拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天平9年(737年)、藤原不比等の4人の息子が全員亡くなり、藤原氏の勢力は大幅に衰えてしまいます。
衰えたのは藤原氏ばかりではありません。何しろ、今まで政府を支えていた官人の多くが亡くなってしまっております。
おそらく、その間隙を抜いて病気の藤原宮子(聖武天皇の母)に取り入ったのが、地方豪族出身の吉備真備(きびのまきび)と僧の玄坊(げんぼう※玄坊の「坊」の字は、本当は「日」へんに「方」)であります。
特に、玄坊は後の「密教」の源流になるような祈祷が一番のお得意でして、まあ、強い薬品でも使ったのでしょうか(^^;)、宮子の病気はたちまちにして「直り」、聖武天皇は、この事でこの2人を重用するようになります。
また、兄の橘諸兄も・息子の橘奈良麻呂をいきなり無位から従五位下に任命するような職権乱用を行います。光明皇后の実家の藤原氏でも、この時点までは、そんな反則はしていません。
(律令では、父親が従五位下以上であれば、子供は従六位下から父親が、従三位以上であれば、子供は正六位下からスタートだった?その他、嫡子か庶子かでも区別がありややこしい。)
と言うことで、光明皇后は反撃に出るのです。
光明皇后は男兄弟が亡くなったことから、女兄弟を頼ろうとしたと思われます。…しかし!現実は厳しかった。
藤原不比等長女:藤原宮子 →吉備真備、玄坊に骨抜きにされている。頼りに出来ない。
同 次女:藤原長娥子→長屋王の未亡人・敵の可能性大。(最も、この頃まで生きてないかも知れない?)
同 四女:藤原吉日 →橘諸兄妻・問題外(^^;)。
同 五女:藤原殿刀自(?)→大伴古慈斐妻・大伴氏は藤原氏に対し、敵対的。
このような状況で、光明皇后が味方と頼んだのが藤原房前の未亡人で、異父姉の牟漏女王と思われることは既述しました。
まず、藤原氏の有力者が全員亡くなったという状態を良いことに、兄の橘諸兄が
「我が一族につながる、安積親王を皇太子にしては如何でしょう?」
なんていいだすのを阻止せねば成りません。
二人は聖武天皇を必死に説得したと考えられます。
「現在、皇太子が決まっておりませぬ。もし、この時点で陛下に何かあればどういたしましょうか。どうか、皇后様の娘・阿倍内親王を皇太子に任命して下さい。」(←当方推測)
…女性が天皇になったことはありますが、女性の皇太子なんて前代未聞であります。全く無茶な!と思われますが、何と、翌天平10年(738年)に阿倍内親王は女性初の皇太子となります。
安積親王がいる中で、さすがにこの事は批判が多かったようで、皇太子任命には祝賀行事が伴う物ですが、彼女にはそれがありませんでした。
しかし!光明皇后は反対派最右翼の橘諸兄を右大臣に同時に任命し、反撃の根を押さえてしまいます。
また、元正太上天皇もこの事については不満を持っていたと思われますが、彼女自体が、独身で天皇の皇后でなく・その上皇太子(首皇子)がいたのに即位したのですから、文句の言いようがなかったと思われます。
このタイミングはGOOD(^^;)でした。
というのは、天平11年(739年)に牟漏女王を従三位にしたところで、光明皇后は疲れからでしょうか、またまた重病に陥るからです。
このころ、光明皇后の兄の子(つまり光明皇后からすれば甥)達は、まだ若く、年齢の一番高い藤原武智麻呂(不比等長男)の長男・藤原豊成(とよなり)を参議にできただけでした。
しかし、豊成はおうような性格で、人を出し抜くことが出来ない人物でした。
これは、藤原氏の巻き返しをはかる光明皇后にとっては歯がゆいことだったと思います。
では、このころ光明皇后は誰に期待をかけていたのか?
