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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の話はこちら



『三川雑記』の著者・山田三川は元々は津藩の町医者の息子だったのが、儒学者となって松前藩に採用されます。
そのため他藩、特にお隣さんというべき東北諸藩と、密貿易仲間ヾ(--;)の九州諸藩の動向には大変興味があったようで、その辺に関するいろんな噂話?の類が面白いです。
いくつか目に付いた物をご紹介します。
前回同様に意訳なので、更に興味のある方は図書館で借りて読まれることをオススメします。
ではさっそく

※「つづきはこちら」をくりっく



拍手[1回]



・今の南部の殿様の先代の行状は悪くて、城下で芝居みたいなものをやっていて、それを見に行ったときたまたまある女性が子連れで見物していたのが目に止まって、奪って妾にしたんだそうな。油屋の何とかという者の妻だったらしい。それにできた子が当代の南部の殿様である。さればその妾は当代の母上になるので、領民はみんな「油御前」と言っているらしい。(p.13)
→南部の殿様の先代=南部利謹。当代の南部の殿様=南部利済。南部藩に関する悪口はこの後も頻出(爆)この「油御前」の話は何回出てくるか分からないくらい書かれてます(^^;)

・今の南部の殿様は油御前の子どもである。坊主になっていたのだが、世子が亡くなったので世に出ることができた。僧の時、味噌をすっていた女に手を付けてたのだがそれが今の妾である。この女を「味噌すり御前」という。女の言うことをいちいち聞いて藩政を左右するので、賄賂が横行しているとか(p.176)
・仙台藩が南部藩から逃げ込んだ領民を追い返したのだが、戻ったところで斬首されるのでまた一揆が起こって、今度は8000人もの人が仙台藩へ逃げた。津軽や佐竹領にも逃げた人が多いらしい。仙台藩では「大名どおしの約束を破られた!」と怒って幕府へ訴えようとしたが、南部が平謝りしたので取りやめになったとか。今後またこのようなことがあったら絶対訴える!と、仙台での噂である(p.231)
・大藩の政治で悪いところを挙げると、仙台藩、安芸藩、筑前藩である。南部?歯牙にもかかんないね(と江口が言ってた)(p.324)
…他にもいっぱいあるがそれ書いてたらきりないのでこの辺で切り上げヾ(--;)

・今の津軽の殿様はバカ殿である。藩士が初めて江戸ヘお供するとき、戸沢藩との境に岩があったので休憩するのだが、そこに大きな松があった。その松をたいていお坊主辺りまでの人々がアソコの首へ綱をつけ馬の手綱のようにして松の根を三度ぐらいぐるぐる回るらしい。それ故初めての江戸上りを人々は嫌がるらしい。戸沢藩の領民も人足に出るのをみんな嫌がる。(p.31)
→下ネタなので一部は胡麻化して書きました。ごめんなさい(^^;)今の津軽の殿様=津軽信順。確かにこりゃバカ殿だわな。
なおこの前に「会津の士の話では、国元で一人の旅人らしい人が力なくふらふらと歩いてきたのを見たら津軽藩の人だった、国に一粒の米もないので、江戸ヘでも行ったらどうにかなるかと思いやってきたのだと言った」という悲しいエピソードが紹介されています(ちなみにこの文が書かれたのは天保4年)

・米沢の殿様は国が飢えているのを心配し朝ご飯は一度は控えていたという。5,6年も凶作が続き、庶民が騒がしくなって、今年は打つ手がなくなってしまった。しかるに殿様はこのような様子を聞いて「国民が安心して死ぬのならば、上下共に同じ事をするまでよ」とかえって穏やかになったという。毎朝ご先祖様に民衆の苦しみが亡くなるよう祈る毎日だそうな(p.15)
→南部+津軽に対してべた褒めされているのが、米沢の殿様こと上杉家。これが書かれた(天保初期)の藩主は上杉斉定かと。

・立花宗茂は加藤清正よりはやく侍従となった。日ごろから仲が良かったが、ある時宮中に行ったとき、宗茂は縁側へ上がることができたが、清正はお白洲に座らされた。酷暑の日だったので気の毒に思い、清正に「加藤殿には暑い日に大変ですね」と挨拶したところ、清正はカチンと来たのか「いや肥後国の25万石を傘にしているので全く暑くありませんな」と返事した。これは宗茂領が10万石だったのに対し、清正は肥後半国をもらっていたので位階は低かったが収入は多かったためである。清正は負けん気の強い人である。(p.39)
→立花宗茂と加藤清正の、「いかにも」なエピソード。

