拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天平12年(740年)
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
この報告に、朝廷は大パニックに陥ります。「藤原広嗣の乱」の始まりです。
実は、藤原広嗣の父・藤原宇合(藤原不比等三男)は大変優れた武将でして、太宰府の行軍式(現存せず・軍の配備の仕方などを示した物と考えられている)をまとめたのは宇合なのです。
しかも、太宰府には藤原宇合が恩顧をかけてやった兵士が大勢残っておりましたから、藤原広嗣を太宰府にやったこと自体
「謀反起こしても、いいともー(^^;)」
と言っているのと変わらない状態だったのです。最も、広嗣は聖武天皇にたてついている気は全然無かったみたいですけどね。
この藤原広嗣の乱を鎮圧したのが、皮肉なことに藤原宇合の元で武者修行し、藤原麻呂(藤原不比等四男)に絶賛された大野東人(おおの・あずまひと)なのです。
東人はあっさり広嗣をやっつけ、その報告を書いているとき、平城京から変な詔がやってきます。
「季節は悪いが(10月)、東国に行幸することにした。不審に思わないでくれ。後は宜しく。(^^)/~~~」
…東人は腰を抜かしたことでしょう。これが、奈良時代最大の謎の一つ「聖武天皇の謎の彷徨5年」と言われる事件の始まりです。これについては、
「橘諸兄が、恭仁京に都を移すのを自然に見せるための陰謀」
「藤原広嗣の乱に腰を抜かした聖武が逃げ出した」
などの説がありますが、瀧波貞子氏の
「天武天皇の”壬申の乱”のコースをたどることで、聖武天皇への結束を強化しようとした」
と言う説が一番説得力があるように思われます。
話がまた飛んだ。
ともかく、この「藤原広嗣の乱」で藤原氏の権威は失墜します。光明皇后は、自分が目をかけた甥の思わぬ反抗にがっかりしたことでしょう。翌天平13年(741年)には、藤原不比等から相続した食封5000戸の返納を願い出ております。
しかし!いいことも一つだけありました。聖武天皇の「東国行幸」に同行したある甥に目が留まったのです。それが、藤原武智麻呂(藤原不比等長男)の次男・藤原仲麻呂であります。
仲麻呂はどちらかというと学者肌で、しかも全然目立たない人物でした。
しかし、彼は妻の藤原袁比良(おひら:藤原房前の娘)を宮仕えさせ、光明皇后にさりげなくアピールした物と思われます。
光明皇后は、藤原氏の権威回復をこの甥にかけることにするのです。
ところが、皮肉なことに、夫の聖武天皇が気に入ったのは、同じ「東国行幸」についてきた藤原房前の三男・藤原八束でした。牟漏女王の息子でもあります。
彼は親の心知らず?藤原豊成や橘諸兄と仲が良く、藤原仲麻呂とは全く!性格が合わなかったため、この後の藤原氏の混乱の原因となります。
ともかく、都は平城京から恭仁京へ移ります。天平12年(740年)の暮れのことでした。恭仁京は、橘諸兄の本拠地です。光明皇后は(今は身内から反乱者も出したところだ。ともかく堪え忍ぶのだ)と、忍耐の毎日を過ごしたことでしょう。
このころ、皇后宮で「維摩会(ゆいまえ)」が行われていますが、藤原不比等に似せた「維摩像」を拝むことで、藤原氏内の結束を促した物ではないか?と上山春平氏は推測されています。
ところが、恭仁京は木津川をまたがって造ったという変形した都だったため、極めて不便を強いられます。聖武天皇は今度は近江国・信楽に離宮を作り出します。
実は、信楽は交通の要所であると共に、近江国は藤原氏の本拠地の一つとも言われているくらいの所でした。おそらく、光明皇后辺りが聖武天皇に離宮を造ることを進めたのでしょう。
一方、この翌年の天平13年(741年)には「国分寺・国分尼寺建立の詔」が出されます。聖武天皇は仏教を広めることで、自分の権威回復をはかったのです。
しかし、この裏にも光明皇后がいました。元々、皇后になったときに仏教的な政策(貧民救済)で庶民の人気を取った光明です。仏教に頼ることを進めたのはおそらく、光明皇后の影響と考えられております。
そして、一番強烈(^^;)な詔が天平15年(743年)の「廬舎那仏建立の詔」です。実は、この「廬舎那仏建立」自体、この時代の日本の状態を無視しまくった無茶苦茶なことを言っております。
まず、廬舎那仏は青銅製で、しかも金箔張りでなければいけません。
ところが、この当時、実は全世界見渡してもそんな巨大な青銅像は前例がない!
