拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
藤原多比能は、異父兄・葛城王(橘諸兄)との間に奈良麻呂を生みます。養老4年(720年)のことです(『公卿補任』などによる)。
しかし、私いろんな史料も見て、『尊卑分脈』も確認しましたが、多比能と葛城王の間には、この奈良麻呂ただ一人しか生まれなかったようなのです。
そこで考えられるのは、以前から何度も申し上げた葛城王と藤原氏の間にあった溝が、この2人の間にも影を落としたのではないか?という事です。
葛城王が、母から押しつけられた妻を
「わしゃ、こんな押しつけ女房いらんのじゃあ!」
…と、ちゃぶ台ひっくり返して星一徹状態になった(^^;)という事ですね。
しかし、続いて系図や史料を見てみると、葛城王はこの多比能一人しか妻にしていなかったようであるのです。葛城王には奈良麻呂以外の子供がいたとは伝えられておりません。
実は、葛城王の父(橘三千代の先夫)・美務王も橘三千代以外の妻がいた気配がありません。この時代には珍しい「一夫一婦」ですね。(…もっとも、橘三千代の方が「一婦多夫」ヾ(--;)でしたけど)
で、葛城王も、父を見習って「一夫一婦」を守ったようなのです。まあ、30歳の男からすれば、10歳代の幼妻はかわいくてかわいくてしょうがなくて、他の女に目をくれている暇などない!と言うところでしょうか。
多比能の二人の姉(牟漏女王、光明皇后)は、夫の女性関係には泣かされていたと思われますから、その点では、多比能はずいぶん恵まれた夫婦生活を送っていたのです。
奈良麻呂一人しか子供がいないのは、二人の身体の方に何か問題が起こったのではないでしょうか?それ故、逆に葛城王と多比能は奈良麻呂を溺愛したことでしょう。
さて、先ほどから、藤原「多比能」とずっと書いて参りましたが、『続日本紀』では、彼女を「多比能」とは書かず、「吉日」と書いております。ある時点で改名をした物と考えられますが、ではいつ改名したのでしょうか?
天平元年(729年)、今まで何回も言った「長屋王の変」が起き、姉の安宿媛が皇后に册立されます。彼女は「光明皇后」と呼ばれるようになります。
「多比能」が「吉日」と転じたのは、この時点をおいて他にないのではないでしょうか?
姉が忌まわしい事件を吹き飛ばすように「光明」という雅号で呼ばれることに対応して、妹も「良き日」という意味の「吉日」と名乗ったのではないでしょうか。まあ、「厄払い」(^^;)ですね。
そして、彼女は母・橘三千代や姉・牟漏女王を見習って、女官となったようであります。
それがいつか?と言うことですが、私はこのように考えております。
天平9年(737年)に聖武天皇が新たに3人の夫人(天皇妃)を向かえております。牟漏女王の所でも述べましたが
・南殿(藤原武智麻呂<藤原不比等長男>の娘)
・北殿(藤原房前<藤原不比等次男>と牟漏女王の間の娘)
・橘古那可智(こなかち・橘佐為<橘諸兄の弟>の娘)
の三名です。
天平5年(733年)、橘三千代が亡くなり、藤原氏の中もギクシャクし出すのですが、この間隙を抜いて葛城王は藤原氏を出し抜いて出世しようとしたのではないでしょうか?
そのために、皇族を離脱し、母の苗字「橘」を名乗り、「橘諸兄」と改名します。
また、藤原武智麻呂や房前と並んで、自分の姪を妃とすることに成功します。
そういう政略の一環として、妻の藤原吉日を女官としたのでしょう。
天平9年に藤原吉日は無位からいきなり従五位下に任官されています。「皇后の妹」というバックが物を言ったのでしょうか。
しかし、賢明な皆様ならもうお分かりと思いますが、こういう政略の一環に組み込まれることは、すなわち藤原氏寄りの同母姉・光明皇后と対立することにもなってくるのです。
つづく
しかし、私いろんな史料も見て、『尊卑分脈』も確認しましたが、多比能と葛城王の間には、この奈良麻呂ただ一人しか生まれなかったようなのです。
そこで考えられるのは、以前から何度も申し上げた葛城王と藤原氏の間にあった溝が、この2人の間にも影を落としたのではないか?という事です。
葛城王が、母から押しつけられた妻を
「わしゃ、こんな押しつけ女房いらんのじゃあ!」
…と、ちゃぶ台ひっくり返して星一徹状態になった(^^;)という事ですね。
しかし、続いて系図や史料を見てみると、葛城王はこの多比能一人しか妻にしていなかったようであるのです。葛城王には奈良麻呂以外の子供がいたとは伝えられておりません。
実は、葛城王の父(橘三千代の先夫)・美務王も橘三千代以外の妻がいた気配がありません。この時代には珍しい「一夫一婦」ですね。(…もっとも、橘三千代の方が「一婦多夫」ヾ(--;)でしたけど)
で、葛城王も、父を見習って「一夫一婦」を守ったようなのです。まあ、30歳の男からすれば、10歳代の幼妻はかわいくてかわいくてしょうがなくて、他の女に目をくれている暇などない!と言うところでしょうか。
多比能の二人の姉(牟漏女王、光明皇后)は、夫の女性関係には泣かされていたと思われますから、その点では、多比能はずいぶん恵まれた夫婦生活を送っていたのです。
奈良麻呂一人しか子供がいないのは、二人の身体の方に何か問題が起こったのではないでしょうか?それ故、逆に葛城王と多比能は奈良麻呂を溺愛したことでしょう。
さて、先ほどから、藤原「多比能」とずっと書いて参りましたが、『続日本紀』では、彼女を「多比能」とは書かず、「吉日」と書いております。ある時点で改名をした物と考えられますが、ではいつ改名したのでしょうか?
天平元年(729年)、今まで何回も言った「長屋王の変」が起き、姉の安宿媛が皇后に册立されます。彼女は「光明皇后」と呼ばれるようになります。
「多比能」が「吉日」と転じたのは、この時点をおいて他にないのではないでしょうか?
姉が忌まわしい事件を吹き飛ばすように「光明」という雅号で呼ばれることに対応して、妹も「良き日」という意味の「吉日」と名乗ったのではないでしょうか。まあ、「厄払い」(^^;)ですね。
そして、彼女は母・橘三千代や姉・牟漏女王を見習って、女官となったようであります。
それがいつか?と言うことですが、私はこのように考えております。
天平9年(737年)に聖武天皇が新たに3人の夫人(天皇妃)を向かえております。牟漏女王の所でも述べましたが
・南殿(藤原武智麻呂<藤原不比等長男>の娘)
・北殿(藤原房前<藤原不比等次男>と牟漏女王の間の娘)
・橘古那可智(こなかち・橘佐為<橘諸兄の弟>の娘)
の三名です。
天平5年(733年)、橘三千代が亡くなり、藤原氏の中もギクシャクし出すのですが、この間隙を抜いて葛城王は藤原氏を出し抜いて出世しようとしたのではないでしょうか?
そのために、皇族を離脱し、母の苗字「橘」を名乗り、「橘諸兄」と改名します。
また、藤原武智麻呂や房前と並んで、自分の姪を妃とすることに成功します。
そういう政略の一環として、妻の藤原吉日を女官としたのでしょう。
天平9年に藤原吉日は無位からいきなり従五位下に任官されています。「皇后の妹」というバックが物を言ったのでしょうか。
しかし、賢明な皆様ならもうお分かりと思いますが、こういう政略の一環に組み込まれることは、すなわち藤原氏寄りの同母姉・光明皇后と対立することにもなってくるのです。
つづく
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。