・今度細川家から仙台藩へ「米が入り用ならばいくらでも仰せつけ下さい」と言ったそうだ。それ故、細川の藩邸では粥を食べているそうだ。これは殿中で切られたときに仙台藩が助けてくれたのでその恩返しのためらしい。(p.39)
→有名な人違い刃傷事件のその後談。ただ、これに関しては近年単なる人間違いではなく、実際にトラブルがあった疑いが指摘されている

・今の川中島藩主は老中になることを希望しているらしい。そのため賄賂を多く行っている。しかるに家老が言うには「家にこれまで無い事なので、と拒んだのだが、殿様は言うことを聞かずに使ってる」とぼやいている(p.50)
→川中島藩=松代藩、この頃の藩主は真田幸貫。一般的には名君として知られているようなんですが、儒学者から見たら駄目藩主だったようです。佐久間象山とか洋学系の人を重視したのが気に触ったのかも。
なおこの後に「今年は飢饉で川中島藩の支配は難しく、民衆が騒いでいる。松本藩も動揺しているという」(p.50)と書かれています。天保の飢饉の惨状はこの他にも抜粋するのが大変なほど沢山書かれています。

・鍋島の殿様が朝鮮より帰ってきて言うには、「朝鮮ほど戦のしやすいところはなかった」。諸将に話したところでは「いずれも日本でやった戦とは大違い、(向こうの兵は)脆い」と言った。(この話は小柳から聞いた)(p.69)
→鍋島の殿様=言うまでもないがあの鍋島直茂のことである。直茂曰く朝鮮はチョロかったらしいですヾ(--;)ちなみに朝鮮出兵で一番人を斬ったのは意外にも加藤清正でもなく島津でもなくこの鍋島みたいです。ここ大事なところだからな!テストに出るぞ!ヾ(^^;)

・今の備前の殿様は賢いと評判である。初めてのお国入りで藩中の士を集め、それぞれに芸能を何によらず、その人々の技を試してみようと、めいめい御前で実践させた。その中に文武に励む者はそれぞれ褒美を与えたが、即時に放逐処分になった士も50人いた。その中には三味線が上手な者がいたが、ここで上手なところを見せないと!と殿様の前で演奏した。なるほど名人であり、日ごろ心がけが良くないとできない物だと言われたが、しかしこちらでは用がない芸なので、入り用の所で奉公した方がそなたの身のためだろうと首にされたのだという。その他茶の湯や生け花が上手だが文武に嗜みのない物はみんな首になった。その中で絵の上手な士がいたが、殿様曰く「時期によれば絵図を書かせたり役に立ったんだろうが、今はそういう用もない、しかしいずれそういう時も来るかも知れない」ので減給はしたが首にはならなかったそうだ。(p.139)
→今の備前の殿様=池田斉敏(島津斉彬同母弟)か。但し前回紹介したように、三川は岡山藩池田家を「岡山候(岡山の殿様)」と書いているので疑問も残る。

・黒田如水は関ヶ原がいつまでも終わらないだろうと見て、九州で加藤清正と和睦し、島津や大友や立花の留守を打って九州残らず手に入れるつもりだったが、思いの外関ヶ原が早く終わってしまったので、にわかに戦いを辞めて何も知らない顔をしていたという。ずるい人である。(この話は江東東から聞いた)(p.142)
→「ずるい人」(爆)

