拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
…前回で、実は区切りの目出度い200首目突破したんですな…自分で入力して気が付かなかった(^^;)
天正18年2月に詠まれたものです。
このころは、文章を書くときに自分より位の高い人の前を1字空ける慣例があったのですが、何故か京橋口という地名の前も一字空いてます。何かと勘違いしたのか、印刷ミスか。
202首目は住吉大社に詣でた時に詠んだのは明白なのですが、この時代「住吉法楽」とか「住吉社法楽」と称する「住吉の神様に願掛けして百句or千句興行する」…という連歌が流行?していたようなんです 参考こちら(Google)
203首目は上の句しかないのですが、この企画恒例により一首として無理矢理カウントしてます(^^;)
住吉大社は梅の名所という話は聞いたことがないので、おそらく大阪天満宮にでも立ち寄ったものでしょうか。最も公式HPに乗っている略歴を見ると何回も炎上しているようで、この時どういう状況になっていたのかがはっきりしませんが。
天正18年2月に詠まれたものです。
「義久公御譜中」
天正十八年二月八日、 殿下秀吉公発於大坂赴於京師矣、龍伯往于 京橋口、見于 殿下也、
天正十八年庚寅二月吉日、詣住吉法楽、
「在御文書方」
千とせふる松の葉分のかすむ日や
空も春たつけしきなるらん 龍伯
「仝上」
難波の梅一見の折節、是を書付て置、
ふる跡にあらぬは梅のわか枝哉 龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編2-641)
このころは、文章を書くときに自分より位の高い人の前を1字空ける慣例があったのですが、何故か京橋口という地名の前も一字空いてます。何かと勘違いしたのか、印刷ミスか。
202首目は住吉大社に詣でた時に詠んだのは明白なのですが、この時代「住吉法楽」とか「住吉社法楽」と称する「住吉の神様に願掛けして百句or千句興行する」…という連歌が流行?していたようなんです 参考こちら(Google)
203首目は上の句しかないのですが、この企画恒例により一首として無理矢理カウントしてます(^^;)
住吉大社は梅の名所という話は聞いたことがないので、おそらく大阪天満宮にでも立ち寄ったものでしょうか。最も公式HPに乗っている略歴を見ると何回も炎上しているようで、この時どういう状況になっていたのかがはっきりしませんが。
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