗を妨害するのは)儒学であると心掛けており、儒学を学んで勧誘しようとしている。故に、最近門主より命令があって心学を最も勉強しなさいと言う話があまねく宗派の僧侶全体に諭されているとか(p.468)

ここで興味深い寺談義を紹介
・長州藩では寺をつぶして石仏、仏像は流してしまった。民衆は「なんて勿体ないことである」として願って辞めさせようとした。が、役人が「それほど霊力のある物ならば泳いでいってどこかで陸に揚がるだろう。が今見る限りではそのまま沈みそうだ。このくらいのものがどうして利益がある物だろうか」と諭したという(この話は柴山から聞いた)
→この話が書かれたのは弘化4年。既に廃仏毀釈の前哨戦は長州藩で始まっていた。鹿児島が本場だと思ってたのにヾ(--;)

・大塩より三井、鴻池などに勧めて「飢えた民衆を救ってくれ」と言ったところ、(彼らは)小役人に賄賂を送って町奉行に告げ口し、大いに大塩に恥を掻かせた。このせいで大乱が起こったのである。鹿島屋は本を読むほどの教養があったので大塩の言うことに従ってかなりの大金を寄付したのだろう、それ故とばっちりを免れたのだ(p.244)
→鹿島屋=加島屋のことか。もしそうだとしたら、NHKの朝ドラ「あさがきた」の婚家先のご先祖という事になります。
大塩平八郎の乱には三川も大きな関心を寄せ、いろんな話を残しています。「大塩は乱の前に飛脚を江戸に送ったが、大坂城代が乱を知らせる注進と出くわしてしまい、韮山の代官に差し止められてしまった。送った手紙の宛先は一つは水戸宰相様、一つは大久保加賀守様・脇坂中務大輔様となっており、もうひとつが林大学頭様とあった」(p.244)「水戸候は大塩平八郎に6万両の米を貸してた」(p.246)など。ただ三川自体は「大塩の反乱はごまめの歯ぎしりみたいな物」と言ってます。

・上野の法親王が京都に上洛し、鷹司殿と道で行き違ったところ、法親王は「鷹司関白は下乗せよ」と命じたが下乗しなかった。また声を掛けたところ、鷹司は「あずまの墓守が下乗せよ」と呼んで通り過ぎたという。上方では上の寛永寺を「墓守」と卑しんでいると言うことだ(この話は渡辺太から聞いた)
→江戸時代は五摂家>>>(越えられない壁)>>>宮家だったらしいのだが、そのことが伺えるエピソード。現代人から見たらちょっと驚き。

・夫人に椎茸は良くない、血を荒らす。産後は決して食べてはいけない。鮭も一緒。(p.285)
→ほんとかいな?

・奥羽の人とつき合うとすべて安心である。気の張ることがない。上方より西国の人は行き届きすぎて人の家にいっても気が張って落ち着かない心地がする。たまたま西国へ帰ってみたら真に落ちつかないように思われる(この話は井口から聞いた)(p.366)
→江戸時代地域性話 今も県別比較番組があるが、江戸時代も地域比較をする傾向はあったようだ。

・当今の天皇は17歳である。背丈は高く大男である。景行天皇の冠は今までの天皇ではかぶることができないほど大きかったのだが、当代の天皇はそれで間に合ったらしい(この話は柴山から聞いた)(p.392)
→当今の天皇=孝明天皇 孝明天皇が即位式でかぶった王冠は現存しているのだが(『礼服』など)、景行天皇の時まで遡らないみたいなんだが(^^;)
この他にも孝明天皇の話は「今の天皇は鋭気があって寒中水泳していて周りの公家は困っており、後からその公家がその池に浸かったら唇の色が変わるほど冷たかった」(p.392)「仁孝天皇の躾は厳しくて昼7時までは近臣と剣術、7時からは読書、その後は文学から古今東西の話をし、夜8,9時まで到るのに、服は全然崩れてない」(p.393)などの話が記されています。実は昔、ある幕末ネタHPで孝明天皇=北斗の拳キャラ に例えていたところがあって、不敬ながらも爆笑してしまったんですが、あながち冗談でもないかも。むしろ一見弱そうに思われる孝明天皇の方が筋肉隆々男子で、その気に入りだった武家の松平容保のほうが弱かったのかも…(マジで)

・アメリカ合衆国は一和して6年目に王を代え互いに位に就く。各々申し合わせて戦争になることはない。故に日本はややもすれば戦争になるので甚だ治めがたい国であるという。アメリカの政治を学ぶべきであるという。あるアメリカ人が日本に上陸しほしいままに言語に絶することをした。人の家に土足で入るわ、箪笥などを開けてあら探しするわ…(p.416)
→三川が見たアメリカ事情。「プレジデント」という概念は理解できなかった様だ(^^;)でも何故か後半の文でアメリカ人水夫?のご乱行を書いてる。アメリカ話をもう一題
・アメリカ合衆国では穀物が取れない。蝦夷に等しい場所である。故に貿易を専らにしている(p.468)
→…三川はガセネタをつかまされたようです。しかたないかも。だってこの頃のアメリカはイギリスはもちろんロシアにも及ばないニワカなんで(ヲイ)



取りあえず目に止まった話、以上で完結。
と言うか他にも面白い話がいっぱいあったような気がするのだが、きりがないんで…f(^_^;)

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