・対馬は太閤の時、朝鮮との往来が止まってしまい、立ちゆかなくなってしまった。しかるに、関ヶ原の合戦後、勝利の御礼に家康の所へ御祝いに参上したところ、家康は、この乱の後に朝鮮より復讐しようとやってきたら大変と考えており、対馬に命じて和睦交渉するよう命じた。対馬の殿様は大いに喜んで帰り、家老を使わしたところ、明の兵がまだ朝鮮にいて日本人と見るや有無を言わさず捕らえて、その行方は知ることも出来ない状態だった。されば、また家老を使わしたが、結果は一緒だった。三度目は自ら行った。今度は人数も多く必死の勢いだったので手を下されず、家康公の心中を言って遂に和睦に到ったのである。(p.143)
→宗義智が和平交渉のために自ら朝鮮半島に渡ったことになってる(爆)かなりデマが混じっているような(苦笑)
・対馬は始め家康公からお尋ねがあったとき「私貿易で40万両利益があります」と答えたので、「それならひとかどの役も務められるよね」と言って、国主の仲間に入れた。今はそれが無くなってしまい、嘆いているそうだ。その実朝鮮は貧乏な国で産物もなく、故に40万両も対馬に利益は得られなかったのである。家康への話は嘘だったのだろう。(この話は花亭から聞いた)(p.184)
→これまた対馬藩話。朝鮮との貿易で利益が上がらなくなったのは江戸中期辺りからなので、家康のころには言上通りまだかなり儲けていたはず。

・今の鍋島の殿様は賢い。何か大変なことがあっても凛々しい。他の殿様は難儀なことがあっても困難を恐れ、災難が過ぎれば忘れてしまう。鍋島の殿様は違う。いつまでも困難を忘れず、慎ましい。古賀大がそういってた。(というはなしを江尻から聞いた)(p.189)
→この話は又聞きなんだが、三川は鍋島直正(閑叟)を高評価していたようで、この後も頻出します。「今の鍋島公は将軍の覚えも目出度く気に入りである。元々は鍋島に嫁いだ娘(※徳川家斉18女・盛姫)が気に入りだったのだが、その結果婿の鍋島も気に入りになった」(p.227)「鍋島候は英才である。去年(※弘化2年)にイギリスの船が長崎に来たときに船に乗り込み近習を40人だけ連れて行き、乗った後にイギリス人に模擬戦をさせて、それを床几に座ってみていた。その様子は名将であるとイギリス人も感心していた」(p.325)「肥前藩はいまの殿様になってから久留米藩との境界争いが無くなった。それまでは毎年やってた」(p.381)とか

・今の仙台の殿様も賢い。人を採用するときも抜き打ちで選ぶ。またどんな意見も貴賤を選ばず言えと命じている。もし意見が良ければ選んで用いている。
 ただ残念なのは増田とか言う家来が闇斎学の門弟で、今の時流に合ってない。大坂の借財先を倒してしまったんだが、そのために今年天災にあっても金が無く、どうしようもなくなってしまった。藩士はみんな怨んで増田の屋敷の門にかすがいなど打って八つ当たりしているらしい。(p.189)
→この文は天保7年に書かれた物なので、この時の仙台藩主は伊達斉邦か。そしてなにげにボロクソに言われている山崎闇斎(^^;)三川は儒学者ですが同じ儒学者でも闇斎は評価してなかったようですね。ちなみに今田新太郎の父は知ってる人は知ってた闇斎研究者で、その流れであの平泉澄が今田を高評価していた形跡がある。もうひとつちなみに言うと、現在闇斎研究の第一人者である某金沢工業大教授は平泉の弟子…(○。○)

