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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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東大史料編纂所データベースで『大日本古文書』をガサいれヾ(--;)していたときに妙な史料を見つけたんだが
○造東大寺司牒
(正集34)
造東大寺司 牒北大臣家衙頭
 法華経壱拾部
右大納言藤原卿口宣偁、為贈左大臣、令奉讃件経者、今撿案内、依皇后宮少属川原凡去天平十九年正月廿八日宣、件経付若湯坐加波、奉請家裏已訖、?察此趣、便附此使、令奉請、故牒
        天平勝宝二年八月十七日主典正八位下紀朝臣池主
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0003/0414?m=all&s=0414&n=20
『大日本古文書』3 p.414
実際の文ですが、表示不可能で類似のものに振り替えた漢字も多いので、気になる方は上記のリンクから翻刻を見てもらった方が正確に分かると思います。

内容自体は、
「大納言藤原卿」の命で「贈左大臣」のために東大寺から借りようとした法華経10部について、過去の文書を調べたら天平19年1月28日に既に貸しているので、その旨回答する
と言ったところかと思います。
問題は「北大臣家」「贈左大臣」「大納言藤原卿」が誰なのかと言うこと。
「北大臣家」は『大日本古文書』の注記にもあるように藤原北家、「贈左大臣」は藤原房前で間違いないと考えます。
ところが「大納言藤原卿」については、天平勝宝2年8月時点で北家の男子には該当者がいません。
・藤原永手:権中納言か(『公卿補任』)
・藤原八束:不明(※鷺森浩幸氏による参議以外解職説あり
・藤原清河:遣唐大使(遭難し、在唐中)
・藤原魚名:不明
・藤原千尋:不明(美濃守?)
・藤原楓麻呂:不明(出仕前?)
で、他の藤原氏も見てみたら「大納言藤原卿」に該当する人物がいました。
…これがまたまた藤原仲麻呂だったりする_| ̄|○
仲麻呂は天平勝宝2年に大納言となり、天平宝字2年に「大保」(=右大臣相当)になるまで在職していたと思われます。

…ということで、北家の事実上の当主であった藤原永手が天平感宝元年(天平勝宝元年と同年)に復帰した後の天平勝宝2年になっても、まだまだ仲麻呂は舅・房前の法要関係を差配し、北家の当主然として振る舞っていたと考えられます。多分、仲麻呂死ぬまでこの調子だったんだろうか。これでは仲麻呂の乱の時、永手や真楯(八束)にボコボコにされても仕方がないかと…はああ…。



おまけ

もうひとつ正倉院文書で怪しいのがあるんですが
・経巻出入請軸等文書綴文(塵芥文書25裏、『大日本古文書』25 p.183)
 「北家謹牒 贈大東寺政所」天平勝寶七歳四月十六日
一応『大日本古文書』の注記では「北家」=藤原永手か?としているのだが、これも上記の文書を見るとかなりアヤシイです…実際は仲麻呂だった疑いががが

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