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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前の話はこちら 



今回は前回予告したとおり北家を考察してみます。
北家は初代になる藤原房前が義理の妹で県犬養橘三千代の娘である牟漏女王を正室とし、婚姻関係を有効に使おうとしたことはいろんな人が指摘していますが、息子たちは父を見習うことができたんでしょうか?
永手は見た限りじゃ微妙と言うよりロr(以下自粛)

…じゃ気を取り直して行ってみよう!
※ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ
 なお□リコンネタ(をい)は出ないはずの予定たぶん 期待していた人ごめんねヾ(--;)


拍手[3回]



まずは永手の父である藤原房前から。牟漏女王の話でいろいろ書いてるからいまさら書くこと無いんだがヾ(--;)
※主に『尊卑分脈』参照
正室:牟漏女王 ※美努王・県犬養橘三千代夫妻の娘
 二男:藤原永手(714-771)
 三男:藤原真楯(八束)(715-766)
 六男:藤原御楯(千尋)(?-764)
 女子:北殿(?-760) ※聖武天皇夫人
妻:従五位下春日倉老の女
 長男:藤原鳥養(?-737以前)
妻:片野朝臣の女
 四男:藤原清河(?-779以前)
 五男:藤原魚名(721-783)
妻:阿波采女
 七男:藤原楓麻呂(723?-776)
生母不詳の子女
 ?:藤原遂竈
 女子:藤原豊成室
 女子:藤原宇比良古(袁比良)(?-762) ※藤原仲麻呂室、尚侍
一番最初の妻は春日倉首老の娘です。房前との間に生まれた長男・鳥飼の生年…は未詳なのですが、『続日本紀』の記述から慶雲年間(704~708)の生まれとするのがほぼ定説となっています。春日倉老という人を私は全く知らなかったのですが、『万葉集』歌人として著名で、『常陸国風土記』の編纂にも関わったかも知れない人らしい。かなりの文化人なのは確かなんでしょうが、藤原不比等の次男の嫁の父としてはちょっと身分が低いような。なので「(春日倉老は)房前の乳母の夫じゃないか」という説まであるらしい。
次の妻は牟漏女王で間違いないでしょう。この人については拙ブログでも散々述べたので省略。
その後ぐらいに娶ったのが『尊卑分脈』では「異母妹従四位下片野朝臣女」(藤原清河)と書かれる、謎の女性。これをそのまま受け取れば「房前の異母妹で従四位下の片野朝臣の娘」となる…異母妹なのに藤原姓じゃないのかワケワカラン(^^;)更に訳が分からないのが、清河の弟・魚名の母について「母清河女」と書いてあること…をい孫娘と結婚するって、どう考えても無理だろヽ(`Д´)ノ。この辺については「清河と魚名は同母兄弟で、母は”片野朝臣女”」とするところでは諸説一致してるのですが、では“片野朝臣女”が誰かと言うことについては未だ定説がありません。角田文衛氏は『続日本紀』養老7年正月条に出てくる女官「正四位下葛野女王」じゃないか(「藤原清河の母」『律令国家の展開』所収)としてますがはてさて。
一番末っ子の楓麻呂を生んだ「阿波采女」ですが、彼女に関しては『続日本紀』に出てくる「粟凡直若子」『正倉院文書』に出てくる「板野命婦」と同一人物とするのが定説化しているようです(「板野命婦」『律令国家の展開』所収)。この方は名前の通り阿波国出身の采女で、その後天平勝宝4年に出家するまで女官として活躍しています。

房前の結婚の特徴は、確実なだけで2人が後宮女官として活躍していること。父・不比等も後妻の県犬養橘三千代が女官ではありましたが、その傾向をここまで徹底して受け継いでいる息子は房前だけです。
この後平安時代初期までは妻を後宮女官として仕えさせる傾向は続くのですから、その政策の走りになった人であることは確かでしょう>房前。
あともうひとつの特徴は、娘二人を武智麻呂の息子・豊成と仲麻呂に嫁がせていること。一方で武智麻呂が娘を房前への息子へ嫁がせた例はありません。武智麻呂に娘が少なかったらしいことと、武智麻呂と房前は1歳違いなのに、その子供世代は最低でも10歳近い差があって年齢が合わなかったことが理由かも知れないです。それにしても近年学会では武智麻呂と房前の不仲が指摘されてますが、この傾向は興味深いです。