・長州藩の御守殿の費用は3000金/日だそうな。今さら言うことでもないかも知れないが、その奢りぶりは押して知るべきである。亡くなられたときは上下共に大喜びだったとか。(p.193)
→長州藩の御守殿=徳川家斉19女・和姫。将軍家の娘を押しつけられるというのがどれほどの災難だったかを知るエピソード。御守殿ネタは他にもあって「安芸藩は富国だったが、御守殿(家斉24女・末姫、後述の溶姫の同母妹)を御迎えさせられてから赤貧である」(p.34)「御守殿はお迎えしても5,6年の間は"真の妻"とできない。嫡子でも産まれてから追々と真の妻としてのお取り扱いができるのである。それまでは幕府からお付きの役人が附いてきて(嫁ぎ先の)自由にできないようになっている」(p.394)「安芸の殿様に嫁いだ御守殿は日本一のお多福で不細工なこと甚だしい。そのため化粧代が5両/日いるとか。今は病気になられたので同衾できなくなり別に妾を抱えているらしい」(p.464)等ろくな話がないです。が、それをうまく利用しようとした人もいたようで「安芸の御守殿が身ごもったので赤穂の分家を再興したいとお願いしたところ男の子を産んだとか。ついでに上杉家が浅野家の親戚になるので、吉良も再興してよとお願いしたらしい」(p.421)というちゃっかりしたお話も(但し実際に末姫が産んだのは女子だったのでまたまた三川はガセネタをつかんだ可能性有り(^^;))。
・加賀藩の今の世子は将軍の孫である。江戸城に登城されたときには従者にはそれぞれ御馳走があって、家老の横山には4尺4方斗のお膳にこれまで食べたこともないような物ばかりが数々盛りつけられてたとか。徒士の者には一人辺り1両手当て、近習には2両2歩の手当て、物頭には5両の手当てとか。ここから推測するに家老は10両以上の手当てだろう。その時は夜だったので世子を抱いて大奥へ行ったが、奥女中は1000人もいたとか。その女中がみんな手燭を持っていたが、それがみんな金製か銀製だったという。もちろん供の者は(男だったので)側には行けなかったが、御錠口のところまでは行けたのでそこから眺めることができたが、全く驚くような光景だったとか(この話は西坂から聞いた)。(p.217)
→この時の加賀藩の跡継ぎが後の前田慶寧。母は徳川家斉の娘の溶姫(母は側室・お美代の方)。前回ちょっと出て来た「将軍乗っ取り事件」に巻き込まれた方です。

・長州藩の先代は毒殺された。世子も毒を盛られ病気になっていたが家督を仰せつけられた。去年の冬死んだ。先代の隠し子が国元にいたのでこれを立てようかと諸臣が評議しているらしい。
 沙村のご隠居も去年の冬死んだとか。察するに老臣が毒を盛って殺したのだろう。吉川の殿様も去年の冬にわかに亡くなった。これも毒殺じゃないか。(p.227)
→これは余り知られてない物騒な話。長州藩の先代→毛利斉元(天保7年9/8死去)その世子→毛利斉広(天保7年12/29死去)沙村のご隠居→毛利斉熙(天保7年5/14死去)か?吉川の殿様→吉川経礼(天保7年11/26死去)
物騒な話をもうひとつ。
・仙台藩に徳川家斉公の11女を嫁にやろうと家老を呼んだ。閣老が列をなして座り申し渡したので断ることもできなかった。そこで後藤孫兵衛と石茂田豊前という家臣が「当年竹千代(※「政千代」の誤り)は11歳で、今後どうなるか分からないので成長したときに改めて話を受けましょう」と申し上げた。(中略)さて(※政千代が)18歳(実は16歳)になったときにいよいよ結婚させようと老中達が命じ、幕府から工事役人が来て(御守殿を)工事しようといろいろと難癖を付けたところ「これは仙台藩の家風に合いません」と縁談を断ってしまったという。老中は仰天してしまい、家斉公に言上するのも辞めてしまった。その時、阿波藩は仙台藩と仲が良かったので、阿波藩主の薦めで紀州藩主の娘を迎えることとなった。程なく仙台の殿様は死に、この娘は未亡人となり、田村の分家から新しく殿様を迎えた。ところがこの未亡人が妊娠していたことが分かり、国老は評議の上「殿様の身の上は仕方がない、奥方はそのままにすることにしよう」と松前和泉が言ったが、大井田監物が承知せずに殿様を刺し、夫人は自殺に追い込んだという(p.424)
→徳川家斉公の11女=浅姫(この後越前藩の松平斉承と結婚)、紀州藩主の娘=徳川治宝の娘・鍇姫、田村の分家から来た殿様=伊達斉義。ただこの話は伊達周宗、斉宗、斉義を混同しているように思われる。

・遠山左衛門という人がいるがこの人は賢人である。勘定奉行に任じられたが、その時の政治動向と反対の立場だったので引退した。今は琵琶の演奏とか趣味の世界で楽しんでいるらしい(p.231)
→これが書かれた天保8年時点で、桜吹雪の金さんヾ(^^;)は勘定奉行ではなく作事奉行。しかし当時でも「遠山の金さん」はかなり人気者だったことが伺えるエピソード。遠山ネタはこの後も登場↓
・遠山左衛門尉は父が存命のころ、放蕩者で、品川でケンカし銚子を店の若い者に投げてケガをさせてしまった。「これは父の役目にも関わる」と言って、牢屋に入ったのだが、兄が死んだので出獄し、良い人となって勘定奉行から町奉行にまで任じられた。才略があって決断力も良い。父の仕事に従って蝦夷まで同行したこともあるそうだ(p.295)

