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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回に引き続き宰相殿(島津義弘正室)1周忌の歌会で、島津義久以外に列席した人の追悼歌です。
まずは「中略」部分に書かれていた物から。
ありかたき弥陀のおしへをつとめ行法のまとひは道しありけり 家久
他に家久公
あたなりと名にたつ花の盛さへ見はてぬ夢の世〃そつらけれ

しほりつる袖のなミたは小車のめくりあひぬるけふのかなしき 紹益

夢との〃すきし日数のけふに来て春に二たひ袖ぬらすかな 忠重

日移月往歳日層 追憶涙痕拭尚模 旧恨新然無処<扌多> 終霄独醒向残灯 貞昌

いつのまに送りきぬらんふち衣また二月のけふの悲しさ 景親

あたにミし花は散ぬるこその春又もや咲とおもふはかなさ 一和

奉和実窓芳眞大姉一周忌之追悼之尊句臣呈尊霊一前云尓
生死去来有孰応 唯看傀儡弄于棚 別然和涙朦々月 了々心空挑一灯 安意
(「薩藩旧記雑録」後編4-423)

このうち目立つのは「貞昌」こと伊勢貞昌が和歌ではなく漢詩を書いていることでしょう。もう一人最後に出てきた「安意」なる人物が漢詩を書いていますが、彼は副題から見て不断光院の僧侶ではないかと思われるので、漢詩であっても違和感はありません。しかし、居並ぶ家臣団や主君である家久が和歌を書く中で、貞昌は一人漢詩を書いたのです…悪目立ちもいいところですなヾ(^^;)

実は、伊勢貞昌という人は漢詩が得意というか和歌が嫌いだったらしく、管見では彼の書いた和歌はほとんどありません。島津家久(忠恒)が亡くなったときも追悼として書いたのは漢詩でした。
また、島津家中は家久(忠恒)が死んだ後は暫く和歌ブーム(?)が去り、家久(忠恒)の息子・光久も漢詩の方が得意だったようなのですが、これは伊勢貞昌の影響による物かも知れません。



島津義久の追悼歌の後に続く後略編は次項にて。

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