拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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最近流し見の『軍師官兵衛』ですが、昨日の放送分は拙ブログのメインネタ・戦国島津氏に関わってくる回なので、BSと総合の2回とも見てしまいました(^^;)
この数回は特に「官兵衛様マンセー臭」が一段とすごいので正直目も宛てられない状態なんですがヾ(--;)
特に島津ヲタから見て気になる点をいくつか指摘しておきます。
・ナレーションでごまかすかと思ってたので、実際に島津義久が出て来たときにはビックリしました。…まあ見事なやられキャラだったわけですがヾ(--;) ちなみに義久をやったのは永澤俊矢氏。もしかしたら後半もう一度出てくる可能性もあるかもね。
・その義久を何か髭もじゃの武将が3人ぐらい囲んでいたのだが、もしかしてあれ島津の残りの3兄弟???(○。○)なお、義弘は肖像画から見て髭は薄かった可能性が高いかと。
・ついでに、その義弘も1つだけ台詞を貰って最後当たりに登場していたのですが、オープニングを見てもキャスティングの所に全く名前を発見できず。まさかのモブキャラ?ヾ(--;)
・もうひとつついでに、あの会議の中で義久はイケイケ状態でしたが、実際はお通夜状態だったんじゃないかと。参考関ヶ原 島津退き口
・更に蛇足ながら、アレが島津4兄弟という仮定に立った場合の話ですが。島津4兄弟があの時期にああいう風に会合していた可能性は低いです。
・島津家の陣幕にあった家紋が「丸に”十”」だったのは結構かと。単なる「丸十」のことが多いんで。
・黒田官兵衛と毛利勢が初めて九州攻撃に参加した軍になってしまい、戸次川の戦いとか仙石の馬鹿秀久とか長宗我部信親の悲劇がなかったことに_| ̄|○
・吉川元春が官兵衛の煽りに負けて?九州御動座に参加したことになってましたが、賢明な皆様なら主人公補整というのはもうお察しかと。それより、元春は官兵衛から貰った鮭を食って死んだという話があったはずなんだが、どうなったヾ(--;)
・宇留津城攻め
島津氏の十字家紋の旗ばっかりでしたが、実際にこの城を防衛していたのは島津氏についていた地元の国人なので、あの旗の設定はダウトかと思われます。またこのあと伊丹城の荒木村重一族もビックリな大変悲惨な事件が起こるのですが、やはり主人公補整かすべてカットされたようです。 参考こちら
・時系列
ドラマでは「大友宗麟が秀吉に助けを求めに来る」→「秀吉がなかなか上洛しない家康に妹の旭を正室として押しつけることにする」→「吉川元春が九州攻めに参加」→「秀吉がそれでも上洛しない家康に母/大政所を人質として送りつける」→「家康上洛」→「黒田/毛利勢の宇留津城攻め」…となっておりましたが、ここらへんの流れは島津氏的には非常に重要なので(どうも秀吉が家康の処理に困っているのを見て、大友攻めを辞めなかった形跡があるので)、実際はどうだったのか比較してみます。と言ってもこの辺は専門じゃないので(ヲイ)ネットで検索したデータに頼る。
天正14年4月6日:大友宗麟が自ら大阪の秀吉に救援を求める
天正14年4月23日:旭姫が家康に嫁入り
天正14年10月18日:大政所が旭姫の見舞いとして駿府に下向
天正14年10月27日:家康、大坂城にて秀吉に拝謁
天正14年秋:宇留津城攻め
天正14年11月15日:吉川元春、小倉城にて客死
(天正14年12月12日:戸次川の戦い)
どうもネットでは宇留津城攻めの正確な月日が分からないので何とも言えないのですが、家康の臣従前に宇留津城が攻撃された可能性も捨てきれないかと。
・最後になりましたが、吉川元春の吉見一豊氏、蜂須賀小六のピエール瀧氏、お疲れ様でした。吉見氏はなにげに肖像画の元春に似てたように思う。ピエール氏は勿体ない使われ方でしたねえ。