・竹中半兵衛の肖像は誠に優しく男丈夫には見えない(と渡部太が言ってた)(p.256)
→その肖像画は恐らくこれかと。確かに岩みたいな顔ではないけど、一般的に言われている「夫人」という評価もどうかなあ。うーむ。

・板倉氏が2代京都所司代を務めた後任が○○氏(※実際の文でも欠字)なのだが、江戸に帰って登城したときに将軍は「長々と大儀であった」と挨拶し、また「何か変なことはなかったか」というと「何もありませんでした」と答えた。が、一つだけおかしいことがあったので、これを問いただしたところ何も答えない。しつこく問いただすと「御前では言いにくいことですが強いてというので申し上げます。在職中京都の様子を見れば、大変哀れなお暮らしで、しかるに関東を見ると盛んなのに、余りに情けないお取り扱いなので、老中が送った書状を廃棄することもしばしばありました。余りにもひどいので幕府に反逆しようかとまで度々考えたのですが、"自分は譜代なのだから"と思い止まりました。なのでこれからは、高禄の大名を京都所司代に任ずることは決してしないように」と答えた。それからは小禄の人ばかり京都所司代に多く任じられたという。(p.257)
→板倉が2代続いた後の京都所司代となると牧野親成のことか。ただ牧野も1万石で大身大名ではないんだわな。うーむ。なお、歴代の京都所司代一覧表はこちらです。

・先月に水戸候が江戸城西ノ丸に行って工事を見てきたが、サンゴの木が粉末にされて壁の腰側に塗られていた。これを見つけて老中に向かい「これは大御所様の考えでされたことか、それとも老中どもに相談があって、お前らは承知しておるのか」と問い正したので、「実は大御所の一存です」とも言い難く水野越前守は大いに当惑したという。その時に水戸候は「いずれにしてもこのような贅沢は、この時期諸大名から金をださせて貧困に苦しんでいるのに、全くの奢りであると申し上げて辞めさせるべきである。水戸がそういってたと言え!」とおっしゃった。そのまま大御所に言うと、大御所は「やめなさいといわれて、私も贅沢は好みじゃないんだけど、もはや余命もそんなに無いだろうから、綺麗なところで楽しんで死にたいんだよね」と言い、大いに不満顔だったという(p.258)
→家斉vs斉昭(爆) しかしサンゴの木を粉末にして壁土に混ぜるって…

・今の福山候は奥女中に取り入って老中になった。奥女中の受けも良く「程度の良い役人である」と誉めているそうである。これを見る限りじゃ大事業の出来る人じゃなさそうだ。(p.325)
→賢明な皆様なら分かると思うが、福山候=阿部正弘である。近年再評価が進んでいる人物かと思うのだが、同時代人の評価はかなり低かったみたい…。

・安芸藩と仙台藩が不和になったのは、朝鮮の役のころ浅野家は紀州にいたので、伊達政宗が頼んで仙台から朝鮮は遠路なので兵糧が続かないので、紀州から借りて仙台から紀州に直接返すように約束した。が、浅野は蔚山で敵に包囲されるなどのことがあって兵糧の手配が行き届かず、約束を破ってしまった。政宗は遠方にあってとても差し支えてしまった。それから仲が悪くなったのである。
 なお、徳川の家臣の何とか(今も旗本で500石取りである)が家康に申し上げて政宗に用立てたので、それからその家へ毎年200俵送る例となったそうである(この話は井口から聞いた)(p.331)
→浅野長政が当初伊達政宗の取り次ぎをしていたのだが、突如政宗の方からケンカして不仲になったのは有名な話だが、江戸後期にはこういう伝えられ方になっていたようだ。

・土佐国は八十八カ所回りと学問修行の学生の他は国内に入れない(この話は井口から聞いた)(p.364)
→鹿児島藩の「鎖国」体制は有名で、時代劇でも『薩摩飛脚』などのネタにされているが、土佐藩も似たような体制だったらしい。余り知られてない、かも?

