拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
年紀不明、文禄元年以後慶長16年までの間に作られた物と考えられますが、文禄元年の項に掲載されています。
ご存じ、島津歳久が天正20年7月18日に梅北一揆の首謀者の一人とされ、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれます。これは義久の生涯においても痛恨の事件の一つであったと思われ、その後いくども挽歌を書いています。これはそれらの中でも最も有名な物で、島津義久の和歌の中でも有名な物の一つかと思います。
既に既出かと思っていたが、この項が初出のようです。
参考 1 2 3
「義久公御譜中」
往晴簑家之跡詠焉
住なれし跡の軒端をたつね来て
しつくならねとぬるゝ袖哉 龍伯
(「薩藩旧記雑録 後編」2-943)
ご存じ、島津歳久が天正20年7月18日に梅北一揆の首謀者の一人とされ、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれます。これは義久の生涯においても痛恨の事件の一つであったと思われ、その後いくども挽歌を書いています。これはそれらの中でも最も有名な物で、島津義久の和歌の中でも有名な物の一つかと思います。
既に既出かと思っていたが、この項が初出のようです。
参考 1 2 3
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