最近流し見の『軍師官兵衛』ですが、昨日の放送分は拙ブログのメインネタ・戦国島津氏に関わってくる回なので、BSと総合の2回とも見てしまいました(^^;)
この数回は特に「官兵衛様マンセー臭」が一段とすごいので正直目も宛てられない状態なんですがヾ(--;)
特に島津ヲタから見て気になる点をいくつか指摘しておきます。
・ナレーションでごまかすかと思ってたので、実際に島津義久が出て来たときにはビックリしました。…まあ見事なやられキャラだったわけですがヾ(--;) ちなみに義久をやったのは永澤俊矢氏。もしかしたら後半もう一度出てくる可能性もあるかもね。
・その義久を何か髭もじゃの武将が3人ぐらい囲んでいたのだが、もしかしてあれ島津の残りの3兄弟???(○。○)なお、義弘は肖像画から見て髭は薄かった可能性が高いかと。
・ついでに、その義弘も1つだけ台詞を貰って最後当たりに登場していたのですが、オープニングを見てもキャスティングの所に全く名前を発見できず。まさかのモブキャラ?ヾ(--;)
・もうひとつついでに、あの会議の中で義久はイケイケ状態でしたが、実際はお通夜状態だったんじゃないかと。参考関ヶ原 島津退き口
・更に蛇足ながら、アレが島津4兄弟という仮定に立った場合の話ですが。島津4兄弟があの時期にああいう風に会合していた可能性は低いです。
・島津家の陣幕にあった家紋が「丸に”十”」だったのは結構かと。単なる「丸十」のことが多いんで。
・黒田官兵衛と毛利勢が初めて九州攻撃に参加した軍になってしまい、戸次川の戦いとか仙石の馬鹿秀久とか長宗我部信親の悲劇がなかったことに_| ̄|○
・吉川元春が官兵衛の煽りに負けて?九州御動座に参加したことになってましたが、賢明な皆様なら主人公補整というのはもうお察しかと。それより、元春は官兵衛から貰った鮭を食って死んだという話があったはずなんだが、どうなったヾ(--;)
・宇留津城攻め
島津氏の十字家紋の旗ばっかりでしたが、実際にこの城を防衛していたのは島津氏についていた地元の国人なので、あの旗の設定はダウトかと思われます。またこのあと伊丹城の荒木村重一族もビックリな大変悲惨な事件が起こるのですが、やはり主人公補整かすべてカットされたようです。 参考こちら
・時系列
ドラマでは「大友宗麟が秀吉に助けを求めに来る」→「秀吉がなかなか上洛しない家康に妹の旭を正室として押しつけることにする」→「吉川元春が九州攻めに参加」→「秀吉がそれでも上洛しない家康に母/大政所を人質として送りつける」→「家康上洛」→「黒田/毛利勢の宇留津城攻め」…となっておりましたが、ここらへんの流れは島津氏的には非常に重要なので(どうも秀吉が家康の処理に困っているのを見て、大友攻めを辞めなかった形跡があるので)、実際はどうだったのか比較してみます。と言ってもこの辺は専門じゃないので(ヲイ)ネットで検索したデータに頼る。
天正14年4月6日:大友宗麟が自ら大阪の秀吉に救援を求める
天正14年4月23日:旭姫が家康に嫁入り
天正14年10月18日:大政所が旭姫の見舞いとして駿府に下向
天正14年10月27日:家康、大坂城にて秀吉に拝謁
天正14年秋:宇留津城攻め
天正14年11月15日:吉川元春、小倉城にて客死
(天正14年12月12日:戸次川の戦い)
どうもネットでは宇留津城攻めの正確な月日が分からないので何とも言えないのですが、家康の臣従前に宇留津城が攻撃された可能性も捨てきれないかと。
・最後になりましたが、吉川元春の吉見一豊氏、蜂須賀小六のピエール瀧氏、お疲れ様でした。吉見氏はなにげに肖像画の元春に似てたように思う。ピエール氏は勿体ない使われ方でしたねえ。
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