・今の水戸候は15歳になられ、とても怜悧である。藩中のことを扱う者はみんな親子の間を引き裂こうと謀をした。ある時ある老人が御側勤めしていたのだが「ご先代様のやり方は真似なさらないように、ご先代様はこの程度で済まされましたが、二代も続いてこの様子だと藩は滅亡の時が来ましょう」と申し上げたところ、たちまち怒り、持っていた扇子で5,6回たたき、「なんて悪い言上である、私には親である、その親のことをこのように申すとは理がない!」と甚だしく怒り、畏れ入ってお詫び申し上げたが聞き入れられることなく7日間閉門になったとか(この話は柴山に聞いた)(p.380)
→今の水戸候=徳川慶篤 このことが書かれた弘化4年には斉昭は派手な行動が咎められて隠居させられてました(爆)。三川は先述のサンゴ壁事件なども含め、斉昭やこの慶篤など水戸藩については割と好意的に評価してます。一時期水戸藩領に避難していたことがあったのですが、それも背景にあるかも。

・中山大納言の正室は松浦家から来た人で、1年200両のお手当があるそうだ。それ故今は暮らしが楽だそうな。(中山家の領地は)200石と言うが実は180石しかない。ただ、また嫡子は40石の旧領があるのでよいそうだ(この話は柴山から聞いた)(p.395)
→この中山大納言と松浦家から来た正室の間に産まれた娘が、中山慶子、つまり明治天皇の実母なわけです。

・仙台藩は、朝鮮出兵の時には軍功のある家臣が4000人もお供した。文化年間、蝦夷地に行こうとしたとき願い出た家臣は14人だけ。上より出陣を申し付けられても「病気なので」と言って断った者が多かったので、「病気でも無理して出陣せよ」と命令されたのでみんな出て来た。その中にはホントに病気で7,8人は南部領で亡くなった。(p.412)
→戦国時代は勇猛で知られた伊達家臣も、江戸時代も後半になったら(略)という話。

・松前藩の当代は「大きな幸せをつかんだ人だ」と下々では言ってる。部屋住みから城主にまでなった。12,3歳のころまでは顔も威厳・恰幅があったが、申年の時に謁見したところ貧相な顔相になっておられた。怪しいなあと思っていたが、松代藩の林殿といろいろと言うことで考えたが益々分からなくなった。しかし今日に至ってその理由が分かった。(p.417)
→松前藩の当代=松前崇広 なんと写真が残っており、事実かなり恰幅がある顔である。次も松前藩の話
・松前の先代は隠居の後は、つまらない輩を側仕えにさせられ、女も近づけず、酒も与えず、寺詣でを願っても許さず、乗馬も許さずという状況だったが、遂に拒食症となり臨終となったときには側にいた者もろくろく知らない者だったという。いたわしい最期であった。(p.433)
→松前の先代=松前昌広 実は山田三川はこの人にひどい目に遭わされている…
・松前の士風は軽薄で、倹約を守らず、梁川に15年も移住させられて困窮していたとき思わぬ帰国と決まり、急に福島に出て立派な衣装を誂えたとか。中古の小倉袴で暇乞いに来たのは細崎一人だけである。これを聞いたので忠告したのだが、懲りずに近年益々贅沢していたので、また国をとられたよ(p.488)
→松前藩からは石もて追われてしまったこともあるのか、かなり辛口評価の三川であった。ま、松前藩士がアイヌにしわ寄せしてあぐらかいていたのは事実のようですが…。

・佐竹の藩の家風は大国の雰囲気がある。藩士が他の藩士と交流することも何とも思わず、差別もない。また藩内もよく一つにまとまっている(p.446)
→三川が米沢藩(上杉家)と同じくらいに評価しているのが秋田藩(佐竹家)です。この辺が、前回紹介した鹿児島藩同様に秋田藩を警戒する姿勢に繋がっているかも知れない。これが書かれたときの秋田藩主は佐竹義厚佐竹義睦のどちらかじゃないかと ただ二人とも名君とは言われているようだが短命である。



他にも沢山面白い話がありましたが、重複するものもあるので割愛。
興味のある方は実際に借りて読んでみて下さい。
三川的にはともかく南部と津軽は最低みたいです(^^;)岩手と青森の人ごめん

この本の紹介あと1回続きます。
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