私は、藤原宇合(不比等三男)の長男・藤原広嗣だと思います。というのは彼は不比等三男の長男、しかも藤原豊成など自分より年上の従兄弟が大勢いる中で、いきなり大和守(いわゆる「奈良県知事」。大和国は平城京のある所なので、他国より格が高い)兼式部少輔(人事を司る式部省の次官)に任命されているからです。
ところが、同じ天平11年、広嗣は突然太宰少弐(太宰府の次官)に左遷されます。「身内の悪口を言った」と言うことが原因でした。性格の激しい広嗣が、吉備真備や玄坊を押さえられない他の従兄弟を非難したのではないか?と言われていますが、実際の所、誰にどんな悪口を言ったのかは謎であります。
ともかく、「親戚の悪口言ってる暇あるなら、頭冷やしてきなさい!」と言うところで、まあ「丁稚奉公」(^^;)に出されたわけです。
しかし、当時の太宰府は太宰師(太宰府長官)も、太宰大弐(太宰府の次官)も、平城京に滞在して留守でありました。お目付役のいない広嗣はとんでもないことをしでかすのです。
天平12年(740年)ここ数年多かった飢饉もなく、のほほん状態の政府に、その報告は突如やってきました。
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
聖武天皇も、皇后の実家から謀反が起こるとは思ってなかったのでしょう。
朝廷は大パニックに陥ります。
これが世に名高い「藤原広嗣の乱」です。
つづく
衰えたのは藤原氏ばかりではありません。何しろ、今まで政府を支えていた官人の多くが亡くなってしまっております。
おそらく、その間隙を抜いて病気の藤原宮子(聖武天皇の母)に取り入ったのが、地方豪族出身の吉備真備(きびのまきび)と僧の玄坊(げんぼう※玄坊の「坊」の字は、本当は「日」へんに「方」)であります。
特に、玄坊は後の「密教」の源流になるような祈祷が一番のお得意でして、まあ、強い薬品でも使ったのでしょうか(^^;)、宮子の病気はたちまちにして「直り」、聖武天皇は、この事でこの2人を重用するようになります。
また、兄の橘諸兄も・息子の橘奈良麻呂をいきなり無位から従五位下に任命するような職権乱用を行います。光明皇后の実家の藤原氏でも、この時点までは、そんな反則はしていません。
(律令では、父親が従五位下以上であれば、子供は従六位下から父親が、従三位以上であれば、子供は正六位下からスタートだった?その他、嫡子か庶子かでも区別がありややこしい。)
と言うことで、光明皇后は反撃に出るのです。
光明皇后は男兄弟が亡くなったことから、女兄弟を頼ろうとしたと思われます。…しかし!現実は厳しかった。
藤原不比等長女:藤原宮子 →吉備真備、玄坊に骨抜きにされている。頼りに出来ない。
同 次女:藤原長娥子→長屋王の未亡人・敵の可能性大。(最も、この頃まで生きてないかも知れない?)
同 四女:藤原吉日 →橘諸兄妻・問題外(^^;)。
同 五女:藤原殿刀自(?)→大伴古慈斐妻・大伴氏は藤原氏に対し、敵対的。
このような状況で、光明皇后が味方と頼んだのが藤原房前の未亡人で、異父姉の牟漏女王と思われることは既述しました。
まず、藤原氏の有力者が全員亡くなったという状態を良いことに、兄の橘諸兄が
「我が一族につながる、安積親王を皇太子にしては如何でしょう?」
なんていいだすのを阻止せねば成りません。
二人は聖武天皇を必死に説得したと考えられます。
「現在、皇太子が決まっておりませぬ。もし、この時点で陛下に何かあればどういたしましょうか。どうか、皇后様の娘・阿倍内親王を皇太子に任命して下さい。」(←当方推測)
…女性が天皇になったことはありますが、女性の皇太子なんて前代未聞であります。全く無茶な!と思われますが、何と、翌天平10年(738年)に阿倍内親王は女性初の皇太子となります。
安積親王がいる中で、さすがにこの事は批判が多かったようで、皇太子任命には祝賀行事が伴う物ですが、彼女にはそれがありませんでした。
しかし!光明皇后は反対派最右翼の橘諸兄を右大臣に同時に任命し、反撃の根を押さえてしまいます。
また、元正太上天皇もこの事については不満を持っていたと思われますが、彼女自体が、独身で天皇の皇后でなく・その上皇太子(首皇子)がいたのに即位したのですから、文句の言いようがなかったと思われます。
このタイミングはGOOD(^^;)でした。
というのは、天平11年(739年)に牟漏女王を従三位にしたところで、光明皇后は疲れからでしょうか、またまた重病に陥るからです。
このころ、光明皇后の兄の子(つまり光明皇后からすれば甥)達は、まだ若く、年齢の一番高い藤原武智麻呂(不比等長男)の長男・藤原豊成(とよなり)を参議にできただけでした。
しかし、豊成はおうような性格で、人を出し抜くことが出来ない人物でした。
これは、藤原氏の巻き返しをはかる光明皇后にとっては歯がゆいことだったと思います。
では、このころ光明皇后は誰に期待をかけていたのか?
私は、藤原宇合(不比等三男)の長男・藤原広嗣だと思います。というのは彼は不比等三男の長男、しかも藤原豊成など自分より年上の従兄弟が大勢いる中で、いきなり大和守(いわゆる「奈良県知事」。大和国は平城京のある所なので、他国より格が高い)兼式部少輔(人事を司る式部省の次官)に任命されているからです。
ところが、同じ天平11年、広嗣は突然太宰少弐(太宰府の次官)に左遷されます。「身内の悪口を言った」と言うことが原因でした。性格の激しい広嗣が、吉備真備や玄坊を押さえられない他の従兄弟を非難したのではないか?と言われていますが、実際の所、誰にどんな悪口を言ったのかは謎であります。
ともかく、「親戚の悪口言ってる暇あるなら、頭冷やしてきなさい!」と言うところで、まあ「丁稚奉公」(^^;)に出されたわけです。
しかし、当時の太宰府は太宰師(太宰府長官)も、太宰大弐(太宰府の次官)も、平城京に滞在して留守でありました。お目付役のいない広嗣はとんでもないことをしでかすのです。
天平12年(740年)ここ数年多かった飢饉もなく、のほほん状態の政府に、その報告は突如やってきました。
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
聖武天皇も、皇后の実家から謀反が起こるとは思ってなかったのでしょう。
朝廷は大パニックに陥ります。
これが世に名高い「藤原広嗣の乱」です。
つづく
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