しかも、この当時の日本には金が採掘されていない!
…もう、何を聖武天皇考えているのでしょうか。しかし、この不安漂う日本を救うために、大仏を造らねば!…という悟りを、聖武天皇は開いたようなのです(なんのこっちゃ)。
実は、この背景にも光明皇后がおりました。
光明皇后養育の地・河内国に智識寺(ちしきでら)と言うお寺がありました。
このお寺は今は残っていないそうですが、実は日本で一番最初に大仏を造ったお寺であります。…但し、塑像(土が材料)なのですが。
このお寺が大仏を造るときに取った方式が「智識」なのであります。つまり、信者のお布施とボランティアに頼る方式ですね。この「智識」の大ボス(^^;)が 行基 なのです。…ここまで書いてピン!ときた方はすごい。
つまり、
光明皇后は大仏づくりに行基をかり出すことによって、庶民の関心を聖武天皇にひいて夫の権威を高めようとし、
一方で
行基の権威を高めることで、姉・藤原宮子の元で権勢を振るっている玄坊を追い出してやろう!
…という作戦だったのです。おそるべし、光明皇后。
その一方で、光明皇后もう一つ重要な画策を行っております。
皇太子・阿倍内親王を元正太上天皇が認めてなかったらしいことを前に述べましたが、無理矢理に認めさせる機会を作ったのです。
天平15年(743年)常なら貴族から選ばれた女性で踊られる「五節の舞」のメンバーに、何と阿倍内親王が混じっておりました。
「この、天武天皇が考案した舞を、阿倍内親王が舞うことで、改めて”君臣は親子の交わり”(=皇位は親から子へ代々伝える物だ)と言う理を示したいと思います。」
この良くできた奏上、しかも元正太上天皇にとっては神に等しい祖父「天武天皇」の名前を出されては”ぐー”の字も出ません。結局、元正太上天皇は「聖武天皇の後は阿倍内親王が嗣ぐことを認める」ことになるのです。
そうそう、反対しそうな兄・橘諸兄には、既に「従一位・左大臣」という、藤原不比等も、長屋王ももらってない高い位を先にあげておりました。
橘諸兄、常に妹の光明皇后に先手先手を打たれていたわけですね。
つづく
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
この報告に、朝廷は大パニックに陥ります。「藤原広嗣の乱」の始まりです。
実は、藤原広嗣の父・藤原宇合(藤原不比等三男)は大変優れた武将でして、太宰府の行軍式(現存せず・軍の配備の仕方などを示した物と考えられている)をまとめたのは宇合なのです。
しかも、太宰府には藤原宇合が恩顧をかけてやった兵士が大勢残っておりましたから、藤原広嗣を太宰府にやったこと自体
「謀反起こしても、いいともー(^^;)」
と言っているのと変わらない状態だったのです。最も、広嗣は聖武天皇にたてついている気は全然無かったみたいですけどね。
この藤原広嗣の乱を鎮圧したのが、皮肉なことに藤原宇合の元で武者修行し、藤原麻呂(藤原不比等四男)に絶賛された大野東人(おおの・あずまひと)なのです。
東人はあっさり広嗣をやっつけ、その報告を書いているとき、平城京から変な詔がやってきます。
「季節は悪いが(10月)、東国に行幸することにした。不審に思わないでくれ。後は宜しく。(^^)/~~~」
…東人は腰を抜かしたことでしょう。これが、奈良時代最大の謎の一つ「聖武天皇の謎の彷徨5年」と言われる事件の始まりです。これについては、
「橘諸兄が、恭仁京に都を移すのを自然に見せるための陰謀」
「藤原広嗣の乱に腰を抜かした聖武が逃げ出した」
などの説がありますが、瀧波貞子氏の
「天武天皇の”壬申の乱”のコースをたどることで、聖武天皇への結束を強化しようとした」
と言う説が一番説得力があるように思われます。
話がまた飛んだ。
ともかく、この「藤原広嗣の乱」で藤原氏の権威は失墜します。光明皇后は、自分が目をかけた甥の思わぬ反抗にがっかりしたことでしょう。翌天平13年(741年)には、藤原不比等から相続した食封5000戸の返納を願い出ております。
しかし!いいことも一つだけありました。聖武天皇の「東国行幸」に同行したある甥に目が留まったのです。それが、藤原武智麻呂(藤原不比等長男)の次男・藤原仲麻呂であります。
仲麻呂はどちらかというと学者肌で、しかも全然目立たない人物でした。