次はその房前の息子たち。房前のエグイヾ(--;)傾向を引き継いだのかどうか。
まずは長男の鳥飼から。
※主に『尊卑分脈』参照
妻:大伴道足の娘
 長男:藤原塩麻呂
 次男:藤原小黒麻呂(733-794)
生母不詳の子女
 女子:藤原永手室
『尊卑分脈』では妻が一人しか記載がないですが、早死にしたのでこんな所でしょう。永手の奥さんのお母さんも道足の娘の可能性は高いと考えます。
大伴道足は大伴旅人の死去後に大伴氏の氏上を務めていたという人物で、藤原氏の長子の奥さんの実家としてはまずまずのご出身かと。

次の永手…は前々回に散々(^^;)書いたので、その下の三男・八束(真楯)。
※主に『尊卑分脈』参照
妻:佐味飛鳥麻呂の娘
 長男:藤原真永
妻:阿倍帯麻呂の娘
 三男:藤原内麻呂
生母不詳の子女
 次男:藤原永継
えーと…奥さんの実家のみなさん、いったいどなた?ヾ(--;)
「正五位下佐味飛鳥麻呂」という人物ですが、同時代史料には全然出てこない人です。あの長屋王の変に関わった佐味虫麻呂(天平宝字元年10月12日死去、従四位下)、あの橘奈良麻呂の変を密告した佐味宮守(生没年未詳、従五位下)などが見えますが、名前も官位も共通点が少なく飛鳥麻呂と同一人物の可能性は低そうです。
ただ、佐味氏ですが
・『新撰姓氏録』では、佐味氏は田辺史氏(藤原不比等を養育した一族)、車持氏(藤原不比等の母の出身氏族)、大野氏(八束の兄・永手の正妻である大野仲智の実家)と同族とされる
・先述の佐味宮守は橘諸兄(八束の母方伯父)家に仕えていた
ことから、この辺の縁で嫁に迎えたのかもと推測されますが…。なお、大昔読んだなんぞの本で黛敏道氏が「藤原真楯の妻の佐味氏とは、正倉院文書に出てくる女官佐味氏」と書いていたとか何とか見た記憶があるのですが、その本のタイトルが皆目思い出せない(汗)。(※後で大昔の資料を見直したところ『古代史を彩る女人像』で触れてられるようです。)なお、『尊卑分脈』では母親が明記されてない次男・永継ですが、この真永と名前の親近性から同母兄弟と見るのが通説になってます。
三男・内麻呂の母は『尊卑文脈』では「従五位下阿倍常丸女」と書いてありますが、これは字体がよく似ていることから阿倍常丸=阿倍帯麻呂とするのが通説になっています。…が、この阿倍帯麻呂という人がとんでもない人であったことは、以前拙ブログでちょっとふれました。と言うかよくこの人の娘を嫁にしようと思ったな、八束。なお、この帯麻呂の娘については阿倍都与利(豆余理)が本名という説(鷺森浩幸説)があります。
ともかく、藤原八束(真楯)の妻は藤原房前の正室腹の息子の妻にしては身分が低い、低いばかりか出身に難のある人も。…つまり結婚に対してやる気がなかったのかヾ(--;)。しかし、この傾向、他の藤原氏メンバーで見たことがあるんだよなあ…誰だっけな。

…思い出せないので次いこう。
四男の清河なんですが、この人は遣唐大使になって遭難し、最後は唐で客死したためか、『尊卑分脈』では家族が伝わっていません。正確に言うと娘が一人伝わってはいるのですが、それが「房前妻」と補注が付いているという問題の女性。弟・魚名の母が「清河娘」と変に誤伝されてしまったことからの後付けの設定のように思えます。
清河は生年不詳なんですが、八束(715年生まれ)と魚名(721年生まれ)の間なので遣唐大使になったとき(750年。実際の出発は752年)30歳は超えているはず。永手のように干されていたヾ(--;)訳でもなく、結婚してないというのは考えづらいんですが…。
ただ、唐招提寺に「藤原清河家」が堂于を寄進しているので家政機関は残っていたみたいです。あと、宝亀6年に唐から清河の娘・喜娘が来日しています。ただ喜娘は来日してからどうなったのかが全く記録がない…。

