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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の話はこちら


タイトルに掲げた「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」は『徳川時代商業叢書』第一(国書刊行会)に所収されています。

「後藤庄三郎由緒書」は徳川幕府御用達の御金改役を代々勤めていた商人・後藤庄三郎家の歴史を書いた物です。歴代当主の説明が10代目庄三郎で終わっており、日付を「寛政十年六月」(1798年)としているところから、この頃に成立したと考えられます。ちなみに初代庄三郎は角倉了以、茶屋四郎次郎と並ぶ徳川家御用商人でした。
「呉服師由緒書」はやはり徳川幕府御用達の呉服屋、後藤縫殿允・後藤松林家(松林家は縫殿允家の分家)、茶屋四郎次郎家の3家の由緒書をまとめた物です。こちらは年記がないため成立時期ははっきりしませんが、記述内容で最も新しい物が徳川家光の話で「大猷院様」と法号で書かれているところから考えて、4代将軍家綱の頃が成立の下限と思われます。

なお「後藤庄三郎由緒書」は「視聴草」所収「後藤家由緒書」とほぼ内容は同じです。


「後藤庄三郎由緒書」では後藤庄三郎家の起源について
大膳大夫大江広元弟武蔵守大江親広後裔、美濃国加納城主長井藤左衛門利氏曾孫上意を以氏を改め後藤少輔三郎又少三郎共庄三郎共認る
と説明しています。
その後延々と後藤家歴代がいかに徳川家の興隆に貢献してきたかが語られているのですが、注目すべきは後藤家が徳川家のご落胤を当主としたとほのめかすような記述があることでしょう。
庄三郎光次妻儀者、青山善左衛門正長娘、権現様上意以縁組仕候、然上大橋局と申を妻に被下置、其腹に出生仕候男子、二代目庄三郎に而、元和二年、御老中酒井雅楽頭忠世烏帽子子として、忠世宅に於て元服仕、廣世と相名乗申候 但、庄三郎廣世出生仕候譚、申傳之儀御座候得共、恐多筋も御座候間、書面に相認不申候
(中略)

二代目庄三郎廣世出生仕候儀、申傳有之候得共、恐多筋故相認不申候段本書に有候譚者、廣世母は、権現様御世大奥相勤大橋局と申し候処、光次江被下候、其以後間もなく男子出生候所、御内々申上候趣等、品々申傳候儀御座候へ共、恐多儀も相聞候間、書面に相認不申候
(中略)
右之外、承傳候者、生貴子鏡と申候鏡、古来駿州江唐船着之頃持渡り、今川家之手に入候、右鏡を常々見候婦人者、必男子を出産仕候由に而、重い器に御座候所、権現様御手に入有之、大橋儀大奥相勤候節右鏡奉預り、其後光次江大橋を被下候処男子出産仕候、則前書に相認候二代目庄三郎廣世に而御座候、且又右貴子鏡拝領仕持傳候所、文昭院様御代差上候様被仰付、月光院様御勤中被下候由に御座候得共、数度之類焼に而書留類焼仕候、尤右廣世出生等之儀、至而恐多儀も申傳候間、前々より書留など憚候儀と相見申候、且只今之常盤橋、古来者大橋と唱候由、廣世母名前大橋と申候儀も、御側相勤候故之儀に御座候哉、又者光次江被下候以後、伺御機嫌等に罷出候節大橋と被召呼候哉、名前者いわと認候覚書も有之候間、右推察之趣も御座候哉、尤大橋儀老後に剃髪仕、栄長院と申候、慶安五年五月廿九日病死仕候
(後略)
はっきりとは明言していませんが二代目・広世(廣世)が商人の息子でありながら家康から家光まで3代の将軍に近侍したこと、老中・酒井忠世という重要人物を烏帽子親として元服したこと、様々な拝領物をもらったこと、今川家→徳川家→後藤庄三郎家→徳川家と伝わったという「貴子鏡」なる宝物の逸話などをまじえ、「尤右廣世出生等之儀、至而恐多儀も申傳候」(広世の出生については恐れ多いことを伝え聞いているので)などとひじょーにうまいことを言って「書面に相認不申候」(確認できる資料は持ってません)とごまかしています。しかし同じ由緒書きでこのことを二回も強調しているところから見て、「将軍家のご落胤を身ごもった大橋局を引き取ってやった」という秘密を握っていたことが、後藤庄三郎家が長年に渡り「幕府御金改役」という特権を握れた理由であったことは間違いないと見てよいのではないでしょうか。

ちなみに上の文章を見る限りでは、大橋局は青山正長なる人物の娘で、使えていたのは徳川家康のようです。


「呉服師由緒書」は「後藤庄三郎家由緒書」より文章量も少なく、簡略な内容です。
全文提示しますので、項をかえて続けます。


拍手[1回]


ちなみに金座の後藤庄三郎家と呉服屋の後藤縫殿助家、苗字が偶然同じだけで全く縁がないと思っていたらそうでもないらしい。
現在日本銀行のある辺りはかつて本両替町(現日本橋本石町2丁目)といった。金座を中心に両替商が軒を並べていた所である。慶長6(1601)年に大判・ 小判・二分金・一朱金などの金貨を鋳造する金座が設立された。後藤庄三郎が金座役を命じられたので、代々後藤家がその元締めとなった。本両替町の南に流れ る日本橋川に架かる橋は、北にその後藤庄三郎、南側に呉服所の後藤縫殿助(ぬいのすけ)の屋敷があったので、五斗(後藤)と五斗(後藤)で一石橋と名付け られたという(異説もある)。
http://www.e-navilife.com/chuo/story/09/07/index.html
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