しかし、彼は妻の藤原袁比良(おひら:藤原房前の娘)を宮仕えさせ、光明皇后にさりげなくアピールした物と思われます。
光明皇后は、藤原氏の権威回復をこの甥にかけることにするのです。
ところが、皮肉なことに、夫の聖武天皇が気に入ったのは、同じ「東国行幸」についてきた藤原房前の三男・藤原八束でした。牟漏女王の息子でもあります。
彼は親の心知らず?藤原豊成や橘諸兄と仲が良く、藤原仲麻呂とは全く!性格が合わなかったため、この後の藤原氏の混乱の原因となります。
ともかく、都は平城京から恭仁京へ移ります。天平12年(740年)の暮れのことでした。恭仁京は、橘諸兄の本拠地です。光明皇后は(今は身内から反乱者も出したところだ。ともかく堪え忍ぶのだ)と、忍耐の毎日を過ごしたことでしょう。
このころ、皇后宮で「維摩会(ゆいまえ)」が行われていますが、藤原不比等に似せた「維摩像」を拝むことで、藤原氏内の結束を促した物ではないか?と上山春平氏は推測されています。
ところが、恭仁京は木津川をまたがって造ったという変形した都だったため、極めて不便を強いられます。聖武天皇は今度は近江国・信楽に離宮を作り出します。
実は、信楽は交通の要所であると共に、近江国は藤原氏の本拠地の一つとも言われているくらいの所でした。おそらく、光明皇后辺りが聖武天皇に離宮を造ることを進めたのでしょう。
一方、この翌年の天平13年(741年)には「国分寺・国分尼寺建立の詔」が出されます。聖武天皇は仏教を広めることで、自分の権威回復をはかったのです。
しかし、この裏にも光明皇后がいました。元々、皇后になったときに仏教的な政策(貧民救済)で庶民の人気を取った光明です。仏教に頼ることを進めたのはおそらく、光明皇后の影響と考えられております。
そして、一番強烈(^^;)な詔が天平15年(743年)の「廬舎那仏建立の詔」です。実は、この「廬舎那仏建立」自体、この時代の日本の状態を無視しまくった無茶苦茶なことを言っております。
まず、廬舎那仏は青銅製で、しかも金箔張りでなければいけません。
ところが、この当時、実は全世界見渡してもそんな巨大な青銅像は前例がない!
しかも、この当時の日本には金が採掘されていない!
…もう、何を聖武天皇考えているのでしょうか。しかし、この不安漂う日本を救うために、大仏を造らねば!…という悟りを、聖武天皇は開いたようなのです(なんのこっちゃ)。
実は、この背景にも光明皇后がおりました。
光明皇后養育の地・河内国に智識寺(ちしきでら)と言うお寺がありました。
このお寺は今は残っていないそうですが、実は日本で一番最初に大仏を造ったお寺であります。…但し、塑像(土が材料)なのですが。
このお寺が大仏を造るときに取った方式が「智識」なのであります。つまり、信者のお布施とボランティアに頼る方式ですね。この「智識」の大ボス(^^;)が 行基 なのです。…ここまで書いてピン!ときた方はすごい。
つまり、
光明皇后は大仏づくりに行基をかり出すことによって、庶民の関心を聖武天皇にひいて夫の権威を高めようとし、
一方で
行基の権威を高めることで、姉・藤原宮子の元で権勢を振るっている玄坊を追い出してやろう!
…という作戦だったのです。おそるべし、光明皇后。
その一方で、光明皇后もう一つ重要な画策を行っております。
皇太子・阿倍内親王を元正太上天皇が認めてなかったらしいことを前に述べましたが、無理矢理に認めさせる機会を作ったのです。
天平15年(743年)常なら貴族から選ばれた女性で踊られる「五節の舞」のメンバーに、何と阿倍内親王が混じっておりました。
「この、天武天皇が考案した舞を、阿倍内親王が舞うことで、改めて”君臣は親子の交わり”(=皇位は親から子へ代々伝える物だ)と言う理を示したいと思います。」
この良くできた奏上、しかも元正太上天皇にとっては神に等しい祖父「天武天皇」の名前を出されては”ぐー”の字も出ません。結局、元正太上天皇は「聖武天皇の後は阿倍内親王が嗣ぐことを認める」ことになるのです。
そうそう、反対しそうな兄・橘諸兄には、既に「従一位・左大臣」という、藤原不比等も、長屋王ももらってない高い位を先にあげておりました。
橘諸兄、常に妹の光明皇后に先手先手を打たれていたわけですね。
つづく
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