ではその下。五男の魚名です。
※主に『尊卑分脈』第二編参照
妻:藤原宇合の娘
 長男:藤原鷹取(?-784)
 次男?:藤原鷲取
 三男?:藤原末茂
妻:津守氏
 四男?:藤原藤成(776-822)
生母不詳の子女
 男子:藤原真鷲(真鷹、直鷹)
 女子:藤原小黒麻呂(※藤原鳥飼次男)室
 女子:藤原長道(※藤原豊成孫)室
一番の特徴は叔父・藤原宇合の娘を正室にしていることでしょう。次男?の鷲取の妻も宇合の孫(藤原良継の娘)なので、兄・永手と共に式家とのつながりが強い系統と考えられます…のわりには魚名は延暦元年(782年)にいきなり無実の罪で失脚しちゃうんですが。この方に関しては木本好信氏が評伝風の論文を書いてますが、それを読む限りじゃ「余り才能もなかったのに年功序列の関係でうっかり左大臣にまでなってしまった」人(^^;)のようで、浮かれてた所を足元すくわれちゃったんでしょうね。なお、この宇合の娘ですが、『続日本紀』に出てくる女官・藤原家子(?-774)とする説があります(角田文衛説)。
もう一人の妻の津守氏女は側室と見て良いでしょう。ちなみに津守氏は現在の大阪市を本拠地にする豪族ですが、魚名は摂津国川辺郡(現在の大阪府豊中市近辺)に別邸があったらしく(『続日本紀』)、その辺で関係が出来たと思われます。

次が六男の千尋(御楯)。この人はあの藤原仲麻呂の娘・児依を正室としていた(『続日本紀』『尊卑分脈』)ことで著名で、仲麻呂関係の本や論文では絶対登場する人です。
この縁戚関係もあって、仲麻呂が実権を握ると兄たちにあっという間に追い付くほどの出世を見せますが、天平宝字8年(764年)6月9日に死んでしまいます。
児依との間に子供がいたかどうかは未詳。いたとしても天平宝字8年9月の「藤原仲麻呂の乱」で仲麻呂と一緒に処刑された可能性が高そうです…。

最後は七男の楓麻呂。
※主に『尊卑分脈』参照
妻:藤原良継の娘
 男子(長男?):藤原園人(756-819)
生母不明:
 男子(次男?):藤原園主
 男子(三男?):藤原城主
正室は藤原良継の娘…またまたここでも出て来た式家。楓麻呂の子供は知られている限りで男子3人だけなのですが、名前の共通性から見ると生母不詳の二人も園人と同じ同母兄弟の可能性は高そうです。


以上北家の皆様の解析終了。

特徴としては
 式家との結びつきが強い!
これは意外でした。
ざっと見たところで
・藤原永手(房前次男)の妻(藤原良継の娘)
・藤原魚名(房前五男)の妻(藤原宇合の娘)
・藤原楓麻呂(房前七男)の妻(藤原良継の娘)
と3人までもが式家出身の女性を妻にしています。
今回は分析対象から外れてるので書いてませんが、永手の長男・家依の妻も式家出身(藤原良継娘)、魚名の次男・鷲取の妻も式家出身(藤原良継娘)。ひょえ~。
そういえば南家には式家関係の奥さんは少ない(藤原巨勢麻呂の妻一人のみ)んですよねえ。この辺り何か意味がありそうな。

この中で独自路線を突っ走ってるのが三男の八束(真楯)と六男の千尋(御楯)。千尋(御楯)に関しては藤原仲麻呂と結びついて出世を狙ったのが明白なんですが、八束(真楯)に関しては余りのショボさ(→失礼)からみて、結婚が勢力の拡大に結びついているとは言い難いです…謎だ。でも後に摂関家に繋がっていくのは八束(真楯)の系統なんだよなあ。


次回は式家の皆様をネタにします
つづく~
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